美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

竹中半兵衛

天下人・豊臣秀吉の影にいた智将!竹中半兵衛との関係を読み解く

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秀吉の家臣・両兵衛は、言わずと知れた竹中半兵衛・黒田官兵衛の名前で、両名は優れた智謀※1を持つ人物だった。

※1.智謀(ちぼう)とは、知恵に溢れる、うまい計略。

 

 

この二人の軍師が秀吉を天下人の片棒を担った事は間違いないでしょう。

特に若くして亡くなった竹中半兵衛戦略用兵に優れ無用な戦いを避けて敵を欺く策を好んで、温厚で人望厚く家臣や民から慕われていたが、天正7年(1579年)36歳という若さで病死した。

岐阜県出身で斎藤氏・織田信長・豊臣秀吉に仕えた竹中半兵衛

                    ▲竹中半兵衛

 

 

生い立ち

天文13年(1544年)、美濃国斎藤氏の家臣で大野郡大御堂城(現・岐阜県揖斐郡大野町)の城主・竹中重元の子として生まれる。

 

 

本名竹中重治(通称:半兵衛)、実家である竹中家は、美濃国内の土豪(地元の有力豪族)で、元々地域の国人(地方の有力武士)として地盤を持っていた。

 

 

岩手村は当時、交通の要所である中山道や関ヶ原にも近く戦略的にも重要な場所に位置しています。

 

 

半兵衛の父・竹中重元は、教養が高く、政治・軍事の才も持っていたから、半兵衛は幼少の頃からこの父に学び、兵法や処世術地元支配の実務などを身に着けていった。

 

 

当時、武将や知識人の間では『孫子』『呉子』などの中国古典兵法書が重んじられいき、半兵衛は若くして聡明だったため、幼少期より学を好み、もっぱら兵法書・軍楽書の研究に励んだといいます。

 

主な兵学書・戦略書

1.『孫子』作者:孫武(中国・春歌時代の軍略家)で、兵法の基本原理を13篇にまとめた書です。 戦わずして勝つ「兵は詭道なり(兵は騙し合い)」の思想が有名です。
影響された日本の戦国武将の多くが重視した武将が、知略型の武将(半兵衛、官兵衛、家康など)に特に好まれたようです。
2.『呉子(ごし)』作者:呉起(戦国時代の兵家)で、軍隊の統制や将軍の心得、敵に勝つための方策を説いています。
特徴としては、兵士の士気と規律を重んじ、「将は仁でなければならない」と説く点が特徴です。
3.『六韜(りくとう)』作者:伝・太公望(姜子牙)で、王や軍隊の理想的な姿、兵の動かし方などを、対話形式で記したものです。
特徴は、政治と軍事が一体であることを説き、謀略や心理戦にも触れています。
4.『三略』作者:伝・黄石公(架空とされる)で、軍事指導者が心がけるべき柔軟性や用兵の心理を説ています。
特徴としては、「柔能く剛を制す」のような思想が盛り込まれ、戦わずして勝つ精神に近いです。

 

上記の書物を独学で学び、半兵衛は若くして聡明だったため、これらの兵法を独学で学び応用したとも言われ、成人して安藤伊賀守守就娘を妻にし、父の死去後に斎藤龍興の下に属し稲葉山城下に居館を置いた。

 

 

織田信長に雇われ羽柴秀吉の配下になる

半兵衛による稲葉山城の占拠したとき、信長は「城の受け渡し」を半兵衛に申し入れますが、半兵衛「主君を諌めるためにした行為ある」と丁寧に断りました。

 

 

この行為は半兵衛のクーデターは主君・龍興に反省を求める行為だったため、その後、城を龍興に返却し隠棲します。

 

 

信長は、半兵衛なき稲葉山城を攻略し、斎藤家は滅亡しますが、隠棲した半兵衛を信長が放っておくわけがなかった。

 

 

織田軍の侵攻を2度も寡兵※2で撃退した上に、たった17人で稲葉山城を奪うという事をやってのける半兵衛を高く評価していた、斎藤家を去った半兵衛に対して、羽柴秀吉の配下に入れる形で勧誘に成功した。

※2.寡兵(かへい)とは、(敵よりも)少人数の部隊という意味。

 

 

喜んだのは秀吉、黒田官兵衛・竹中半兵衛と二人の軍師を信長様に充てがっていただき、その後、秀吉と共に、永禄11年(1568年)9月、六角承禎の居城観音寺城奪取、箕作城攻撃。

元亀元年(1570年)4月、越前朝倉義景の手筒山城、金ケ崎攻撃、同年6月には姉川の戦いに出陣、姉川の戦いに先立って浅井長政の重臣・鎌刃城主堀次郎、樋口三郎兵衛を調略し、信長の近江攻略に功をあげた。

姉川合戦後、半兵衛は秀吉と横山城を守り、数度の浅井・朝倉軍の襲撃を撃退した。

 

 

元亀元年(1572年)には、虎御前山在番を命じられた秀吉の先陣をつとめ、城の守りを固めて小谷城の浅井軍と対峙した。

浅井氏滅亡後も長浜に居城した秀吉に付き行動をともにした。

 

 

数多くの戦功や、長篠の戦いでは秀吉の窮地を救うなどの働きを見せますが、天正5年(1577年)、中国征伐を計画した信長は、秀吉を主将として派遣した。

 

 

半兵衛もこれに従い、秀吉が播磨に入ると、黒田官兵衛がその先導役を務める。

その後、半兵衛・官兵衛の2人は、秀吉の下で行動を共にするようになり、播磨の上月城、福岡野城攻撃で軍功をあげた。

 

翌6年、信長の部将であった有岡城主・荒木村重が、信長に離反すると、官兵衛は有岡城へ向かい説得を行うが幽閉されてしまう

 

 

官兵衛が荒木村重に幽閉中、信長は謀反を疑うが、半兵衛は官兵衛を信じ、殺害の命のあった官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を家臣の不破矢足邸に匿って養育した。

天正6年(1578年)、中国毛利攻めの拠点であった三木城別所氏が毛利方へ寝返り、秀吉によって三木城攻めが行われた。

 

 

半兵衛は秀吉の補佐役として参戦、備前八幡山城主、明石影親の調略などに成功し、信長に銀子100両を与えられた

 

 

しかし、出陣中、身体の不調を覚えた半兵衛は、一時京都で休養していたが、再度平井の本陣に帰り、天正7年(1579)6月13日に没した。

秀吉は限りなくかなしみ劉備が孔明を失ったようだと号泣したという。
享年36歳、法号深龍水徹。

 

 

半兵衛の容姿は婦人のようだと侮られるほどであったそうですが、その気骨や生き様は軍人そのものでした。

 

 

翌年、官兵衛は救出されるが、その時、半兵衛はすでにこの世を去っていた。

現在、不破矢足邸跡は五明稲荷社となっており、松寿丸が匿まわれた時に植えたといわれるイチョウの木が残っている。

 

 

初陣から斎藤家離れる

父・竹中重元が家臣として仕えていた斎藤道三の時、弘治2年(1556年)長良川の戦いが初陣です。

   ▲長良川から稲葉山城(岐阜城)を望む

 

父が不在のため代わりに大将を務め籠城戦の末、斎藤義龍軍を退けている。

永禄元年(1558年)に、父は、不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)に菩提山城を築いて居城を移し重治(半兵衛)もこれに従う。

 

 

永禄3年(1560年)、父の死去または隠居(一説に父の死去は、永禄5年(1562年)とも)により家督を相続し菩提山城主となった。

 

 

そして長良川の戦いで勝利した美濃国の国主・斎藤義龍に仕えた。

永禄4年(1561年)に義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。

 

 

この頃、尾張国の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢をよく防いでいたが、しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興は若年だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となったきた。

 

 

そのような状況を見た信長が、永禄4年(1561年)7月に美濃に侵攻し、永禄6年(1563年)にも新加納で織田勢と戦い、このときも竹中重治(半兵衛)の戦術のために斎藤勢は勝利したという。

 

 

稲葉山城事件

永禄7年(1564年)2月、半兵衛は稲葉山城に人質となっていた弟・久作の病気見舞いと称して家臣十数名を率いて登城し、城外に待機していた舅・安藤守就の軍勢とともに、龍興を追放した。

      ▲稲葉山城(岐阜城)

 

稲葉山城奪取の理由については、新年の饗宴の際、斎藤飛騨守が半兵衛を侮辱したためとも、龍興の家臣・日根野備中守と舅である安藤守就が争い、これを救うためとも、城主・龍興の愚行を戒めるためともいわれる。

 

ところが、主君・斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や西美濃三人衆を政務から遠ざけていった。

 

このため永禄7年(1564年)2月6日白昼、舅・安藤守就軍勢と斎藤龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲い、齋藤飛騨守ら6名を</討ち取り、城主・龍興を逃亡させた。

この後、半年ほどで城を退去した半兵衛は、栗原山などに閑居していたといわれる。

これを機に信長は美濃への圧力を強めていくことになる。

 

 

同年7月29日あたりまでは稲葉山城の占領は続いていたが(『敬念寺文書』)、8月には龍興に奪還されたようである。

 

 

自ら城主・龍興を諌め諭し、稲葉山城を龍興に返還したともされるが、半年にわたり戦闘が継続していたことから龍興を支援する勢力の攻撃により稲葉山城を放棄したとするのが正しいと思い、城を放棄した後は隠遁生活を送る。

 

 

永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われ、没落すると斎藤家を去り、北近江の戦国大名・浅井長政の客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の不破郡岩手へと帰り隠棲した。

 

 

 

-竹中半兵衛

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。