毛利輝元は豊臣秀吉と深く関わる人物、この輝元の祖父は、一代で小規模な国人から中国地方の覇者となった毛利元就です。
毛利家の毛利元就は織田信長と親しくしていた戦国武将です。
27歳で家督を継ぎ、75歳で亡くなるまでの功績は数多く、謀将※1とも称されています。
※1.謀将(ぼうしょう)とは、計略にひいでた将。はかりごとごとの上手な指揮官。
この毛利元就は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三傑に並び立つとされた人物で、その毛利元就の孫が毛利輝元です。
じゃあ父親はどうしたかというと、永禄6年(1563年)父・隆元が急死しちゃったために、若くして毛利家の家督を継承し、祖父・毛利元就や2人の叔父・吉川元春や小早川隆景らによる後見を、また、元服に際し、室町幕府の将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて輝元と名乗ったされる。
毛利輝元と領国
家督をついだ毛利輝元は、祖父・毛利元就と二頭体制を敷いて領国の統治にあたり、元亀2年(1571年)6月に祖父・元就が死去すると親政※2を開始した。
※2.親政とは、天子自ら政治を行うこと。また、そのような政治。
その間、尼子氏を滅ぼした他、尼子氏残党の蜂起※3、大内輝弘の乱、大友氏との戦いなど対しては共同で対処し、領国の維持に務めている。
※3.蜂起(ほうき)とは、はちが巣から一時に飛び立つように、大勢が力に訴えるためにいっせいに立ち上がること。
毛利輝元は、足利将軍・足利義昭を擁する織田信長とは当初、軍事的な同盟関係にあって中央政権との友好な関係を築いていた。
将軍・足利義昭と織田信長の関係が悪化すると毛利輝元も義昭に味方にならなかった。
だが、信長が中央政権としての道を本格に歩みはじめると、毛利氏との全面戦争は避けつつも、その領国に圧迫を加えるようになった。
加えて、信長の領国拡大路線により、毛利氏と織田氏が領国を接するようになると、争いは避けられなくなった。
そして、天正4年(1576年)に足利義昭が備後の鞆に亡命してくると、輝元は、これを庇護し、亡命政権・鞆幕府※4を樹立させた。
※4.鞆幕府(ともばくふ)とは、備後国の鞆(現・広島県福山市)に存在した室町幕府の亡命政権。
そして、織田氏との同盟を破棄して、武田氏や上杉氏、石山本願寺らと同盟し、織豊政権※と畿内及び中国地方で争いを繰り広げた。
※.織豊政権(しょくほうせいけん)とは、16世紀後半、織田信長、ついで豊臣秀吉によって樹立された武家政権。安土桃山時代がその時期にあたり、近世封建大勢の基礎が確立された。
また、毛利輝元は将軍・義昭から副将軍に任じられ、織田氏との争いの過程で尼子氏の残党にも勝利し、祖父・元就を超える広大な領土を獲得した。
しかし、毛利氏と同盟していた勢力が信長によって各個撃破され、また、中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉の攻勢に対抗しきれず次第に追い詰められた。
だが、天正10年(1582年)6月に信長が本能寺の変で討たれると、輝元は秀吉と一時的に和平を結び危機を脱した。
その後、輝元は秀吉と数年争うも、やがて国境策定に応じ、祖父以来の領地を安堵され、織豊政権との争いを終わらせた。
また、秀吉の天下統一戦争にも協力し、四国攻めや九州攻めでは先陣を任されている。
毛利輝元と豊臣秀吉の関係について
天下統一を目の前に、信長は本能寺の変で明智光秀に討ち取られた。
その織田信長から中国攻めを任され、中国地方の覇者でもある毛利側と向き合っていたのが羽柴秀吉でした。
その強力な軍事力で毛利の領土をジリジリと削り取っていった中で、向き合っていた備中高松城にて大きな衝撃が走ります。
それは本能寺の変です。
これにより事態は一変、毛利と向き合っているどころではなくなった秀吉は、清水宗春の切腹と引き換えに講和を結ぶと畿内に帰還、いわゆる「中国大返し」です。
しかし、その時、秀吉は本能寺の変のことは知らせていません。
実際毛利が本能寺の変を知ったのは秀吉と講和を結んでから知った。
後から本能寺の変を知った毛利とすれば「してやられた」とも思ったことでしょう。
実際、その時に吉川元春は追撃を主張したとされていますが、小早川隆景は一度話をまとめてしまったからと追撃を断念してしまった。
いずれにせよ毛利側は畿内に帰還する秀吉を何もせず行かしてしまった。
しかし、山崎の戦いの後、すぐに秀吉と講和したのかといえば違います。
むしろすぐに秀吉と誼を結んだのは上杉景勝でした。
本能寺の変が起きなければ、そのまま織田軍の突撃を許していたであろう上杉景勝は、本能寺の変の直後から秀吉と距離を縮め、賤ヶ岳の戦いでは既に秀吉側についています。
一方、毛利は山崎の戦いにて戦勝祝いは送ったものの、実はこの時点では、まだ、一部地域で先頭が継続されていました。
毛利と秀吉の鍵となった足利義昭
毛利輝元と秀吉の関係を占ううえで欠かせないのが足利義昭です。
言わずと知れた室町幕府15代将軍ですが、信長に京を追われた後、義昭は毛利家に匿われていましたが、いずれは京にとの思いがあったのでしょう。
賤ヶ岳の戦いが起きると、柴田勝家から足利義昭に毛利にこちらにつくよう説得してもらいたい」とお願いされます。
賤ヶ岳の戦いの時には秀吉も毛利と講和を結ぼうとしていたのですが、この時点では「どちらが勝つか分からない」と、毛利は中立を決め込みます。
その後も柴田勝家の動きに呼応するようにと、義昭は何度も毛利に出陣を促すのですが、毛利はこれに応えることなく中立を決め込みました。
そして賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、秀吉は毛利に対して強気に出ます。
領土割譲案を出し、従わないなら毛利に再侵攻するとも宣言していたのです。
一時は、毛利側から人質を出すと提案したものの、「時間稼ぎ」だと処断されたほど、毛利と秀吉の関係は悪化していました。
毛利だけを相手にできなかった秀吉は、一方で、秀吉とすればまだまだ敵に囲まれた状態でした。
賤ヶ岳の戦いで勝利を収めたものの、次に立ちはだかったのは、かつての主君の盟友である徳川家康です。
いわゆる、小牧・長久手の戦いへと突入する抗争ですが、この時、秀吉は毛利を警戒していました。
徳川家康や織田信雄との争いの中で毛利が上洛してくるのではとの警戒心があったようで、宇喜多秀家に対して毛利を警戒するよう指示しています。
ちなみに小牧・長久手の戦いでも、毛利は中立を決め込んでいました。
毛利とすれば、秀吉と軍事衝突したとしても勝てるとの見込みがあったようですが、いずれにせよ「本能寺の変で追撃しなかったことで毛利と秀吉に信頼関係が育まれた」ということは一切なく、むしろその後、険悪な関係になっています。
小牧・長久手の戦いの終結
小牧・長久手の戦いは、どちらが勝者かを断定するのは難しいですが、結果だけをみれば、その後、家康が秀吉に頭を下げているので、広い意味では秀吉の勝利ではないでしょうか。
しかし、この決着は毛利にとってはあまり都合の良いものはありませんでした。
なぜなら、これによって秀吉は畿内にほぼ敵がいなくなります。
さらには隣接している領土を考えると、次に秀吉が狙うのは西国であるのは火を見るより明らかでした。
そこで、毛利は秀吉と本腰を入れて講和を結ぶことになります。
かつては領土割譲案に反対した時には、割譲を迫られた領土に国人衆がいました。
説得が難しいことも領土割譲案を飲めなかった理由とされていますが、既にこの頃には国人たちが退去していたこともあり、領土割譲も比較的スムーズに行われました。
秀吉とすれば、西国に本気で向き合う中で、長宗我部や島津、毛利が一丸となられたら困る思いもあったのかも知れませんが、この講話にて毛利は信長の代から続いていた戦闘が集結しました。
豊臣秀吉政権下での毛利
その後、毛利として決して大大名としてあぐらをかいていた訳ではありません。
四国、さらには九州攻めでは協力していますし、朝鮮出兵にも勿論派兵しています。
これらはいわば信頼回復のためとの側面もあったかもしれませんが、四国攻めに関しては、かつて信長と対抗するために長宗我部、さらには長らく友好関係にあった河野氏もいましたが、秀吉と講話したことでそれらを解消します。
また、島津に関しても対大友のために軍事同盟を結んでいたのですが、これも解消。
つまり、毛利は秀吉と講和したために、かつての誼を結んでいた大名を切り捨てたことになります。
むしろ秀吉の九州征伐は大友を救うという大義名分もありあり、毛利からすればかつての敵のために、盟友を攻めることになったのでした。
九州征伐後に上洛・臣従
実はこの時点では、毛利と秀吉の関係は「盟友」です。
なぜなら、どちらが頭を下げたとかではなく、あくまでも領土割譲案に合意した対等な関係であり、四国征伐は、「盟友に協力する」というスタンスでした。
しかし、九州征伐が終わると、毛利輝元は上洛し、秀吉に頭を下げることで事実上臣従しました、この頃には毛利輝元は32歳の立派な大人になっていました。
しかし、豊臣秀吉の配下につくことは、毛利輝元自らが考えたのではなく、叔父の小早川隆景と毛利家の軍僧・安国恵瓊の策と思われます。
豊臣秀吉が各大名を集めたとき、毛利輝元は叔父・小早川隆景と共にすみやかに上洛。この上洛がとても楽しかったようで、毛利輝元は道中の記録を付けた「天正記」や「輝元公上洛日記」などに、細かくスケジュールや気持ちなどを残しています。
初めは気の進まない上洛でしたが、豊臣秀吉の心尽くしの接待を受け、毛利輝元はすっかり豊臣秀吉に夢中になったようです。
豊臣秀吉も西の大国の長である毛利輝元を気に入ったようで、豊臣と羽柴の姓まで与えました。
その後、毛利輝元は「羽柴安芸宰相」(はしばあきのさいしょう)と呼ばれるようになり、豊臣秀吉の天下統一のために尽力して、最終的には「豊臣五大老」のひとりとなっています。
しかし、華々しい戦の戦歴などは毛利輝元には残されておらず、上洛前の「九州征伐」では先方となって出陣した記録はありますが、毛利輝元の武功詳細は分かりません。
ただ、この九州討伐では各軍の兵糧が手薄で、毛利輝元は困った大名達に兵糧を気前よく渡し、のちに返そうとした大名達に「皆での勝利の祝品として贈り物とします」と答え、応じなかったとのこと。毛利輝元の人の良さが垣間見られる逸話は、多く残されています。
つまり、臣従したタイミングとしては長宗我部や島津よりも後になります。
もちろん講和を結んでからは敵対していた訳ではありませんので、長宗我部や島津の臣従とは少々意味が異なりますが、決して「本能寺の変後に秀吉に近いた」ではないことが分かります。
領土変化のピンチ
実は毛利は一度、秀吉政権下にて配置転換をせまらました。
九州制圧後、備前・伯耆・備後・伊予から豊前・筑前・筑後・肥後にと提案されたものの、これは輝元が大反対し結局は筑前・筑後に小早川隆景を与えるにとどまりました。
もしも、この時毛利が九州を収めていたら、その後の歴史も大きく変わっていたかもしっれません。
まとめ
秀吉と毛利の距離感を改めて見直すと、本能寺の変で追撃しなかったことは。さほど影響していないと考えられます。
仲良くなってからは、そのような話で盛り上がったかもしれませんが、決して本能寺の変で追撃して来なかったことから、毛利に対して恩義を感じていた・・・とは、秀吉の行動からは判断できないように感じますが。