サロン「Salon」はフランス語で、貴族階級の社交場を意味します。
身分の高い貴族が宮廷や私邸などの一室に、学者や詩人など知的で教養豊かな人達を集めて、文学や芸術などの高尚な会話を楽しむ場所を提供した。
豊富な財力と、高い教養がなければ自分のサロンを持つことが出来ない。
平安時代のサロンに当たるもので有名なのは天皇の后にあたる中宮らが主催する社交場です。
例えば、一条天皇の后となった定子が清少納言らを集めてサロンを作れば、ライバルの彰子は紫式部らを集めてサロンを作り、どちらが文化的で教養ある女性であるかという事を張り合ったところです。
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中宮の教育係の女官たち
9世紀後半の宮廷では、歌合や管弦(かんげん)といった遊芸が盛んになり、後宮の妃たちにも和歌や琴などの教養が必須となっていきました。
10世紀の摂関時代には、文化サロンが生まれ、そのため女房には世話係のみならず、中宮の教育係としての役割も求められ、清少納言や紫式部など高い教養を持つ女性が抜擢されていった。
後宮文化の発信源となった女房(女官)たち
定子・彰子が並び立った一条天皇の時代、宮中には彼女達を中心とする二つのサロンがあり、それに加えて賀茂の斎院を務めていた選子内親王を中心とした斎院御所に栄えていた。
都の喧騒を離れた長閑な趣の斎院サロンを開いていた。
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中宮・定子サロン
清少納言を女房の筆頭に形成されていき、選りすぐりの貴族の娘が女房として仕えていました。
美しく賢いと評判の女房たちと親しくなりたい若君たちも集い、宮中には定子を中心として、気の利いた会話や芸術を楽しむサロンになっていきました。
例えば、清少納言は、定子から、「香炉峰の雪はどんなんであろうか」という問いを受けた際、漢詩のの知識を生かして、『白氏文集』にある「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかけて看る』という一文を踏まえ、簾をかかげて庭の雪を見せたという。
中宮・彰子サロン
紫式部が出仕した頃はすでに定子が没し、消滅していたが『紫式部日記』からは、定子没後、貴族の間には定子サロンを懐かしむ空気があった。
『源氏物語』の作者・紫式部、歌人で『和泉式部日記』の作者・和泉式部、同じく歌人の赤染衛門、伊勢大輔などの女流文化人を擁するサロンです。
紫式部は彰子に漢詩の講義をするなど、教育係としての役割を果たしています。
女性文化人が活躍する舞台として整えられた後宮サロンからは、定子に仕えた清少納言の他、彰子に仕えた紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔などが輩出された。
華やかにみえる後宮だが、女房たちの間では“いじめ”も横行していたようです。
紫式部は初出仕した際、すでに『源氏物語』の作者として知られていたためか、周りからやっかみを受けて無視されるという“いじめ”を受けている。
“いじめ”現代でも千年も前からあった悪い人間の性である。
気に病んだ紫式部は五ヶ月ほど引き籠もっており、苦労の様子が伺えます。
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齋藤選子内親王のサロン
彼女は、なんと57年に渡って斎院を勤め、文化的にも政治的にも大きな影響を与えた。
選子内親王の生涯を年代を追ってみて見ましょうか?
応和4年=康保元年(964年)4月24日に誕生します。
父は村上天皇、母は藤原安子(藤原師輔女)、同母兄に後の冷泉天皇、後の円融天皇います。
誕生した5日後母の安子崩御し、この年の8月内親王宣下され、康保4年(967年)4歳の時、父・村上天皇崩御してしまいます。
天延2年(975年)12歳の時、賀茂斎院にト定され、母の喪によって尊子内親王(冷泉天皇皇女)の後任になる。
貞元2年(977年)14歳の時、柴野の斎院御所に入る。
これより円融天皇、花山天皇、一条天皇、三条天皇、後一条天皇の5代、57年間にわたって斎院として奉仕することとなります。
斎院御所に入った選子内親王は、まさか自分がこんなに長きにわたって斎院を勤めることになろうとは、思わなかったと思われます。
この年、斎宮にト定された娘の規子内親王(村上天皇皇女)に付き従って伊勢に赴いた徽史女王(きしorよしこ)と歌の贈答をしています。
<内親王の歌>秋霧の たちて行くらん 梅雨けさに 心をつけて 思ひやるかな
<徽子女王の折り返し歌>よそながら たつ秋霧に いかなれや 野辺に袂は わかれぬものを
徽子女王は選子内親王を育ててくれた(女皇)子と親しかったので、彼女にとっては親戚の優しい叔母のように思えたのかもしれませんし、なによりも、かつては、現在の自分と同じく神に仕える身であったことに、親近感を感じていたのでしょう。
長徳5年(999年)36歳の正月、一条天皇の中宮・定子の元に文を送る。
一条天皇の寵愛を一身に受けながら、次第に叔父・藤原道長(中宮・彰子の父)によって圧迫されていく定子への励ましだったのでしょう。
いずれにしても、選子サロンと定子サロンとの交流が伺えるエピソードだと思います。
寛弘7年’(1010年)の47歳の4月、賀茂歳の折、一条大路の桟橋にて斎院の行列を見物していた藤原道長は、前を通りかかった選子内親王の車に向かい、外孫に当たる2人の皇子(後の後一条天皇と後朱雀天皇)を膝の上に抱き、「これはいか」と問いかけました。
すると内親王は、さっと紅の扇を出してサインを送り、通り過ぎたといいます。
権力者の藤原道長の問いかけさっと答える‥・なかなか政治感覚に優れています。
その翌日、選子内親王と藤原道長は、お互いに、「皇子たちをたたえる」「斎院をたたえる」という意味の歌の贈答もしてます。
寛弘9年=長和元年(1012年)49歳の時、和歌によって菩提を得たいと願い、『発心和歌集』を編む。
神に仕える斎宮や斎院は、仏教を忌み※1嫌うところがありましたが、選子内親王は若い頃から仏教に帰依してようです。
※1.忌み(いみ)とは、身を清め、言動を慎むこと。穢れ(けがれ)を避けて慎むこと。)
『発心和歌集』はそんな彼女の集大成です。
万寿3年(1026年)63際の時、太皇后・藤原彰子(後一条・後朱雀天皇の母、藤原道長の娘)が出家して、上東門院と称される。
自分よりズット若い彰子が出家したことにより、選子内親王も、この頃より出家願望が強くなってきた思われる。
長元4年(1031年)9月22日、68歳の時、老病のため密かに斎院を退下し、28日叔父・深覚を戒師として出家する。
斎院という肩の荷を下ろし、念願の出家を遂げた選子内親王のホットした姿が目に浮かんで来るような気がします。
歌人としても知られ、勅撰集に三十七首『玄々集』に二首選ばれています。
72歳で薨去(長元8年6月22日)