美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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徳川慶喜 渋沢栄一

渋沢栄一と徳川慶喜の出会いは?ー慶喜の弟・昭武にパリ万国博覧会に同行

投稿日:2021年2月27日 更新日:

西暦2021年−幕末1867年=いまから154年前にフランス・パリで万博が催された。
万博に出席した日本人は、腰に刀を差していた時代です。

 

 

江戸時代末期、天保11年2月13日(1840年3月16日)に武蔵国榛沢郡血洗島村に生を受けた渋沢栄一。

 

 

父は渋沢市郎右衛門元助(1810年〜1871年)は蚕と藍玉で生計をたてて、母ゑいの間に長男で生を受けた。

 

 
▲藍玉で染めたもの。                                                 ▲蚕

 

渋沢家は農民(名主身分)から栄一は武士(幕臣)に取り立てられた。

 

 

渋沢栄一は天保11年に生まれ、元号を、天保から→弘化5年→嘉永7年→安政7年(安政の大地震)→万延2年(江戸城火災・桜田門外ノ変)→文久4年→元治2年→慶応4年→明治45年→大正15年→昭和6年11月11日(満91歳没)で生き抜いた人物です。

 

 

 

渋沢栄一と徳川慶喜との最初の出会い

渋沢栄一徳川慶喜の最初の出会いについて、栄一が自叙伝・岩波文庫「雨夜譚」で詳しく語っています。

 

 

以下文章は、ネット「渋沢栄一と徳川慶喜との出会い」を参考にしました。

渋沢栄一は、高崎城乗っ取り※1計画が尾高長七郎※2の反対で中止された後、幕府の追及を逃れるため、伊勢参りを口実に血洗島を離れます。

※1:高崎城乗っ取りとは、嘉永6年(1836年)6月の黒船来航以来、外国の脅威に対する不安が日本中に拡がり、国内に行き場のない不満や不安が鬱積して、渋沢栄一(青淵)、尾高新五郎(惇忠)、渋沢茂一郎(喜作)の三名が中心となって計画がねられた。

                                                          ▲イメージ

詳しくは、高崎城乗っ取りのURLを見てください。

 

※2尾高長七郎とは、渋沢栄一の従兄に当時日本一で一、二の剣の使い手と言われ、また、漢詩文にも優れた遺作を残す好男子(1836〜1868年)、当時の若き俊英が憂国の志士を志たように長七郎も成長するにつれ各藩の志士と深く交わる。

 

 

京都では、伊勢参りなどで時間を費やしますが、しばらくして平岡円四郎※3から呼び出しがかかります。

 

この出会いが、渋沢栄一を徳川慶喜に近づけた、人間所詮出会いで変わる。

※3平岡円四郎とは、幕末期の一橋家の家臣(家老並)徳川慶喜の側用人。渋沢栄一は父の許しをもらって江戸に出て一緒に出てきた従兄弟の渋沢喜作が、一橋家の御用談所調方頭取の川村惠十郎とひょんなことから出会います。この川村惠十郎は平岡円四郎の部下でした。

 

 

平岡円四郎からは二人の身辺事情について尋ねられます。
当時、二人はヤバい事情がありましたので、それを素直に説明しました。
円四郎は、それを了解した上で一橋家への仕官を勧めました。

 

 

そこで、栄一と喜作は、一晩どうするか議論をして考えた末に一橋家に仕官することにしました。

 

 

しかし、「ただ困ったから仕官させてくださいというは残念だから、一つ理屈をつけて志願しようじゃないか」ということになり、翌日、平岡円四郎に、「二人の意見を建言した上で、お召抱えということにしていただきたい」と申し出ました。

 

 

平岡円四郎はその書状を一読して、「これを慶喜公にご覧に入れよう」と言いました。

 

 

ここまで、進んだうえで、さらに二人は平岡円四郎に対して、「慶喜公に拝謁を仰せ付けられて、たとえ丁寧な御意がなくとも一言直接に申し上げた後にお召抱えをお願いしたい」とお願いしました。

 

 

それに対して、平岡円四郎は、最初「否、それは例がないから難しい」と言いましたが、最後には「ともかく、評議をしてみよう」ということになりました。

 

 

そして、一日・二日たつと、平岡円四郎は、「拝謁の工夫がついたが、見ず知らずの者に拝謁を許す訳にはいかないから、一度遠くからご覧になって、渋沢栄一をみていただく工夫をしなければならない。二・三日中に郊外の松ヶ崎へ遠乗りがあるから、その道筋にいて御見掛けになるようにするがよい。

 

 

けれども、それには慶喜公は乗馬だから、走らなければならぬ」ということでした。

「その当日は一橋慶喜公の御馬が見えると、すぐに下加茂辺から山鼻まで、行程十町余りのところを一生懸命にひたばしりに駈けて御供をしたことでした。」と「雨夜譚」の中で語っています。

 

 

また、栄一は、太っていて背も低いことから駆けるのは苦手であったので大変困ったとも語っています。

「雨夜譚」には、「その後一両日たって、内御目見を仰せ付けられたから、その時には前の建言の趣意を以て、無遠慮にお話し申上げた。」と書いていますので、後日に、もう一度慶喜に拝謁して二人の思うところを申し上げたうえで、栄一と喜作は、一橋家に仕官したようです。

 

 

ここも「青天を衝け」に描かれていました。

武蔵国の百姓が一橋家に仕官をするにあたって、事前にお目見えをお願いするなんて異例のことだと思います。

 

 

現在でも入社する前に社長に合わせてくれというのはなかなか大変です。
それを江戸時代に要求するのですから、渋沢栄一は尋常ではなかったと思います。 

 

 

しかし、そんな尋常でない要求に平岡円四郎が応えたのは、それだけ高く渋沢栄一を評価していたからだと私は思います。

 

 

栄一の要求に応えた平岡円四郎も一角の人物だと思います。
以上が慶喜公と初めての出会いです。

 

 

 

 

栄一が万国博覧会の一団になった

渋沢栄一の主君慶喜が慶応2年12月5日に江戸幕府・第15代征夷大将軍となったことに伴って幕臣となりる。

 

 

1867年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランスへと渡航する。

この博覧会に参加するのは、日本は初めて江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩がそれぞれ出展した。

 

                       ▲パリ万国博覧会

 

幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武(この時15歳)、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。

 

 

薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章薩摩琉球国勲章まで作成した。

 

 

幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。

 

この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局幕府は倒れ、幻となった。

 

 

幕府は他の出店者に遅れを取っていた、薩摩藩・佐賀藩から幕府はないがしろにされた。

 

そして、フランス・パリで開催される国際博覧会は2回目、1864年のナポレオン3世の勅令※4に基づいて計画され、パリ市内に119エーカー(48ヘクタール※5、ビヤンクールに52エーカー(21ヘクタール)の土地が用意された。

※4勅令(ちょくれい)とは、天皇・皇帝・国王などの君主が直接発する命令・法令のことです。
※51ヘクタールとは、10000平方メートルになります。坪表示すると約3025坪です。それが48+21=69ヘクタールですから約208,725坪、ゴルフ場でいうと小さな18Hできます、参考にしてください。

 

 

万博のあと、この土地はシャン・ド・マルス公園となって、これ以降のパリ万国博覧会の会場となり、1899年の万国博覧会からエッフェル塔の建設が開始されました。

 

 

広大なパリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各地を訪問する昭武に随行する。

各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会の在り様に感銘を受ける。

 

 

フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。

 


▲大政奉還

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

 

 

 

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