みなさん、こんにちは源氏物語は紫式部がいつ頃執筆し始めたか?
興味ありませんか?
源氏物語は、作者・紫式部の、夫・藤原宣孝が、長保3年(1001年)に当時都で流行ってた天然痘にかかって病死した悲しみを紛らわすために描き始めたとされています。
紫式部の結婚生活はわずか3年程で終わって、夫の死に触れた歌を多く残しており、深い悲しみから少しづつ喪失感から立ち直り始め、執筆開始は、その一年後から執筆をし物語を友人・知人にみせ、実家と親交のあった才人の具平親王にも読んでもらう中で、その存在は都の貴人たちの間で評判となって行きました。
やがて、この評判は、当時一条天皇に入内した娘・藤原彰子に仕えさせる女房を探していた藤原道長の耳に伝わった。
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中宮・彰子に仕える前に
紫式部は夫・藤原宣孝と死別した長保3年(1001年)から、中宮・彰子も仕える前の寛弘2・3年(1005年〜1006年)に京都で『源氏物語』の間に、世界最古の全54巻の長編小説を執筆し始めたと推定、およそ70年間に及ぶ時代について描かれており、文字数はおよそ100万文字程にのぼる長編小説です。
▲紫式部
源氏物語は3部構成
第一部(⒈〜33巻)光源氏の女性遍歴や成功の物語。
第二部(34〜41巻)栄華を極めた光源氏の転落・最後の物語。
第三部(42〜54巻)光源氏の息子・薫を中心とした物語。
紫式部の源氏物語は3部構成
紫式部の源氏物語は、編成としては3部構成になっております。
第一部(1〜33巻):光源氏の女性遍歴や成功の物語
内容:1.桐壺(きりつぼ)、2.帚木(ははきぎ)、3.空蝉(うつせみ)、4.夕顔(ゆうがお)、5.若紫(わかむらさき)、6.末摘花(すえつむはな)、7.紅葉賀(もみじのが)、8.花宴(はなのえん)、9.葵(あおい)、10.賢木(さかき)、11.花散里(はなちるさと)、12.須磨(すま)、13.明石(あかし)、14.澪標(みおつくし)、15.蓬生(よもぎう)、16.関屋(せきや)、17.絵合(えあわせ)、18.松風(まつかぜ)、19.薄雲(うすぐも)、20.朝顔(あさがお)、21.少女(おとめ)、22.玉鬘(たまかずら)、23.初音(はつね)、24.胡蝶(こちょう)、25.蛍(ほたる)、26.常夏(とこなつ)、27.篝火(かがりび)、28.野分(のわき)、29.行幸(みゆき)、30.藤袴(ふじばかま)、31.真木柱(まきばしら)、32.梅枝(うめがえ)、33.藤裏葉(ふじのうらば)
第二部(34〜41巻):栄華を極めた光源氏の転落・最後の物語
内容:34.若菜(わかな)、35.柏木(かしわぎ)、36.横笛(よこぶえ)、37.鈴虫(すずむし)、38.夕霧(ゆうぎり)、39.御法(みのり)、40.幻(まぼろし)、41.雲隠(くもがくれ)
第三部(42〜54巻):光源氏の息子・薫を中心とした物語
内容:42.匂宮(におうのみや)、43.紅梅(こうばい)、44.竹河(たけかわ)、45.橋姫(はしひめ)、46.椎本(しいがもと)、47.総角(あげまき)。48.早蕨(さわらび)、49.宿木(やどりぎ)、50.東屋(あずまや)、51.浮舟(うきふね)、52.蜻蛉(かげろう)、53.手習(てならい)、54.夢浮橋(ゆめのうきはし)
以上のように分かれています。
ずっと光源氏の話だと思われがちですが、実は、後半は息子の話となっているのです。
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石山寺の「源氏の間」で執筆
平安時代貴族や文学者の人気を集めた石山詣
石山寺は創建以降、東大寺の大仏建立を祈願した神聖な地として、多くの信仰を集め、また、真言密教の同情、学問の寺としても名を馳せ数多くの文学者が訪れていたという寺。
平安時代当時は、観音信仰が盛んで、西国観音霊場を、巡拝し参籠する人々が増えていたそうです。
貴族による石山詣も人気で、著名な女流文学者らも参籠していたとか、紫式部もその一人でした。
平安時代当時は、石山寺は京都の清水寺、奈良の長谷寺と並んで「三観音」の一つといわれました。
都に住む貴族たちにとって石山寺は都からほどよい距離ががある上に琵琶湖の風景も人気があった。
紫式部も源氏物語を起筆するにあたり、寛弘元年(1004年)7日間に渡って石山寺に参籠したと伝わります。
石山寺に伝わる「源氏の間」
紫式部も源氏物語を起筆(きひつ:書き始める)するにあたり、寛弘元年(1004年)、7日間に渡って石山寺に参籠したと伝わります。
紫式部が籠ったと伝わる『源氏の間』は、本堂の一角に往時の佇まいを残し「『石山寺縁起絵巻』には、天皇や皇族、高僧など、身分の高い人々が使う部屋として描かれています。
正中年間(1324〜1326年)に成立した詞書(ことばがき)には、鎌倉時代にはすでに『源氏の間』と呼ばれていたと記されておます。
源氏物語が着想され、後世に残る大作が、石山寺で書かれたとまことしやかに伝わっています。
村上天皇の皇女で文芸サロンの主催者だった選子内親王から中宮・彰子に「珍しい物語がないか?」と聞かれた彰子は、紫式部に創作を命じ、命じられた紫式部は石山寺に籠って書き始めたというもの。
これには懐疑的な見方も多いものの当寺には「源氏の間」が設ています。
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石山寺の月見から源氏物語へと
平安時代には京の貴族の間で観音詣が流行り、紫式部だけではなく、藤原道綱母や和泉式部といった多くの女流文学者が石山寺に参籠していました。
▲石山寺にある紫 式部像
観音詣とは、ご利益がすぐに現れる観音様に現世での成功や死後の極楽浄土を祈願というものです。
源氏物語の第十二帖『須磨』に、“月のいとはなやかに※さし出たるに、今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊び恋しく、所々眺め給ふらむかしと思いやり給ふにつけても、月の顔飲みみまもられ給ふ”の一説があります。
※.はなやかにとは、古文単語「はなやかなり/花やかなり/華やかなり」の意味・解説【形容動詞ナリ活用】
青年貴族が都から遠く離れた須磨で月を眺め、かつての暮らしを恋しく思うシーンは、紫式部が石山寺に参籠した際に構想し、そこから物語を書き始めたと伝えられています。
石山寺は、月見の美しさでも知られており、紫式部も湖面に映る十五夜の月を眺めているうち、物語の情景がふと脳裏に浮かんだのかもしれません。