赤染衛門の生涯は、平安時代中期の女流歌人であり、藤原道長の妻・源倫子とその娘、中宮・彰子に仕えた女房です。
紫式部は同時代の女房で、一緒に学問を指南し合い交流を深めた仲、赤添衛門は歌才に優れた女流歌人であり、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙の一人としても知られています。
良妻賢母として有名で、信仰と子供の育成に尽力した女性です。
NHK大河ドラマでは、元宝塚のトップスターの“鳳稀かなめ”が赤染衛門役を演じ。知性と色気を兼備えた女性で、衣装姿が美しく所作も気品に満ちています。
赤染衛門の経歴
赤染衛門は生没年不詳です。
長久2年(1041年)以後、80歳を越えて没したとされています。
赤染時用の娘ですが、母が初め平兼盛の妻だったことから兼盛の娘ともいわれていますが、この時代DNAがありませんので定かではありません。
本名も不詳です。
赤添衛門の名は、父が大内裏の諸門を警護する右衛門府の心や尉の位であったことにちなむものです。
当時の女子には名前が無かったので、通称で呼び合っていたのです。
Wikipediaによると、赤染衛門の父は赤染時用という人物で、官職が右衛門志だったので、赤染衛門を通称としていたのです。
紫式部や清少納言の父親より低い官職です。
今の放送回での道長の官職が右兵衛権佐ですからそれより2ランク下です。
ちなみに赤染氏は、三国志に出てくる公孫淵の子孫を称する渡来系の古代士族で、奈良時代に散見されますがその後は没落し、「あの赤染衛門の父親」ということで赤染時用の名前が伝わっているだけです。
赤染衛門の前半生の確かな記録はありませんが、文章博士・大江匡衞と結婚したのが、貞元年間(976〜978年)とされ、息子・挙周や女流歌人として活躍した娘・江侍従がいます。
赤染衛門の歌風
『捨遺和歌集』※1以下の勅撰和歌集に93首が入選。その歌風は『古今和歌集』の歌風を忠実に継承し、理知的で詠風を示している。
※1.捨遺和歌集(しゅういわかしゅう)とは、『古今和歌集』『後撰和歌集』 ※2に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。
※2.勅撰和歌集(ごせんわかしゅう)とは、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。
西暦950年代成立。体裁は『古今和歌集』に倣い、春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の20巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。
平安時代中期において活躍した女流歌人として「、和泉式部と並んで称されている。
『俊頼髄脳』では赤染衛門よりも和泉式部が高く評価されたが、鴨長明『無名抄』では赤染衛門の方が高く評価された。
文学作品
文献『栄花物語正編三十巻』・作者として有力視される。
歌集『赤染衛門集』
和歌
小倉百人一首 / 五十九番
やすらぎで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
姉妹のもとに通っていた藤原道隆が訪れなかったため、姉妹のため、和歌を代作した。
▲小倉百人一首
説話
息子の大江拳周が重病を患っていた際、「大江拳周の重病の原因は、住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は拳周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわからん ことぞ悲しき」との和歌を住吉神社の祭殿に奉納した。
赤染衛門の拳周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、拳周の重病は根治したという。
赤染衛門が生きた時代
清少納言、紫式部、和泉式部など、そうそうたるメンバーが並び立った、宮中女流文学の華やかな時代を代表する人物の一人が赤染衛門です。
藤原兼家の五男の藤原道長が関白へと出世、さらに子の藤原頼道へと、道長・頼道の栄華をごく間近で見届けた女性でもあります。
紫式部も一目置く存在
赤染衛門は、宇多天皇の孫・源雅信邸に出仕しており、さらに、中宮・彰子やその父・道長の正妻・倫子と娘・彰子に仕えます。<br/.>彰子等に文学などを教え紫式部、和泉式部、清少納言らとも親交がありました。
さらに、紫式部は赤染衛門の歌についても、「世に知られている歌はみな、ちょっとした折々のことも、こちらが恥じ入るほどの詠みぶり」と称しています。
微笑ましいばかりの夫婦仲の良さや本格派の歌人として、紫式部も一目置く女性が赤染衛門でした。