美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

未分類 渋沢栄一

渋沢栄一の家系図ー討幕派から幕臣になって明治維新を迎える

投稿日:2021年4月17日 更新日:

   渋沢栄一の最初の配偶者は従姉妹の千代(1858年〜1882年=24年間)の結婚生活、後妻は兼子(1882年〜1934年=52年間)と結婚。

渋沢家家系図を見てください。
この名前を知っている人は経済に詳しい人ですね。

 

 

今度2024年前半に一万円札の顔になる人で、百姓の時は討幕で燃えてたのに、一橋慶喜の家来になって、ついには第15代征夷大将軍・徳川慶喜幕臣になって出世して行く。

 

 

青年期に幕府の横暴に我慢してた栄一が行動を

 腐敗した政治体制を変えたいと願う、文久3年(1863年)23歳の栄一らは、仲間を集めて、高崎城を襲撃して武器を奪い(いわゆる高崎城乗っ取り計計画・外国人商館焼き討ち計画)貿易関係の外国人に溢れた横浜の外国人商館の焼き討ちを企てたのです。

 

 

総勢70名余りの徒党を組み150両の軍資金を確保し槍や刀などの武器を揃えて用意周到となった。

                   ▲若き日の渋沢栄一のイメージ図

 

この計画は、決行直前の10月末情勢の急変に通じていた、従兄の長七郎の必死の説得により決起は中止となり、この計画は未遂に終わった。

 

 

この従兄弟の長七郎のおかげで、世になお残すことがでした。

 

 

倒幕の計画が途絶えた栄一は、逆に幕府から終われる立場となりました。
従兄の喜作と共に京へ逃げた、彼の運命を変えたのが、徳川将軍(1837年〜1913年)に就く前の一橋慶喜に仕えていた一橋家の用人『平岡円四郎(1822年〜1864年)と出会ったことに始まりました。

 

 

栄一を推奨した彼(平岡円四郎)『天下の権』※5とも評された幕臣です。
※5.天下の権とは、朝廷に在るべくして在らず、幕府に在り幕府にあるべくして在らず、一橋に在り一橋に在るべくして在らず、平岡に在り。

 

 

栄一も幕府から逃れるために武士という身分に落ち着く必要が在ました。

 

 

 

農民から武士に転身・平岡円四郎と一橋家

一橋家の家臣・平岡円四郎のおかげで、一橋家の一員となる決意を固めます。

 

 

栄一は一橋家勘定組頭という財務の長に抜擢されました。
財務を改善するべく藩礼により流通を促し、藩札の発行・財務改善さらに歩兵の募集と編成、殖産興業の奨励など、さまざまな改革に力量を発揮します。

 

 

手腕は主人・慶喜に認められ側近を勤めるまでに出世していくのでした。

一橋家に仕えて間もなく、慶應2年(1866年)第14代将軍・徳川家茂の急逝したため、一橋慶喜将軍に、名を徳川慶喜になったので、栄一は倒幕派から一転、幕府の家臣になりこのとき24歳(妻・千代)です。

 

 

複雑な思いを抱えながらも農家の出にして武士になる夢をいつの間にか果たしていたのです。

 

 

そんな栄一が27歳(1867年)のときに人生最大の転機が訪れます。
慶應3年(1867年)パリで開催される万国博覧会への日本の参加です。

 

 

それまで鎖国体制を敷いていた日本にとって先進諸国の情報を取り入れる、またとない機会に将軍・徳川慶喜は弟・徳川昭武※6のお供として栄一に随行を命じます。

※6.徳川昭武とは、清水徳川家第6代当主、後に水戸藩第11代藩主(最後)、生母は側室で異母弟となります。

 

 

ここからの欧州での栄一の経験が、その後の明治日本の改革多大な影響を与えることになるのです。

 

 

誰もが豊かになるより良い社会を目指した栄一は、そこで何を感じ、その後の日本へ何を持ち帰ったか?

 

 

明治維新を経て官僚・実業家へと転身し近代日本の経済界を先導していった。

 

 

 

若き渋沢栄一の少年期は燃えに燃えていた

欧米列強の脅威が押し寄せる幕末で、官尊民卑の打破。
近代日本経済の父と言われた渋沢栄一は、幕末・明治維新・大正・昭和とかけた近代日本の礎を築いた男です。

 

 

渋沢栄一はは江戸時代末期の1840年、現・埼玉県深谷市の血洗島に生まれます。
父・市郎右衛門と母・ゑいの間に生まれた8人のうち5人は幼く亡くなり、男児のうちでは、栄一だけが生き残ります。

 

                                               ▲渋沢一家の家系図

 

 

養蚕業や藍玉の製造販売を生業とする渋沢家は、地元では有名な豪農で、俗にいう金持ち資産家でした。

                                                                   ▲渋沢家

 

教育熱心な父は栄一が幼い頃から様々な本を書い与え、5歳の時から読み書きを教えた。
論語をはじめとする四書五経※1(ししょごきょう)など多くの書物に触れさせます。
※1.四書五経とは、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。

ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼紀』の一章を独立させたもである。この要綱(意味や解説)は、君子が国家や政治に対する志を述べる大説として日常の出来事に関する意見・主張や噂話などの虚構・空想の話を書く小説と区別される。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいい、五経を以て四書よりも高しとする。「楽経」を含めて四書六経ともいう。

 

この頃読んだ古典の教えを栄一は生涯にかけて役立てていきました。

 

 

 

1840年はどいう時代だったか

渋沢栄一が生まれた1840年は、どいう時代だったのでしょうか?
幕末であった当時は、まだ武士がいた時代です。

 

 

士農工商と言われる身分制度をはじめ、幕府の古い体制が社会に色濃く根付いていました。

栄一が生まれた1840年はイギリスと中国・清の間でアヘン戦争が勃発しており、歴史的に見ると欧米列強が東アジアへ進出する激動の時代でした。

 

 

それまで鎖国を続け外国文化を排斥※2してきた日本に向けても、列強各国は開国を要求します。
※2.排斥とは、受け入れないとして、押しのけ、しりぞけること。

 

 

異国の文化が流入し目紛しく移ろう時代の変化は、栄一の思想にも大いに影響を与えました。

 

 

そんな時代に生まれた栄一は7歳(1847年)の時10歳上の従兄である尾高淳忠のもとへ通い始め、学問のみならず剣術や習字の稽古などにも熱心に取り組みます。

 

 

頼れる存在である尾高淳忠もまた、その後、栄一が進む道に大いに影響を与えた人物の一人といえます。
のちに、実業界の父とも称された栄一は幼少期から、その商才を覗かせます。

 

 

藍葉の買い付けをする、父に同行し取引や交渉を実地で学んだ、栄一は豊富な知識と巧みな話術をつけ13歳にして商売を任されていました。

 

 

14歳の頃『藍玉力競』という藍玉の品質に関しての番付を作ります。
仕入れ先の農家を切磋琢磨させることで品質向上を図る仕組みは、栄一が後に理想に掲げた企業の健全な自由競争に通じます。

 

 

商売で富を築いていた渋沢家には、代官所から度々御用金の調達が命じられました。

 

 

あるとき病気で寝込んでいた父も代わりに、息子・栄一が代官所へ赴いたことがあり、そこで、藩主の娘の結婚に際して、御用金500両※3という理不尽な要求を命じられたいいます。

※3.500両は、現在の価値にして数百万円。

 

                                                                          ▲小判

 

栄一には、判断を持ち帰ることも許されず、その場で了承することを強いられる始末、当時は旧態依然とした理不尽な体制も引きずる幕末の時代、社会的には武士が偉く、それ以外の庶民らは蔑まされている向きもありました。

 

 

当時17歳だった栄一は、この出来事から幕府への強い反感を一層高め、官尊民卑※4という偏狭な風潮を打破しようと心血を注いでいくのでした。

※4.官尊民卑(かんそんみんぴ)とは、政府や役人は尊く、民間は卑しいとする風潮。

 

 

庶民らへの圧政の一方で、迫り来る列強各国の脅威に対して弱腰な姿勢を続ける幕府は、安政5年(1858年)にアメリカのタウンセント・ハリスと日米修好通称条約(※通称、不平等条約といいます)を交わすこととなります。

 

 

こういった状況のなか、徐々に民衆も不満を募らせていき、やがて天皇を中心に国をまとめ、外国人を排斥しようとする『尊王攘夷運動』の機運が高まっていきます。

 

 

栄一も、また倒幕派として、この運動に傾倒した一人でした。
文久元年(1861年)栄一が21歳のとき、儒学者、海保漁村の塾へ入門そ、広く庶民が世の中を支えていくようなより良い社会を作っていきたいと願う、栄一は、勤皇志士と交流を深めていきました。

 

 

 

まとめ

渋沢家は名主という身分で満足していなくて、養子に入った父親の影響を得て栄一は商売のコツを植え付けていく、農民から武士になって、運よく平岡円四郎と知り合ったことで運河開けた。

 

 

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