細川玉(ガラシャ※1)はどこで生まれたか?
※1.ガラシャというように呼ぶようになったのは、明治期にキリスト教徒などが彼女の洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多いです。
どうしてキリシタンになたか興味のあることですね?
これは明智光秀が、玉を授かったとき、どこにいたかという話とも密接に結びついております。
ここのところを決めないと明智玉の出生地が決まりません。
※以下の文章はYou Tubeの長岡京ガラシャ祭記念シンポジウム「明智光秀と細川ガラシャ」を参考にしました。
玉が生まれたとき光秀がどこにいたか
光秀は、一般に美濃出身と考えられています。
『明智軍記』などによれば、明智光秀は、美濃源氏土岐氏の一流である美濃明智の出身で、明知城の城主であると言われています。
通説によりますと、弘治2年(1556年)に、斎藤道三が長良川の戦いで、家督を譲った息子・斉藤義龍軍と戦って死亡、討ち死にします。
この長良川の戦いで道三が滅びると、道三方であった明智氏も当然斉藤義龍軍と戦い敗れて明知城は落城します。
▲可児市にある明知城跡
上記の城から逃げて、光秀は浪人の身となるわけです。
浪人となった光秀が諸国を放浪して、遍歴して、越前の朝倉義景を頼って仕えた。
これが通説なわけです。
▲浪人になった
なので、この通説に従うと、玉(細川ガラシャ)は越前で生まれた。
嫁ぎ先の細川家の記録であります『綿孝輯録』によりますと、玉(ガラシャ)は永禄6年(1563年)生まれというふうに記載されています。
この永禄6年の段階では恐らく、光秀はすでに越前にいたと思われます。
それが分かる史料としまして、『遊行三十一祖京畿御修行記』という資料の中で、これは第31代の遊行上人、遊行上人というのは時宗、一遍が始めた踊り念仏の時宗教団の指導者のことを遊行上人というんです。
この31代の遊行上人であります同念という人が、天正六年から天正八年にかけて、東海地方から京都、奈良を巡って、布教活動を行った際に、随行者が書き留めた記録ということになります。
そこに何が書いてあるかというと、同念が奈良で布教活動を行おうと思ったんですけど、そのときの奈良の大名が筒井順慶という人です。
その筒井順慶に、布教の許可をもらおうと思ったんですが、筒井順慶とのコネがない、ツテがないので、頼みに行くツテがない。
そしたら、あるお坊さんが、私は実は明智光秀と昔からの知り合いであって古い友人であると。
だから、私が明智光秀に頼んで、「筒井順慶への紹介状を書いてもらいますということを」言った。
この光秀との古い友人(お坊さん)によると、光秀というのはどいう人かというと、『惟任方もと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヵ年居住』というふうにいうわけですね。
つまり、天正八年の段階ではもう、明智光秀は惟任という名字に変えてるわけですけど、この惟任日向守は、もともと明智十兵衛という人であって、美濃の土岐氏に仕えていたけど、それが浪人になって、牢人として越前の朝倉義景をたよっていたことになっています。
そして牢人として長崎称念寺※2の門前に10ヵ年住んでいたこと。
※2.長崎称念寺とは、福井県坂井市丸岡町長崎という所で。
明智光秀が越前を離れて、信長の所に行くのが永禄11年(1568年)ですので、ここから逆算すると、明智光秀は1558年〜1568年ぐらいまでの間、越前に滞在していたということになります。
とすると、娘・玉(細川ガラシャ)の出生は1563年ですので、越前で生まれたということになるんです。
細川玉はなぜキリスト教の信者になったか
玉は明智光秀の娘として、また細川忠興の妻として、栄華を極めた地位にいました。
玉は15歳で忠興と天正8年(1578年)8月に勝龍寺城で結婚を挙げて2年を過ごした後、夫・忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、続いて宮津城に移る。
▲勝龍寺城
翌年天正9年(1579年)長女ちょう誕生、天正8年(1580年)に長男・忠隆誕生するも、天正10年(1582年)本能寺の変起きた。
天正11年(1583年)幽閉状態にされるも、この年に次男・興秋誕生、夫・忠興は「賤ヶ岳の戦い」に参戦する。
しかし、本能寺の変をきっかけに、非常に不幸な境遇に陥(おちい)り、このとき玉は20歳でした。
20歳で山奥(味土野)に幽閉されました。
その2年間は、まさに諸行無常※3という仏教の言葉を、いやが上にも諦めていた時期だった。
※3:諸行無常とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはないという意味。三法印、四法印のひとつ。
2年後、秀吉に許されて、天正16年(1586年)に大阪で忠興と一緒に暮らすようになりますが、細川の屋敷から一歩も出るなと言われ出られません。
この年、大阪に転居1586年三男・忠利誕生。
天正17年(1587年)に大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る、次男・興秋も受洗する。
翌年天正18年(1588年)に次女・たら誕生、慶長3年(1598年)三女・萬誕生。
天正20年(1589年)で終:以後は文禄は5年:慶長は20年(1615年)、豊臣秀吉慶長3年(1598年)伏見城で死去する。
▲玉はガラシャという洗礼名を受ける
20歳から37際に死亡するまでの17年間は、行動の自由を奪われ、しかも、戦国大名の妻として、いつでも死ぬ覚悟をしていました。
玉がキリシタンになりたいという気持ちは、この理不尽な人生から逃れようという願いと関係があったんじゃないかと思います。
玉には三つの思いがあったと思われます。
玉は洗礼名ガラシャになった。
ガラシャはキリスト教に入信して何を求めていたのでしょうか?
①父親に対する気持ちの整理 ②人生の意味を見出すこと ③自分のすべきことを。
▲ひたすら祈る
①父に対する気持ち
本能寺の変の直後、彼女は父親に手紙を出して、「あなたの腹黒い心の故に、私も夫に捨てられ、幽閉されてる」という非難の手紙を書きました。
この手紙は光秀に届いていたかどうかわかりませんが、彼女が手紙を書いたときに父はまだ生きていたが、まもなく秀吉の軍勢に負けて殺され、晒し首にされたのを聞いたとき、彼女は全くと違う考えを持つようになります。
のちに、秀吉に会見を要求されましたが、「秀吉は父親の讐(あだ)なれば、たとひ殺されるとも出なじ、強いてでよとあらば懐剣を以て刺し讐を報いん」と。
父上のお喜びにならないことをするのは、道に外れていると思うので、毎年の命日に、父親を追善し、喜ばせようとするのは父親への愛情の現れです。
玉が宣教師に出した手紙
「私はたとえ(あのようにして)父を失った身であると申しながら、そのために落胆したり恥じたりすべきではないことを夫に悟らせようととして、あのように振る舞ったのでございます。」
父親の謀反を「恥」とは思わず、自分は「罪人の娘」とも自認しない。
何事においても、夫に譲歩しないという態度を取り続けるてきたということです。
そればかりではありません。
玉は良心の呵責を感じていたことを宣教師に告白しています。
「禅宗は良心の呵責を消去せしめるほど、強くも厳しくもなかった。それどころか、彼女に生じた躊躇や疑問は後を絶たなかった」という記録は、ガラシャが宣教師に書いた手紙。
では、その良心の呵責とは?
父親を見殺しにした夫・忠興と、舅・細川藤孝に対する不満と、絶体絶命の窮地にいた父親に非難の手紙を送った自負の念だと考えられます。
父親を無惨な死から救うことができなかったことから生まれた、罪の意識ではなかったと思われます。
この意識があるから、キリスト教を求めたのではないかと私は思います。
キリストは、人間は原罪を持って生まれたため、全て罪人なので、絶えず自分の罪をみつめることを信徒に要求してます。
また、「アヴェ・マリア」の祈りも、「神の母、聖マリア、私た罪人のために今も死を迎えるときもお祈りください」とあります。
このように、キリスト教は人間の罪の意識を真正面から取り上げる宗教だといえます。
そして、人類を罪から救うのは他でもなく、十字架に命を捧げたイエスキリストだと教えます。
このように、ガラシャはキリスト教から良心の呵責を見つけ他ので。仏教から離れて、キリシタンになろうとしたのではないかと思います。
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②人生の意味を見いだそうとすることです。
ガラシャは教会から「コンテムツムンヂ」という本を借りて、周りの侍女たちと一緒に読んでいました。
この世を厭(いとい)いて、天の御国に志すこと最上の知恵なり、斯くの如くある時んば、過ぎ去る福徳を尋ね求め、それに頼みを掛くることは実もなき異なり、位、誉れを望み歎き、身を高ぶることも又実もなき異なり‥現在のことをのみ専らとして、未来を覚悟せざるをこと、実もなきことなり。」
つまり、地位、名誉、財産は全て虚しいもので、過ぎ去ってしまい、何の価値もないということです。
これを読んだとき、ガラシャは、浮き沈みの激しい現世を超越して、永遠な天の国を志すことこそ人生の意味だと、初めて分かったのではないかと思います。
③自分のすべきことを見つけることです。
キリスト教は人間同士は皆、兄弟でよい天主の子供と認め合い、互いに愛し合うためだという意味です。
実際、キリスト教を学んでから、ガラシャは性格が変わり、激しい気性を改めて、周囲に対して、非常に優しくなり、慈悲深くなり、貧乏な人々に食料を与えるようなりました。
彼女はとうとう洗礼を受けることができました。
ガラシャという洗礼名を自ら選んだのではないかと、私は思います。
洗礼名は、大体、聖人の名前で、その聖人の取り次ぎによって、神さまの加護を得られると信じられています。
一方、「ガラシャ」はスペイン語で、ポルトガル語は「がらさ」と発音し、天主の恩寵、恵み、慈しみを意味します。
ガラシャという名前を選ぶことによって神さまの恵みを肝に銘じ、それに感謝しようとしたからなのっです。
自分の不幸な人生を悲しむのではなく、むしろ、神さまの恵みを積極的に認めようという考え方の根本梃な変化は、この名前から読み取ることが可能だろうと思います。
まとめ
ガラシャは、人間としての自由、尊厳、生きる権利を奪われていた女性です。
この地獄のような人生を生き抜くために、キリシタンになる以外方法がなかったと思われます。
「罪の意識」から救われ、人生の意味と自分のすべきことをみいだすことができるからです。
彼女は、人生が苦しめば苦しむほど、信仰心と隣人愛に燃えていたのです。
これがガラシャの唯一の活路だからです。