
信長は道三の娘・帰蝶を嫁にしていたのに、義兄と義父の戦いを、どうして止められなかったか?
龍興は父・道三を超えたのか?
桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長。
破竹の勢いで天下への道を突き進んだイメージの強い信長ですが、どうしても勝てなかった「宿敵」がいたことをご存知でしょうか?
その人物こそ、美濃の戦国大名・斎藤義龍です。
▲斉藤義龍
父・斎藤道三を「長良川の戦い」で討ち果たした斉藤義龍は、単なる武力だけでなく、信長を凌駕するほどの外交・政治力で尾張包囲網を敷き、信長を幾度も窮地に追い込んだ義兄です。
本記事では、「斎藤義龍と織田信長の戦い」にスポットを当て、二人の直接対決から、義龍が仕掛けた高度な心理・外交戦の裏側までを分かりやすく解説します。
信長の前に立ちはだかった「美濃の巨大な壁」の正体に迫りましょう!
織田信長vs斎藤義龍:義理の兄弟が敵対した理由
尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を打ち破った織田信長。
破竹の勢いで天下への道を突き進んだイメージの強い信長ですが、信長の前に「最大の壁」として立ちはだかったのが、美濃の戦国大名・斎藤義龍です。
実は、信長の正室・小見の方である帰蝶(濃姫)は斎藤道三の正室の娘であり、義龍は側室・深芳野の長男にあたります。
つまり、信長と義龍は本来であれば「義理の兄弟(義兄と義弟)」という極めて近い身内の間柄でした。
強固な同盟関係を結んで天下に号令をかけても、おかしくない二人が、なぜ互いの命を狙うほどの激しい敵対関係に陥ってしまったのでしょうか。
その裏には、戦国時代ならではの骨肉の争いと、複雑に絡み合う深い因縁がありました。
信長の妻・帰蝶と義龍の「意外な関係」
信長と義龍の敵対理由を紐解く上で、まず注目したいのが信長の妻・帰蝶と義龍の関係性です。
二人は同じ父・斎藤道三の子ですが、実は「母親が異なる異母兄妹」でした。
帰蝶の母親は、明智光秀の一族とも言われる正室の小見の方(おみのかた)であり、帰蝶は道三から正統な嫡出子(他にもいた)として大いに溺愛されていました。
帰蝶と明智光秀はいとこ同士。
一方の義龍は、側室である深芳野(みよしの)から生まれた子です。
この「正室の子」と「側室の子」という立場の違いが、二人の間に微妙な距離感を生むことになります。
さらに、道三が愛娘の嫁ぎ先である信長を異常なほど高く評価したのに対し、身近にいる長男の義龍を冷遇し続けたことが、義理の兄弟である信長と義龍の運命を決定的に狂わせていくことになります。
すべての引き金となった「父・道三への恨み」
二人が決定的な敵対関係に至った最大の引き金は、義龍が父・道三に対して抱いていた、深く激しい「恨み」にありました。
道三は、物静かな性格だった義龍を「無能」だと決めつけ、帰蝶の同母弟にあたる孫四郎や喜平次といった他の息子たちばかりを溺愛しました。
そればかりか、ついには義龍を廃嫡し、愛する息子たちに家督を継がせようと画策し始めたのです。
追い詰められた義龍は、生き残るためにクーデターを決意します。
弟たちを謀殺し、父・道三を討ち果たすべく挙兵します(長良川の戦い)。
この時、道三は自らの命が長くないことを悟り、「美濃を娘婿の織田信長に譲る」という国譲り状(遺言)を信長に送り届けて戦死しました。
義龍から見れば、自分を殺そうとした憎き父・道三と、その父の遺言を大義名分にして美濃を奪おうとしてくる信長は、打倒すべき共通の敵でしかありませんでした。
こうして、身内であるはずの義兄と義弟は、美濃の覇権をかけた血で血を洗う戦いへと突入していったのです。
土岐頼芸とは
土岐頼芸は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。
土岐氏当主で兄の土岐頼武及びその子の土岐頼純の嫡流と対立し、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末に、土岐氏当主となり、美濃守護となった土岐頼芸。
しかし、後に家臣の斎藤道三により美濃国から追放された。
天正10年12月4日(1582年12月28日)に死去したといわれている。享年81歳。
道三が頼芸の側室・深芳野を娶った理由と野心
斎藤義龍の出生、そして織田信長との対立の根底にあるのが、義龍の母・深芳野(みよしの)を巡る驚くべき婚姻劇です。
斉藤道三が彼女を妻に迎えた背景には、単なる男女の恋愛ではなく、美濃(現・岐阜県)を乗っ取ろうとする道三の飽くなき野心と、冷徹な計算が隠されていました。
この婚姻こそが、のちに美濃全体を揺るがす愛憎劇の幕開けとなったのです。
土岐頼芸からの拝領に隠された罠
道三が深芳野を妻としたキッカケは、彼が自ら望んでプロポーズしたわけではありません。
当時の美濃守護大名であり、道三の主君であった土岐頼芸※1から「愛妾だった深芳野を譲り受けた(拝領した)」というのがじつに奇妙な始まりでした。
※1.土岐頼芸の居城は、最後の美濃守護としての主要な居城は、現在の岐阜県山県市にあった大桑城(おおがじょう)です。
頼芸は他にも、美濃国を追われるまでに何度か居城や居館を移しています。
頼芸が居城とした主な城は以下の通りです。
大桑城(岐阜県山県市)天文4年(1535年)頃、長良川の洪水を機に土岐氏が移した最後の守護所・詰めの城です。
標高407mの古城山に築かれた堅固な山城で、家臣であった斎藤道三に攻められて落城し、頼芸は美濃国を追放されました。
鷺山城(現・岐阜市)兄・土岐頼武との家督争いの中で、一時的に追いやられた際に居住していた城です。
革手城(現・岐阜市)頼芸が守護の座を奪う前に居住していたとされる城です。
油売りから這い上がり、頼芸の最側近として実権を握りつつあった道三にとって、主君のお気に入り女性を譲り受けることは、周囲の国人領主たちに「自分は主君からこれほど特別に信頼されている」と見せつける最高のパフォーマンスになりました。
しかし、これは道三が仕掛けた高度な心理戦でもありました。
道三は頼芸に「私はあなたにどこまでも忠実な家臣です」と思わせて完全に油断させ、のちに国を乗っ取る(下克上)ための冷徹な罠だったと言われています。
有力豪族・稲葉氏の血筋を狙った政略結婚
道三が深芳野を熱望したもう一つの大きな理由は、彼女が持っている血筋にありました。
深芳野は単に美しい女性だっただけでなく、美濃で強大な勢力を誇る有力豪族・稲葉氏(のちの西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄※2の一族など)の出身だったのです。
※2.稲葉一鉄とは、徳川家光の乳母・春日の局(斉藤福)の養祖父。
一鉄の祖父・稲葉通貞(塩塵)は伊予国の名族・河野氏の一族であったが美濃に流れて土豪になったとされている。
また、安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされることもある。
永正12年(1515年)、美濃の国人・稲葉通則の六男として、美濃池田郡本郷城に生まれる。
幼少時に崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の下で学んでいた。
大永5年(1525年)、父と5人の兄達全員が牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して塩塵と叔父・稲葉忠通の後見の下に家督と曽根城を継いだ。
当時の道三は、山城国(京都)から流れてきた余所者であり、美濃国内に強力な地盤や血縁を一切持っていませんでした。
そのため、美濃の生え抜きである豪族たちからは常に警戒され、浮いた存在だったのです。
斉藤道三にとって、稲葉氏の血を引く深芳野を妻にすることは、美濃の国人たちを味方に引きつけ、自らの支配力を強固にするための極めて合理的な政略結婚でした。
義龍に付きまとった「本当の父親」という呪い
こうして野心に満ちた婚姻によって生まれたのが、長男の義龍でした。
しかし、この「主君から譲り受けた愛妾・深芳野」という経緯が、義龍の人生に生涯消えない暗い影を落とすことになります。
側室・深芳野が道三のもとに嫁いでから、あまりにも早い時期に義龍が生まれたため、道三は「この子は俺が譲り受ける前に、すでに頼芸の子を身ごもっていたのではないか」という強烈な疑念を抱くようになりました。
この出生の疑惑こそが、道三が義龍を「無能」と蔑み、冷遇し続けた最大の原因です。
この時代ではDMAで確認のしようすがなかったが、斎藤義龍の母・深芳野 (みよしの)は、斎藤道三の主君だった土岐頼芸から譲られた女性でした。
彼女はこのときすでに頼芸の子供として義龍を身ごもっており、道三の元に来た後で生んだ、という話を、誰かが義龍に吹き込んだのです。
もちろん反対意見もあり、「いやいや、道三様はもっと早くから深芳野と通じていました。
だから義龍様は間違いなく道三様の御子です」と言う人もいました。
しかし、義龍にとっては前者のほうに信憑性があるように思えたか、あるいは実父など誰でも構わなかったのでは?という見方もあります。
義龍側も、土岐源氏である土岐頼芸の血を引いている設定の方が、美濃の国衆にはウケがよい、だから、たとえ義龍本人が道三の子だと思っていても、実父は土岐頼芸にしておこうと考えたというのですね。
「自分の本当の父親は道三ではなく、高貴な美濃守護・土岐頼芸様だ」という自負と、道三への憎悪を募らせていきました。
この「本当の父親は誰だ?」という血の呪縛が、やがて親子が殺し合う長良川の戦いへと直結していくのです。
このドロドロとした背景が描かれることで、義龍がなぜあれほど怒り、父を討つまでに至ったのかが読者にも深く伝わる流れになりました。
骨肉の争い:義龍のクーデターと長良川の戦い
道三からの冷遇と出生の疑惑に苦しみ続けた斎藤義龍でしたが、その我慢もついに限界を迎える時がやってきます。
親子間の不信感は決定的な殺意へと変わり、美濃の国を二分する悲劇的な身内の合戦へと突き進んでいくことになります。
弟たちの暗殺と義龍のクーデター実行
道三は、物静かな義龍を露骨に嫌う一方で、帰蝶の同母弟である孫四郎や喜平次といった弟たちを溺愛し、「彼らこそが我が跡継ぎに相応しい」と公言するようになっていました。
これに強い危機感を抱いた義龍は、先手を打って生き残るための冷徹な計画を実行に移します。
弘治元年(1555年)、斉藤義龍は病気を装って自身の居城である稲葉山城に弟たちを呼び寄せました。
そして、全く油断していた弟の孫四郎と喜平次を、自身の側近(日根野弘就など)の手によって一瞬のうちに刺殺・謀殺してしまったのです。
この凄まじい夜襲と暗殺劇によって後継者候補を抹殺した義龍は、そのまま父・道三に対して事実上のクーデターを宣言。
美濃の国人領主たちの多くを味方に引き入れ、父を討ち果たすべく圧倒的な兵力で挙兵しました。
信長への「国譲り状」が引いた決定的な火種
道三は、息子たちを殺され、最愛の息子たちに家督を継がせる夢を絶たれた道三は、激怒して稲葉山城を脱出。
義龍を討つために陣を構えますが、美濃の豪族たちのほとんどが義龍側に味方したため、道三に勝ち目はありませんでした。
自らの命がここまでと悟った道三は、ある驚くべき行動に出ます。
道三は、最愛の娘・帰蝶の嫁ぎ先である織田信長に対し、「美濃の国をそっくりそのまま信長に譲る」という前代未聞の「国譲り状(遺言)」を書き、密使を飛ばして送り届けたのです。
この直後、弘治2年(1556年)の「長良川の戦い」にて道三は義龍の軍勢に討ち取られました。
しかし、この道三の遺言こそが、義兄・義龍と義弟・信長の間に決して消えない決定的な火種を投じることになります。
義龍から見れば、信長は「美濃の正当な支配権を主張して攻め込んでくる侵略者」となり、信長から見れば、義龍は「大恩ある舅の仇であり、美濃を奪い取るための標的」となりました。
こうして、二人の宿命の対決が幕を開けたのです。
そして義理の兄弟が戦わざるを得なくなった!
信長を驚愕させた義龍の天才的な政治・外交戦
父・道三を討ち果たした斎藤義龍に対し、織田信長は怒涛の勢いで美濃への報復と侵攻を開始します。
しかし、義龍は単に武力で信長を迎え撃つだけの武将ではありませんでした。
むしろ、信長が驚愕したのは、義龍が仕掛けた極めて高度な政治工作と、網の目のように張り巡らされた外交戦略だったのです。
将軍・義輝への接近と「一色氏」への改姓
戦国時代において、実の父親を討つ「親殺し」は、どれほど理由があろうとも凄まじい悪名となり、周囲の戦国大名から攻撃される格好の大義名分になってしまいます。

▲義龍が足利義輝に謁見しているイラスト画像です
この絶体絶命の政治的ピンチを、義龍は天才的なアイデアで切り抜けました。
義龍は時の室町幕府13代将軍・足利義輝に急接近し、多額の献金や交渉を行います。
そして、美濃守護であった土岐氏よりもはるかに家格が高く、足利一門の名門である一色氏を名乗りを幕府から正式に認めさせたのです。
さらに、将軍の側近である「御相伴衆」の地位まで獲得しました。
これにより義龍は、単なる「親殺しの謀反人」から「幕府がお墨付きを与えた美濃の正当な支配者」へと一瞬にして大逆転を遂げ、信長が美濃を攻めるための大義名分を完全にへし折ってしまいました。
信長を孤立させる外交包囲網
義龍の本当の恐ろしさは、尾張の織田信長をジワジワと兵糧攻めならぬ「孤立」に追い込む外交手腕にありました。
義龍は、信長が美濃へ全力で攻めてこられないよう、北近江の浅井久政(浅井長政の父)や南近江の六角義賢といった周辺の有力大名と同盟を締結した。
さらに、尾張国内で信長に反旗を翻そうとする反主流派の勢力(信長の弟・織田信勝など)を裏で支援し、信長の足元を常に揺さぶり続けました。
これにより、信長は美濃へ攻め込もうとするたびに、背後や領国内の謀反を警戒せねばならず、動きを完全に封じ込められてしまったのです。
後年に信長自身が足利義昭を担いで「信長包囲網」に苦しめられることになりますが、その包囲網のシステムを最初に作り上げ、信長を最も苦しめた人物こそが、この斎藤義龍でした。
義龍の「智将」としての凄みが際立ちました。
一色氏への改姓や包囲網の構築など、信長を大いに手こずらせました。
義龍の若すぎる急死と、その後の美濃攻略
武略・策略・政治力のすべてにおいて織田信長と互角、あるいはそれ以上に渡り合っていた斎藤義龍でしたが、運命は突如として信長に味方することになります。
信長にとって最大の壁だった傑物・義龍の急死は、戦国時代の勢力図を大きく塗り替えることになりました。
信長が勝てなかった美濃の防衛戦
今川義元を破り、勢いに乗る信長は何度も美濃への侵攻を試みますが、義龍の堅固な防衛網を前にことごとく敗退を喫していました。
特に「十四条の戦い」※3をはじめとする直接対決において、義龍は信長の戦術を完全に読み切り、圧倒的な統率力で織田軍を撃退し続けたのです。
※3.十四条の戦い(じゅうじょうのたたかい)とは、永禄4年(1561年)5月に、織田信長と美濃の斎藤龍興の軍勢が美濃国十四条(現・本巣市十四条)周辺で衝突した合戦のことです。
美濃を支配していた斎藤義龍の急死に伴い、若年の斎藤龍興が家督を継いだことを好機と捉えた織田信長が美濃へ侵攻しました。
信長が墨俣(すのまた)に陣を敷いたのに対し、斎藤軍は大軍を率いて十四条村に出陣し対峙しました。
戦況は序盤の足軽合戦で織田軍は有力武将を失い一度撤退しましたが、その後、信長の指揮のもと北上し、隣接する軽海(かるみ)周辺で夜戦にもつれ込む激しい戦闘を展開しました。
最終的に斎藤軍が夜の間に撤退したため、織田軍が勝利を収めました。
この戦勝により信長は西美濃への重要な橋頭堡を確保し、のちの美濃攻め(稲葉山城の戦い)を有利に進めるための足がかりとしました。
信長がどれほど天才的なひらめきで攻め立てようとも、義龍はそれを上回る冷徹な防衛策と、前章の外交包囲網で信長の手足を縛り続けました。
当時の信長にとって、美濃の国境線は「どうしても超えられない絶望的な壁」であり、義龍が健在である限り、信長が美濃を攻略して京へ上洛することは事実上不可能な状態でした。
義龍の死と信長の美濃調略の加速
永禄4年(1561年)6月23日、義龍は33歳という若さで突如として病死してしまいます。
この早すぎる天才の死により、美濃の斎藤家はわずか14歳の息子・斎藤龍興が継ぐことになりました。
偉大なカリスマを失った斎藤家では、若き当主を軽んじる家臣たちの間で一気に動揺と内紛が広がります。
この好機を信長が見逃すはずはありませんでした。
信長はそれまでの力任せな武力侵攻から一転し、不満を抱く美濃の有力豪族たちを裏から切り崩す「調略(引き抜き工作)」へと戦略を切り替えます。
「西美濃三人衆」と呼ばれる稲葉一鉄ら有力者を次々と織田陣営に寝返らせることに成功した信長は、斉藤義龍の死から6年後、ついに念願の稲葉山城を攻略して美濃を平定しました。
もし義龍があと10年長く生きていれば、信長の美濃攻略は完全に阻まれ、その後の「天下布武」の歴史も存在しなかったかもしれないと言われるほど、義龍の急死は歴史の大きな転換点だったのです。
まとめ
血の呪縛が引き裂いた義理の兄弟の織田信長と斎藤義龍の戦いは、単なる領土を奪い合う戦国大名同士の抗争ではなく、複雑な血縁と怨恨が絡み合った、極めて人間臭くドラマチックな宿命の対決でした。
「主君・土岐頼芸からの拝領」という道三の野心に満ちた婚姻を発端とし、義龍は生涯「本当の父親は誰か」という血の呪縛に苦しめられることになります。
父から冷遇され、廃嫡の危機に追い詰められた義龍が起こしたクーデター。
そして、道三が最期に放った「美濃を信長に譲る」という遺言が、義理の兄弟であった義龍と信長を決定的な敵対関係へと引き裂いてしまいました。
しかし、出生のコンプレックスを跳ね返すかのように、義龍が発揮した政治力と外交戦術は見事なものでした。
「一色氏」への改姓によって美濃支配の正当性を手に入れ、網の目のような外交包囲網で信長を幾度も窮地に追い込んだ実力は、まさに信長にとって「生涯最大の壁」だったと言えます。
33歳という早すぎる急死によって義龍は歴史の表舞台から去り、結果として美濃は信長の手へと渡ることになりました。
もし、この美濃の天才がもっと長く生きていたならば、信長の「天下布武」のシナリオは根底から覆っていたかもしれません。
信長が天下を語る上で決して忘れてはならない、もう一人の若き天才・斎藤義龍。
二人の熾烈な戦いの裏には、戦国時代ならではの哀しき愛憎劇が隠されていたのです。