紫式部は藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信の娘であるが、幼少期に亡くしたと言われるが、生きた時代は、藤原氏の全盛期にあたります。
もともと藤原氏の先祖は、乙巳の変※1から始まる大化の改新で活躍した中臣鎌足が、藤原姓を下賜されたのを始まりとなります。
※1.乙巳の変・大化の改新とは、飛鳥時代大化元年(645年)に中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我一族でありながら蘇我入鹿をよく思っていなかった蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き込み、反蘇我氏の勢力を拡大した。
645年7月10日に行われた三国の調の儀式(新羅・百済・高句麗からの貢ぎ物を受け取る儀式)の席上で、蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変です。その後、中大兄皇子は体制を刷新し大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
中臣鎌足=藤原鎌足となる。
藤原鎌足の子・藤原不比等(ふひと)は大宝律令編纂の中心的役割を果たすなど活躍し、娘を天皇の夫人にして皇室と姻戚関係を結び政治を主導した。
やがて藤原氏は藤原不比等の四人の息子を祖とする、南家・北家・式家・京家の四家に分け、平安時代初期にかけて四家が権力争いを繰り広げていった。
京家は栄えず、南家は一時勢力を伸ばしたものの衰退しました。
代わって式家が政権を主導するが、薬子の変※2によって没落し、北家が優位となった。
※2.薬子の変とは、平城太上天皇の変ともいい、平安時代初期に起こった事件です。大同5年(810年)に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。
平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。
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藤原一族内の争いに勝った北家
藤原北家は、不比等の息子・房前、その息子・真楯、その息子・内麻呂、その息子・冬嗣、その息子・藤原良房が清和天皇の外祖父となり、皇族以外で初めて摂政につき政治の実験を握る一方で、ライバルになりそうな有力貴族を排除していった。
※清和天皇の事を書いた記事があります。興味のある方は読んでください。
橘氏・伴氏・菅原道真そして安和の変※3で左大臣の源高明を失脚させると、藤原氏が政治的権力を独占してしまう。
そして摂政・関白となり権勢を極めた摂政政治を迎える。
※3.安和の変とは、平安時代の安和2年(969年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。源満仲らの謀反の密告により左大臣・源高明が失脚させられた。
以後、摂政・関白が常設されることとなった。
しかし、それでも権力闘争は終わらない。
今度は藤原氏の一族内で、氏長者を巡る争いを展開していった。
藤原兼家とその子嫡男・藤原道隆を経た弟、五男・道長の時代へと摂関政治は最盛期へと至っていった。
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摂関政治とは
紫式部が活躍した時代は、藤原道長を頂点とした摂関政治の最盛期にあたる。
摂関政治とは、摂政・関白が天皇の権限を代行補佐して政治を行う体制です。
▲摂関期の政治と地方との関係図
特に天皇が幼いときに、藤原氏のトップが摂政として国政を代行し、天皇が成人すると関白となり天皇を補佐した体制を指します。
ただし、平安王朝において権力の頂点に立つには、天皇の外戚、とくに外祖父となることが不可欠だった。
摂政・関白になっても外戚でなければ、天皇に対して影響力を行使することができなかったのです。
そこで、藤原氏の人々は娘を天皇の妃として入内させ、娘が産んだ子が皇子を天皇に即位させようとします。
さらに宮中に入った娘が天皇の寵愛を得るよう、娘の周りに清少納言(中宮・定子)や紫式部(中宮・彰子)のような教育豊かな女房達を仕えさせ、文化サロンを築いていった。
中宮・定子は、先の藤原道隆の娘に仕えたのは清少納言、中宮・彰子は弟・藤原道長の娘に仕えたのは紫式部です。
天皇はもちろん一条天皇の時代です。
まさに愛情と政治が密接に結びついた時代だったといえます。
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人事権を掌握して権力の頂点に立った藤原道長
藤原道長は思惑通り娘・彰子が一条天皇の子を産み、その子が天皇になり外戚となった摂関家・藤原道長は権力を手中に入れ、官職などの人事権を一手に握った。
そのため経済的な利益が大きい受領(地方長官)への任官を希望する貴族からの貢ぎ物が集まり、莫大な富も手にした。
紫式部も藤原道長の中流に属する受領階級の娘であった。