美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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松平の始祖

徳川家康のルーツの松平氏という名前の由来と清和源氏出の疑問

投稿日:2024年2月20日 更新日:

   読者の皆さんこんにちは、徳川家康のルーツ松平氏だといってます。
松平氏という苗字に疑問を抱いた事ないですか?なんで松平がルーツだといえますか。

 

 

どうしてかというと、家康の始祖松平親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親と共に相模国の時宗総本山清浄光寺に逃げ込んで出家、徳阿弥と称し諸国を流浪して歩いた乞食坊主

.阿弥とは、阿弥陀仏を信仰する人々が用いた法名の一つであり、正式には阿弥陀仏(阿弥陀佛)号という。阿弥陀仏を信仰する人々は、正式な阿弥陀仏以外に、略称として、阿弥や阿という法号を使う。例えば他阿弥陀仏が正式な表記であれば、他阿弥、他阿などのように、略して表記する。阿弥号は、浄土教が広まった平安時代の後半から始まるが、鎌倉時代に入ると、時宗の衆徒(時衆と呼ばれる)が阿弥号を称するようになる。

 

 

だから本当の名前は徳という名だったかも知れません。

その何々阿弥に称した人々は、一般的には、乞食僧一種の賎民※1となって諸国を流浪して歩いていたという。

1.賎民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた。農民でもなく、定住もしていない芸能人手工業者に対しては、自己と異なる特別の世界に住む者として認識されていた。

 

 

そのような者が由緒正い家柄だったか疑問に思い記事を書きました。

家康のように天下を取った者は、勝てば官軍の如く自分の都合のいいように家柄系図を書き換えたと思っていいでしょう。

 

 

貴方は書き換えたことを信じますか?

 

 

確かに戦国時代徳川家康は、運があって、また三河武士たちの勇猛な働きによって、波瀾万丈の戦国の世を渡っていき、戦いに勝ったもん勝ちということで歴史を変えた家康。

 

 

江戸時代に入って松平家といえば、各藩の城主になっていました。

だけど松平姓は、元々養子に入ったところが松平だったということで松平を名乗っているだけ、本家の本元の城主の松平氏の系列はどうなったしょうか

 

 

戦国の世は戦いに勝ったもん勝ちということで歴史なんかはいかようにも変えられる。

 

 

すなわち、永禄9年(1566年)徳川家康が叙任奏請※2をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜を繋げたことが、日本史学者・渡辺世祐により論証されています。

※2.叙任奏請とは、中世、武家方から朝廷に対して武家の官職「叙任について奏請した推薦状。官途拳状。」

 

 

ということは関ヶ原の戦いで勝った家康が「征夷大将軍」を狙うため源氏の系統であると画作したとしか思えません。

 

 

今日の学会では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっていますが、これは家康の祖父・松平清康が三河を掠め取るにあたり、守護家である足利一門吉良氏への対抗上、新系の世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられています。

 

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家康の先祖初代・松平親氏

松平親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で、鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親と共に相模国の時宗総本山・清浄光寺に入って出家し、徳阿弥と称したとされる。

 

 

「乞食僧」「一種の難民」と表現される場合もある。

しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは、「武徳大成記」成立後の元禄以降であることが、煎本増夫(日本史学者)により明らかされています。

 

 

 

乞食坊主が松平姓を名乗るまで

もともと松平家は他人の名前だった苗字を乞食坊主だった徳阿弥が婿養子に入って松平姓※2を名乗ったのが始まりでした。

※2.徳川家の始祖と崇められたことから江戸期の諸資料では、父祖の譜では新田源氏世良田氏の末裔と記載されている。すなわち新田義重の4男・新田義季が新田荘徳川に住して得川を称した。義季の次男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった。その次男を次郎教氏、その教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である。満義の跡を政義、親季、有親と継いで、有親の子が親氏という)らしい。

 

 

徳阿弥が諸国を流浪しているときに、同行してた素浪人の石川孫三郎と、三河加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主・松平信重(太郎左衛門少尉)食客※3となったのがことの始まり。

※3.食客とは、中国の戦国時代に広まった風で、君主たちが才能のある人物を客として遇して※4養う代わりに、主人を助けるというもの。門客ともいう。

 

 

彼らの中には任侠の志を持つ者が多く、場合によっては、命を差し出すこともあった。逆に主人を裏切り殺害することもあった。

※4.遇するとは、人をもてなす。待遇する。客として丁重に◯◯◯・する。

 

 

松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたとされており、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗って婿養子のまま家督を継いでいったと言う。

 

これが本当だったら「ううん」と半信半疑で納得はする、だけで、この時代松平信重を殺害したとしてもおかしくないです。

 

 

そんな立派な先祖を持つ家柄の人間が、世を捨て乞食坊主になったりしてて、全国を流浪して生活するでしょうか不思議です。

 

 

もう一つ決定的な『松平氏由緒書』なものがあって、義父にあたる松平信重から先祖を尋ねられた徳阿弥(親氏)が、「わたくしと申しましのに東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と自ら氏素性の知れない者と回答しています。

 

 

松平姓跡を継いだ乞食坊主の親氏

婿養子になって松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子といわれているが(兄弟かも)泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主達を滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名・松平氏の基礎を築いたという。

※上記の親氏をクリックしていただくと詳しい記事があります、興味ある方は読んでください。

 

 

『松平氏由緒書』の記述から、実際には買得によって土地を獲得したというみる説もある。

 

 

親氏は武芸に通じ教養があり、信仰と慈悲の心が深く、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。

 

 

しかし、以上ような親氏の出自と事歴については。後世の松平氏・徳川氏の好きなように主張によるもので、傍証となる同時代史料が存在してないので、定説がまかり通っている。

 

 

このため、即述した論考の他、松平氏創業お二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができない。

 

 

事実、親氏の幼少期は全く不明、父・得川有親についても事実性が疑われる。

 

 

 

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