「戦国時代」と聞いて、あなたはどんな情景を思い浮かべますか?
華々しい天下統一の裏側には、主君や仲間のために自らの命を惜しげもなく捧げた、熱き家臣たちの姿がありました。
本記事では、数ある戦国時代の逸話の中でも、特に現代人の心を揺さぶる「忠義」を体現した2人の武将、毛受勝照と鳥居強右衛門をご紹介します。
激動の時代、極限状態の中で彼らが選んだ「命の使い道」とは何だったのか。
読めばきっと、彼らの矜持と熱い生き様に胸が熱くなるはずです。
戦国時代には命を懸けた家臣の「忠義」とは?
現代において「忠義」という言葉を聞くと、どこか主君からの命令に絶対服従するような、盲目的なイメージを抱く方も少なくないかもしれません。
しかし、戦国時代における家臣たちの忠義は、決して単なる強制や義務感だけでは説明できない、もっと泥臭く、そして人間味に溢れたものでした。
当時の武将たちにとって、自らの命を懸けるということは、自らの存在意義や誇りを証明する究極の手段でもあったのです。
裏切りや下剋上が日常茶飯事だった激動の時代だからこそ、極限状態で発揮される家臣の忠誠心は、敵味方問わず多くの人々の心を揺さぶり、時代を超えて語り継がれる輝きを放ちました。
主君と家臣を結ぶ「恩情」と「絆」
戦国時代の主従関係は、一方的な支配・被支配の形ではなく、本質的には「御恩と奉公」という深い信頼関係のギブ・アンド・テイクで成り立っていました。
主君が家臣の働きに対して領地(知行)や地位を与えて報い、時には親のように深い「恩情」を注ぐことになります。
家臣はそれに対して、己の命や能力を捧げる「奉公」で応えるという、血の通った「絆」が根底にあったのです。
特に、毛受勝照や鳥居強右衛門のように命を惜しまず戦った家臣たちの裏には、主君から受けたひときわ大きな恩義や、苦楽を共にしてきたからこそ生まれる強い情愛がありました。
彼らにとっての忠義とは、冷徹な主従のルールではなく、「この人のためなら、この仲間たちのためなら、自分の命を投げ出しても惜しくない」と思わせる、純粋な感情の結実だったと言えます。
歴史に名を残す名将たちの壮絶な逸話
このような固い絆に結ばれた主従や仲間たちのドラマは、数々の壮絶な逸話として歴史に刻まれています。
合戦に敗れ、自害を覚悟した主君を生き延びさせるために身代わりとなって敵陣へ突撃した家臣。
あるいは、包囲された城の中にいる仲間たちに希望を繋ぐため、敵の脅迫に屈せず真実を叫んで散っていった足軽の物語。
名将たちの影には、常に彼らを支え、歴史の決定的瞬間を動かした忠臣たちのドラマチックな最期がありました。
死の恐怖を前にしてもなお、自らの信念と役割を全うしようとした彼らの具体的なエピソードは、戦国という過酷な時代を生きた人間の、最も熱く美しい生き様を私たちに教えてくれます。
【毛受勝照の逸話】柴田勝家の身代わりとなった「盾」の忠義
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、織田家の宿老・柴田勝家を窮地から救い出したのが、若き近習の毛受勝照(荘助)でした。
毛受勝照の忠義は、迫り来る大軍の前に自らを「盾」として差し出し、主君の命を文字通り繋ぎ止めるという、壮絶極まる自己犠牲の物語です。
毛受勝照という武士
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で柴田勝家の家臣、通称初めは庄助または荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった。
尾張国春日井郡稲葉村(現・尾張旭市稲葉町)出身。
新居城主・水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。
毛受氏の出自については諸説あって、『稿本 毛受勝助』では、現在の一宮市大和町毛受が発祥である説、和泉国の百舌鳥氏が訛って毛受となった説、水野氏とは無縁である説等が考察されています。
▲毛受勝照
12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった。
17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに従軍した。
激戦の中、柴田勝家軍の馬印(騎標)※1が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。
※1.馬印(騎標)とは、戦国時代から江戸時代にかけて、戦場で総大将や武将の居場所を味方や敵に示すために掲げられた標識やシンボルのことです。
勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。
これを勝家に送り、再び敵中に突入した。
勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った勝家は毛受荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。
または「勝」と「家」の字の両方を与え、毛受勝介家照を名乗らせたとも伝わる。
敗戦の賤ヶ岳で見せた覚悟と馬印
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉の猛攻の前に柴田軍の敗色が濃厚となったとき、勝家は自害を覚悟します。
しかし毛受勝照はそれを必死に遮り、「一刻も早く本拠地の北ノ庄城へ退却し、再起を図ってください」と激論の末に説得した末撤退を促します。
撤退を承諾した勝家から、彼のトレードマークであった「金の御弊(ごへい)の馬印」を譲り受けました。
この馬印こそが、勝照が主君の「身代わり」になるという覚悟の証となって勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。
この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼んだ。
しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で秀吉軍に進んだ。
毛受勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。
勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25歳。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。
なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野に戻したと云う。
【鳥居強右衛門の逸話】仲間を救うため真実を叫んだ「声」の忠義
天正3年(1575年)の長篠の戦いで、絶体絶命の危機に陥った仲間を救ったのが、奥平信昌※2の家臣・鳥居強右衛門でした。
※2.奥平信昌とは、徳川家康の長女・亀姫と結婚した武将。
天正3年(1575年)の長篠の戦いのとき、長篠城主であった奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守しました。
この功績により、翌年、奥平貞昌は、信長から一字をもらい奥平信昌と改名し、郷ケ原に新城城を築きました。
同年12月、信長のとりなしで家康の長女・亀姫をめとり、4男1女をもうけました。
信昌の新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来にもなっています。
奥平家のふるさとは群馬県吉井町下奥平にあります。
8代貞俊の時、作手村に移り、12代貞能、13代貞昌は、今川、徳川、武田に属しながら戦国の世を生きのびました。
長篠・設楽原の戦いを経て、新城城主となった奥平信昌(貞昌)は、天正18年(1590年)家康の関東入国と同時に上州宮崎(群馬県富岡市)に移り、その後、初代京都所司代となり、慶長6年(1601年)岐阜加納10万石の大名となりました。
加納では、城下の整備や治山治水事業につとめ、元和元年(1615年) 61歳で死去しています。
加納奥平は3代で絶えますが、宗家にあたる宇都宮奥平は家昌・忠昌・昌能・昌章と続き、昌成のときに豊前国中津10万石の大名として迎えられました。
藩主は、昌成・昌敦・昌鹿・昌男・昌高・昌暢・昌猷・昌服・昌邁と続き、最後の昌邁は華族令の施行により、明治17年伯爵に任ぜらています。
大分県中津市の奥平神社では、毎年5月21日に奥平家の子孫が、信昌の長篠籠城を偲び、「たにし祭」を行っています。
鳥居強右衛門とう武士
身分は低くとも、託された使命を全うするために自らの命を「声」に変え、城内へ希望を届けた彼の行動は、今も語り継がれる忠義の象徴です。
鳥居強右衛門は、戦国時代の日本の足軽で奥平家の家臣。
名は勝商。
鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。
現存する数少ない資料によると、鳥居強右衛門は、天文9年(1540年)に三河国宝飯郡内(現・豊川市市田町)で生まれ、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。
奥平氏はもともと今川氏や織田氏・松平氏(徳川氏)と所属先を転々とした国衆であったが、元亀年間中は甲斐の武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。
ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。
奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍が包囲した。
5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。
落城寸前の長篠城と、決死の岡崎城激走
武田勝頼の1万5000の大軍に囲まれた長篠城は、5月13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。
食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められ、奥平貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。
この命がけの困難な役目を自ら志願したのが鳥居強右衛門であった。
しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。
城の窮地を救うため、14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発し川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破し、翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡した鳥居強右衛門でした。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。
この時、信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。
これを知って喜んだ鳥居強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。
落城寸前の長篠城と、決死の岡崎城激走
16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた、ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。
▲▲▲洲周延『鳥居強右衛門敵捕味方城中忠言とりいすねえもん てきにとらわれ みかたのじょうちゅうへちゅうげんす』1893年(明治26年)刊。縦大判錦絵三枚続の武者絵。武田方に捕まった鳥居強右衛門(中央)は、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、面従腹背してまんまと城に近付き、「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。周りの敵兵は叫ぶ強右衛門を慌てて押さえ込もうとしているが、時すでに遅し。▲▲▲
強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った武田勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。
そこで武田勝頼は、命令に従えば鳥居強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇すること条件に、援軍は来ないから諦めて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。
磔の刑を恐れず、城内へ繋いだ希望の吉報
こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。
これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。
しかし、この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた奥平貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。
援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった鳥居強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。
【比較】毛受勝照と鳥居強右衛門、2人の家臣が遺したもの
毛受勝照と鳥居強右衛門、二人の家臣が遺したものは何だったのか?
立場や最期の場面、状態、境遇は異なりますが、2人が遺したものはどちらも「極限状態における自己犠牲」の美学です。
彼らの行動を振り返ると、何を目的として命を懸けたのか、それぞれの忠義の形が見えてきます。
「主君の命」を救うための自己犠牲
毛受勝照の忠義は、主君である柴田勝家の命を最優先に考えたものでした。
敗戦の絶望のなか、主君に生き延びて再起してもらうため、自らが身代わりの「盾」となる道を選んだ行動です。
武士としての高いプライドと主君への深い恩義に突き動かされた彼の行動は、まさに主従の絆の深さを証明する、格式高く壮絶な自己犠牲でした。
「仲間の未来」を紡ぐための意志の強さ
足軽という身分の低さだった鳥居強右衛門の忠義は、主君だけでなく「ともに戦う仲間の未来」を救うためのものでした。
敵の甘い誘惑や死の恐怖に屈せず、城内にいる仲間たちの心を折れさせないために真実を叫ぶ。
彼の遺したものは、託された使命を命懸けで全うするという、一人の人間としての凄まじい意志の強さでした。
まとめ
毛受勝照と鳥居強右衛門の二人は、自らの命を「盾」や「声」に変えて戦った2人の逸話は、時代を超えて今なお私たちの心を激しく揺さぶります。
二人が命を懸けて示した忠義とは、決して強制された義務などではなく、主君や仲間との固い絆、そして託された使命に対する「誠実さ」そのものでした。
その壮絶な生き様と美しい最期は、激動の戦国時代において人間が残した至高の精神美として、これからも歴史に深く刻まれ、語り継がれていくことでしょう。