伊達政宗といえば、独眼竜政宗という呼び名は映画・ドラマで知ってるでしょう。
政宗が育んだ日本遺産の文化、仙台市とその周辺には、伊達政宗の美意識が受け継がれています。
仙台の大崎八幡や松島の瑞巌寺は、桃山様式に輝く“みちのく”の至宝※です。
※.至宝とは、この上なく大切な宝。
いずれも政宗が、東北の優れた文化を示そうとしたものです。
伊達家の歴代当主も、政宗の美意識を引き継いでいきました。
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奈良医大、朝廷が東北統治の拠点とした多賀城、伊達家の当主はこうした旧跡を、東北の名所として整備します。
日本三景の松島も、伊達家によって、その美しさが世に広まったのです。
伝統工芸の数々も、粋で斬新な“伊達な”文化の継承者です。
それには」戦国の世を戦い勝利してきたからできた事です。
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伊達政宗誕生・戦国時代に突入
父・伊達輝政の長男として1567年(永禄10年)8月3日、出羽国米沢城に生まれ、母は最上氏義守の娘・義姫の間に誕生。
その頃の日本は、有力な戦国大名たちが各地で戦いを繰り返し、織田信長はすでに桶狭間の戦いで今川義元を破り、6年後の天正元年(1573年)には室町幕府を滅ぼす。
そんな時代に、生まれ幼名を梵天丸と名乗り11歳で元服して名を「政宗」としました。
この名は9世大膳太夫政宗の名にちなんで名付けられたものです。
天正7年13歳で三春城城主・田村清顕の息女・愛姫と婚姻し、天正12年18歳で伊達家17世で家督を相続しました。
翌年父・輝宗が畠山義継に殺されると、反撃に出て畠山氏を走らせ二本松城を収めました。
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その後、佐竹・蘆名(あしな)・岩城・石川・白河らの連合軍と戦い、仙道人取橋の戦い撃退しました。
同17年宿敵蘆名氏を磐梯山麓の摺上腹に破って合図を略取して黒川城に入ります。
会津4郡・仙台7郡を合わせ収め最大の領主を得て、南奥における伊達氏の制覇をほぼ実現させた独眼竜政宗と家臣・片倉小十郎景綱は、小十郎は幼い頃に神職だった父と母が死去し、姉に育てられました。
姉が伊達政宗の乳母(めのと)育ての母となったため、片倉小十郎景綱も伊達政宗の父・伊達輝宗の従小姓となり、やがて政宗の傅役(もりやく=教育係)に抜擢され、重臣となり活躍しました。
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片倉小十郎景綱という男
先に述べた様に、初代藩主・伊達政宗の重臣で傅役=教育係で白石城の城主です。
頭の回転が速く決断力にも優れていたため、政宗のピンチを何度も救い、政宗に信頼されました。
主・伊達政宗は勿論の事、秀吉・家康からも高く評価された軍師・片倉小十郎景綱です。
伊達政宗よりも10歳上の片倉小十郎景綱は、「智の小十郎」と呼ばれたほど智の優れた人物、ときに優しく、ときに冷酷に、戦国の時代の中で生きる術を政宗に厳しく教え込みました。
天正12年(1584年)18歳で家督を相続、当時、伊達氏は鎌倉時代から続く有力大名、会津の蘆名氏(あしなし)と敵対、政宗が当主なると伊達方の大内貞綱が蘆名方に寝返ると言う事件が起きた。
これを機会に蘆名氏を討ってしまおうと考えたのです、しかし、戦ってすんなりと勝てる相手ではないため家臣は大反対したため、政宗が迷い始めると、片倉小十郎は、「一度決断した後で撤回すれば兵を失う要因になります」と進言した。
そのため、政宗はその言葉を信じ蘆名氏攻めに踏切った。
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片倉小十郎の子誕生
政宗「私を許して無事に育ててくれ」という。
片倉小十郎「いや、そういうワケには‥‥いかぬ‥‥」。
政宗「お願いだから、儂に免じて子を助けてやってくれ」。
片倉小十郎「そんな‥‥不忠はできませぬ」。
これは主・伊達政宗と家臣・片倉小十郎の会話、実は片倉小十郎の妻が子を宿したが、当時18歳の主に子がなく、28歳の片倉小十郎に子ができ殿に子が無いのに先に子を持つ事が不忠と考えた結果の会話である。
小十郎からしてみたら主君より先に子供を持つことが不忠と自分のを許せずにいた。
そのため、生まれてくる我が子を手にかけようと考えたのであった。
それを知った政宗が慌てて片倉小十郎景綱に手紙を送り必死で説得したという。
こうして片倉小十郎は主君・政宗の意向に従い我が子に手をかけずにすんだ。
片倉小十郎景綱は、「智」と「武」を兼ね備えた政宗の右腕といわれる補佐役であった。
父のようでもあり、兄のようでもあり、時には諌め、時には盾となって政宗を守ってきた、一生涯、伊達政宗に忠誠を誓った熱き武将・片倉小十郎景綱であったとされている。
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秀吉にヘットハンティングされた
片倉小十郎伊達家を救った知恵と度胸
こんな苛烈※1な忠義を抱く片倉景綱という男は、どのような人物なのか?
※1.苛烈(かれつ)とは、(むごいほど)きびしく激しさま。
豊臣秀吉にヘッドハンティングされ、徳川家康にも熱い視線を注がれた片倉景綱。
大阪夏の陣において豊臣方の名将・後藤又兵衛を自刃に追い込んだ片倉重長(片倉景綱の息子)伊達騒動で幼君・伊達綱村を支えて藩内の混乱を防いだ国家老・片倉景長も「小十郎」を名乗った。
初代・片倉景綱は政宗の父・輝宗の従小姓として仕えはじめ、のち政宗に近侍し、家老として軍師の役割を果たすようになる。
片倉小十郎が、もっとも活躍したのは秀吉の小田城攻め、政宗ら伊達家の面々は髪を水引きで結び、死に装束姿を秀吉と対面した。
この後秀吉が奥州に攻め入っており、政宗は宇都宮に参上し、豊臣方の大谷吉継の元に片倉小十郎を遣わした。
小十郎は、蘆名氏を攻めた事を詫び、主・政宗が死罪にならずにすんだ礼を述べたうえで、封印した2つの箱をおもむろに差し出した。
そして小十郎は、まず1つ目の箱の封を切って大谷吉継に渡し、「蘆名旧領の絵図目録でございます」これで蘆名の旧領は秀吉のものになった。
「伊達政宗の先祖より伝わる米沢絵図目録でございます」
と言って
2つ目の箱の封を切ろうとしたとき大谷吉継は止め、「封印のままお預かりいたす」
本領を差し出すあまりの潔さをみて吉継は己だけで判断しかねたのだった。
結果的に蘆名旧領は召し上げられたものの、米沢藩は無事にすんだ、片倉小十郎のあまりに堂々と「首」を預けた態度に秀吉が折れたのだった。
豊臣秀吉が会津に入る段取りとなり、「いつ城を明け渡してくださるのか」という問いに、片倉小十郎は事もなげに返答してみせた。
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黒川城(のちに会津若松城)をはじめ、他の城もすでに空けてございます。
城番の者こそおりますが明日にも明渡しできます。
これらの対外交涉が政宗の指示によるものなのか、片倉小十郎の判断によるものか?
おそらくは政宗の指示を的確に、そして大胆に堂々と実行した。
この交渉を目のあたりにした使者の大谷吉継だけではなく、秀吉も「伊達政宗、片倉小十郎は只者では無い」と感嘆したのだった。
この対外交渉により仙台藩外での小十郎の評判は高まり秀吉から大名に取り立てられた事もあったという。
仙台藩内においても片倉家は1万3千石を領する大名並で仙台藩第二の城「白石城」を預かっていた。
白石城は、江戸時代初期の一国一城令の例外として扱われたのは、その城主が片倉家だったからにほかならない秀吉も家康も仙台藩の片倉家には一目置いた。
片倉家は、大名としていつ独立してもいいほどの存在だった。