日本の国号が「倭(わ)」から「日本(にほん/にっぽん)」へと変わった歴史の裏には、一体「誰が」「いつ」決めたのかという大きな謎が存在します。
聖徳太子の時代から天武天皇、そして遣唐使の粟田真人まで、国家の独立と尊厳をかけて国号改定に挑んだ重要人物たちのドラマを紐解きます。
この記事では、国号誕生の成立時期や決定に至った時代的背景、そして歴史的史料に残された根拠をわかりやすく解説します。
1.日本の国号を決めたのは誰?中心となったキーパーソンは
今日の私たちが当たり前に使っている「日本」という国号。
この名称は一人の人物が一朝一夕に決めたものではなく、時代の節目ごとに重要な役割を果たしたキーパーソンたちのリレーによって誕生し、公式なものとして確立していきました。
「日本」という国名が形作られるまでの歴史的な流れと、その中心となった重要人物たちを解説します。
原点を作った「聖徳太子(厩戸皇子)」
「日本」という国号の思想的なルーツを辿ると、飛鳥時代の聖徳太子(厩戸皇子)へと行き着きます。
607年、聖徳太子は小野妹子を遣隋使として当時の大国・隋へ派遣しました。その際、隋の煬帝(ようだい)に宛てた国書に記されたのが、有名な「日出処天子(ひいずるところのてんし)」というフレーズです。
中国を中心とする国際秩序(冊封体制)の下に組み込まれることを拒み、自国を「太陽が昇る東の国」として対等に位置付けようとしたこの表現こそが、のちに「日の本」、すなわち「日本」という国号へと結実していく重要な萌芽となりました。
制度として「日本」を定めた「天武天皇・持統天皇」
聖徳太子が蒔いた種を、国家の正式な「制度」として結実させたのが、天武天皇とその意志を継いだ持統天皇です。
7世紀後半、壬申の乱を制して即位した天武天皇は、律令国家の確立を目指し、国号と君主号の改革を進めました。
そして、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂を経て、大宝元年(701年)に完成した「大宝律令」によって、国家の正式名称としての「日本」と、君主の称号としての「天皇」がセットで明記されたのです。
これにより、それまでの「倭(わ)」という呼称から脱却し、自律した律令国家「日本」が法制度の上で誕生することとなりました。
外交で「日本」を認めさせた「粟田真人(遣唐使)」
法制度として国内で定められた「日本」という国号を、国際社会へ公式に認めさせた実務担当者が、大宝2年(702年)の遣唐使で執節使(大使)を務めた粟田真人(あわたのまひと)です。
粟田真人は唐(当時の国号は周)の朝廷に赴き、自国を「倭」ではなく「日本」と呼ぶよう公式に伝達しました。

▲粟田真人が唐の朝廷に赴き倭を日本と呼ぶように伝えていったイメージイラストです。
唐の記録である『旧唐書(くとうじょ)』には、真人が「倭という名を悪み、日本と改めた」と語ったことや、彼の立ち振る舞いが極めて風雅であり、唐の側から高く評価されたことが記されています。
粟田真人※1の高い外交手腕によって、大国・唐は正式に「日本」という国号を認識し、国際的にも「日本」が確立することとなりました。
※1.粟田真人とは、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての公卿※2。
姓は臣のち朝臣。官位は正三位・中納言。
※2.公卿と公家の違いとは、公家は朝廷に仕える貴族全体の総称で、公卿はその中で特に位の高い上流貴族を指します。
2. 「日本」国号はいつ決まったのか?成立した時代と年代
「日本」という国号がいつ誕生したのかを知るには、「国内で考え出された時期」「国際的に公式採用された時期」の2つのステップで捉える必要があります。
白村江の戦い※3という危機から大宝律令の完成に至る、成立の時代背景と具体的な年代を紐解きます。
成立時期は7世紀後半(670年〜680年代頃)
「日本」という表記が考案され、国内で使われ始めたのは、7世紀後半の天智天皇から天武天皇の時代(670年〜680年代頃)と考えられています。
その大きなきっかけとなったのが、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」※3での大敗でした。
唐・新羅の連合軍に敗北した倭国(当時の日本)は、強大な外国からの侵略という未曾有の危機に直面します。
※3.白村江(はくすきのえ)の戦いとは、663年8月28日、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を復興させるため、最後の戦いが白村江(はくそんこう、はくすきのえ)で起こる。

Screenshot
▲白村江の戦いのイメージイラストです。
詳細は
百済と倭国:6世紀中頃、百済(ペクチェ、くだら)から倭国へ仏教が伝わる。
このころ、大陸の文化は百済を経由して倭国に伝わっている。
また、人の往来も多く、韓国にある古墳の中には前方後円墳があることや出土品が畿内の古墳と同じものであったりすることから日本から高位の人物も百済に渡っていることが推測される。
このように当時の倭国は百済重視の外交をしていた。
そして、百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)が倭国にいて、知識人として朝廷で重用されていた。
新羅と唐
新羅の武烈(ぶれつ)王は即位する前から唐と親交があり、即位してからも唐の制度を国の政治に採り入れるなど唐から信頼されており、唐と新羅は同盟関係にあった。
戦い開始
655年、朝鮮半島北部で、かねてより対立していた唐と高句麗(コグリョ、こうくり)が戦いを始めた。
南部では、百済が新羅(シルラ、しらぎ)へ侵攻したため、新羅は唐に救援を求めた。
倭国
大化改新の後、皇極天皇の弟孝徳天皇が難波で即位していたが、653年、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを申し出る。
政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大であった。
孝徳天皇は飾りにしかすぎなかったともいえる。
孝徳天皇は遷都に反対したため、皇子は母皇極上皇、大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻ってしまう。
中大兄皇子たちが飛鳥に戻って入ったのが飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)。
翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。
亀形石造物(奈良県高市郡明日香村)655年、板蓋宮にて斉明天皇(重祚:ちょうそ-皇極天皇が再度皇位に就く)即位。斉明天皇は北の部族「蝦夷-えみし」を抑え、その権力を内外に示そうとした。
天皇がもっとも力を入れたのが土木工事をともなう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設する。
(狂心の渠:たぶれごころのみぞ などといわれている)この大土木工事は豪族たちの反感を招くことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとにも政治への不信・不満を持った豪族たちが集まる。
658年5月、斉明天皇が大変かわいがっていた孫の1人で、中大兄皇子の皇子の建王が8歳で亡くなる。
この年10月、斉明天皇、中大兄皇子らは和歌山県西牟婁郡にある温泉に出かけた。
留守は蘇我赤兄(そがのあかえ)が務めていた。
この時、赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り始めた。
11月5日、今度は有間皇子が赤兄宅を訪問し、謀反の相談をした。
その夜、赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいむらじしび)に有間皇子を捕らえさせ、9日、行幸先の温泉に連行した。11日、19歳の有間皇子は謀反の企てにより処刑された。(有間皇子の変)
660年百済滅ぶ
659年、斉明天皇は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。
唐はこの時、百済に攻め入ろうとしていた。
百済は新羅へ再侵攻したが、唐の高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。
こうして660年7月18日、百済が滅亡した。
この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航、当時の日本(倭国)にとっては大きな衝撃となった。
唐は百済を統治し始めるが、それに対抗して、百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。
その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。
660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に次のような要請をしてきた。
「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。」 (倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。)
朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)へ、鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。
筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。
同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。
危機感を募らせた大和朝廷は、国家の体制を急ピッチで立て直す必要に迫られました。
唐に対抗できる中央集権国家を作り上げる一環として、「倭」という中国から与えられた蔑称のような呼称を捨て、自立した国家としてのプライドを込めた「日本」という新国号が誕生したのです。
公式記録と外交上の成立(701年〜702年)
誕生した国号が、法律によって正式に制定され、外交の場でも認められたのが8世紀初頭(701年〜702年)です。
大宝元年(701年)の大宝律令の制定
国内の法体系を整えた「大宝律令」が完成し、条文の中で「日本」が正式な国号として、また「天皇」が正式な称号として記載されました。
これにより、国家の基本法の下で国号が確定します。
702年大宝2年(702年)の第7回遣唐使の派遣
制定されたばかりの「日本」という国号を携え、粟田真人(あわたのまひと)らを乗せた第7回遣唐使が唐へ渡りました。
唐の朝廷に対し「わが国は名を日本と改めた」と公式に伝達し、相手国にもこれを受け入れさせたことで、外交上でも名実ともに「日本」が確立しました。
3. 史料から読み解く「いつ・誰が」の裏付け
「日本」という国号の誕生時期や経緯は、単なる伝承や後世の創作ではなく、国内外に残された一次史料によって客観的に裏付けられています。
中国の公式歴史書と、近年発見された墓誌(墓碑銘)の2つの決定的な史料から、その真実を読み解きます。
中国の歴史書『旧唐書』が語る倭から日本への変更
『旧唐書(くとうじょ)』は、唐代の歴史を記録した中国の正史です。
その「東夷伝」には、従来の「倭国」とは別に「日本国」の項目が設けられ、国号変更の経緯がハッキリと記されています。
史料には以下のような記述が存在します。
「日本国は倭国の別種なり。
その国、日出る処に在るを以て、故に日本を以て名と為す」「倭国、自らその名の不雅なるを悪しみ、改めて日本ととなす」
つまり、倭国の使者(702年の粟田真人ら)が唐の朝廷に対し、「『倭』という名称は上品ではないため好ましくない。
だから自らの国を『日本』と改めたのだ」と直接説明した様子が記録されています。
中国側の第三者視点の歴史記録によって、8世紀初頭には「倭から日本へ」の改称が外交上で正式に行われていたことが証明されています。
新発見の「禰軍(でいぐん)墓誌」が示す7世紀後半の真実
「日本」という表記が実際にいつ頃から使われ始めたのかという疑問に対し、決定的な証拠となったのが、2011年に中国で発見された「禰軍(でいぐん)墓誌」です。
禰軍とは、白村江の戦い※3(663年)の後に百済から唐へと渡った百済人の武将です。

▲百済の位置のイメージです。
678年に彼が亡くなった際に彫られた石の墓誌(墓碑銘)の文章の中に、次の一節が見つかりました。
「日本」の余噍(よしょう/生き残り)、百済の旧地、678年という明確な作成年代が特定できる石刻史料に「日本」の2文字がハッキリと刻まれていたことは、歴史学界に大きな衝撃を与えました。
この発見により、大宝元年(701年)の大宝律令を待つことなく、すでに670年代(天武天皇の時代)には外交交渉や東アジア情勢の中で「日本」という呼称が実際に使われていたことが確定的な事実となったのです。
まとめ
「日本」という国号に込められた古代人の決意
今日の私たちが何気なく口にしている「日本」という国号。
その誕生の裏には、苛烈な東アジアの国際情勢の中で国家の存亡をかけた、古代の人々の強い覚悟と知恵が込められていました。
東アジアの強国・唐と対等に渡り合うための外交的自立
7世紀後半、白村江の戦いで大敗を喫した古代の日本(倭国)は、東アジアの絶対的覇者である唐の脅威に直面していました。
かつてのように中国の皇帝から「倭王」の称号を与えられて従属する臣下(冊封体制)のままでは、いつ植民地化や再侵攻を受けてもおかしくないという強い危機感がありました。
そこで選んだのが、中国中心の秩序から抜け出し、「日の出づる国」として中国と対等な立場を主張することでした。
「倭」という中国側から名付けられた蔑称を捨て、自らのアイデンティティを掲げた「日本」という国号には、大国・唐に対して自立した主権国家であることを毅然と示す外交的意志が込められていたのです。
単なる改称ではなく「独立した律令国家」として立ち上がった歴史の転換点
「日本」への改称は、単なる名称の変更にとどまりません。
それは、天皇を中心とする法制度(律令)を整え、中央集権国家へと脱皮を遂げた「新しい国づくりの宣言」でもありました。
聖徳太子が蒔いた対等な外向思想の種は、天武・持統天皇による律令整備を経て実を結び、粟田真人らの命懸けの外交交渉によって国際社会に正式に認められました。
外圧の危機を乗り越え、自立した律令国家として立ち上がったこの歴史の転換点こそが、「日本」という国の本当の始まりだったと言えます。
太古の人々が未来へと繋いだその決意と誇りは、千数百年が経過した今の「日本」という言葉の中にも、確かに息づいています。