美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

北条時政

北条時政・義時親子の執権政治はいつ頃から野望を持ったか

投稿日:2021年4月9日 更新日:

   初代・鎌倉幕府の将軍・源頼朝が亡くなった後、御家人の中で権力に執着を持ったのが北条時政。

 

この北条時政源頼朝の繋がりといえば、まだ、鎌倉幕府ができる前の話、過去にさかのぼり説明します。

 

 

北条時政頼朝に待遇の不満を持っていたため、亡き後権力に集中する。

 

 

頼朝がここ伊豆蛭ヶ小島に流される

源頼朝は久安3年(1147年4月8日)源義朝と母・由良御前(熱田神宮の大宮司藤原季範の娘)の三男として生まれます。

 

 

平治元年(1159年)頼朝は、父・義朝に従って平治の乱で平清盛に負け、父は落武者狩りに遭いながら、尾張国野間(現・知多半島美浜町の野間大坊・大御堂寺に義朝の墓がある※1の長田忠致(ただむね)に身を寄せていたが、この長田忠致の裏切りによって入浴中に暗殺される。

※1.のちに頼朝は、鎌倉に勝長寿院跡を建て、父・源義朝と蒲田政長(政清)の髑髏(どくろ)を葬った。
長男・源義平は、平清盛の暗殺を企てて処刑、次男・源朝長は落武者狩りに遭って捕らえられ六条河原で首を斬られた。

 

 

頼朝は、平清盛の前に連れ出され殺されると思った頼朝は、清盛の継母・池禅尼※2の命乞いによって救われた。

※2.早く亡くなった子・平家盛に頼朝が似ていたからだという。

 

 

 

ここから北条時政と政子の繋がりができる

池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至った、時政の後妻・牧の方(父・藤原宗親が池禅尼の弟)、がいた伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流された、蛭が多かったことでその名がついたと言われます。

                                             ▲加藤景廉の墓がある牧之原の位置

※どうして加藤景廉が出てくるかというと美濃国岩村に遠山荘を頼朝からもらった御家人の一人です。※興味のある方は加藤景廉をクリックしてください。時代劇で有名な遠山の金さんは景廉の末裔です。南町奉行の鳥居耀蔵は徳川時代の美濃国岩村藩の第三代松平乗薀の三男林述斎の三男です。※興味のある方は上記の遠山金さんをクリックしてください

 

 

流刑人となった若き頼朝を、北条時政烏帽子親となっていた伊東祐親の次男・祐清の妻が、頼朝の乳母の娘だったことから、北条時政伊東祐親「頼朝の監視役」となった。

 

 

頼朝は、ここで父・義朝の菩提を弔いながら約20年近く暮らします。

 

 

ところがモテモテの頼朝は、伊東祐親が大番役で上洛している間に、その娘・八重姫と恋仲になって千鶴という男子を産ませてしまいます。

 

 

激怒した伊東祐親は千鶴(せんつる)を殺害、頼朝を討とうとしますが、八重姫の兄・祐清が先回りして知らせたため頼朝は難を逃れ、その後、北条時政の屋敷で暮らすようになりました。

 

 

哀れ八重姫は入水自殺したとも、すぐに他家へ嫁がされたとも言われ、その後の消息はしれません。

 

          ▲八重姫入水の地

 

そんな悲劇があったにもかかわらず、頼朝は時政のところでも、長女・政子に手を出したのです。

 

 

一説に、八重姫と頼朝の関係は伊東祐親の意向であり、祐親が怒ったのは、頼朝が政子にも手を出していることを知ったから・・・とも言わています。

 

 

時政は伊豆目代・山本兼隆※3 .政子をと思ってたけど、政子が頼朝に惚れ込んでしまい、最初は猛反対した時政も仕方なく結婚を認めたと言いますが、京の情勢に鑑みて二人を娶せたという説もあります。

※3 .目代とは、国司に代わって現地を支配する代理人のこと。当時、韮山地域では最も権力のあった人物。

 

 

この地は、北条氏の支配領域で当初から同地に居住した、周辺には比企尼※4 娘婿安達盛長、川越重頼、伊東祐清が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を取り上げられ放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。

※4 .比企尼とは、平安時代末期の女性、武蔵国比企郡の代官で藤原秀郷の流れを汲む一族である。比企掃部允の妻で源頼朝乳母、娘には丹後内侍、河越尼、比企尼の三女、猶子※5 は比企能員。

※5.猶子とは、(公卿・武家の社会で)兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。養子。

 

 

伊豆の国の目代・山本兼隆の方は源頼朝を目の敵にして、必然的に対立していく。

※.上記の山本兼隆をクリックしてください。詳しいブログが書いてあります。

 

 

政子は平氏と源氏がそいう関係に発展していくということを見抜いて行動を起こしたかどうかは知らないけど、結果的には頼朝伊豆の国の目代と対立する形にさせてしまった。

 

 

平時忠から目代に任じられた目代・山本兼隆が頼朝に討たれたのはそれからわずか47日後のことであるため、兼隆が襲撃されたのは目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けた(頼朝の背後に北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡の堤信遠が背後にいた)ことが背景にあった。

 

 

その後、平氏の挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。

       ▲加藤景廉は伊豆目代・山本兼隆を討ち取って大太刀を頼朝から貰った御家人。

 

皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。

挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らしたことを頻りに後悔する。

 

 

当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱(四兄弟)加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。

 

 

 

頼朝の亡き後の北条時政の権力の欲望

嫡男・頼家が第2代将軍になった一年二ヶ月でやめさせ、自分たちの都合のいい第3代将軍に弟の実朝(在職期間15年4ヶ月)にした。

 

将軍といえども頼朝のように才覚・力がなく、母の政子の父・北条時政・その子・義時に実権を握られていった。

 

 

 

北条時政がどいう職についていたか

当初の鎌倉幕府は将軍・源頼朝の下に、三つの機構を置いている。

 

 

その三つの機構とは、侍所・公文所(のち、政所)問注所の三つである。
侍を統率する部署財務や政治をつかさどる部署、訴訟問題について担当する部署を作ったのだ。

 

 

この時代は土地が何よりも大事で、ある一つの場所、否、土地を認めてもらうために命を懸けて戦うことから、「一所懸命」の語源ともなっているほどだ。

故に、土地についての訴訟が絶えないため裁判所の役割をもつ機関が必要だった。

 

 

そのため、後には土地訴訟専門の部署がおかれるようにもなった。

鎌倉幕府の支配領域は、日本全国には及ばない。西国では朝廷が権威を握っていることもあり、幕府支配領域は関東を主としている。

 

 

しかし、日本初の武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝らによって作られた、武家の、武家による、武家のための政治組織なのだ。

 

 

初代鎌倉幕府将軍・源頼朝亡きあと、2代将軍・源頼家を追放して、建仁3年(1203年)実朝将軍に擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられのが最初とされます(異説もあり)

 

 

北条時政の権力確立の足場となり、政子尼将軍の後ろ盾で2代・執権北条義時侍所を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。

 

 

基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。

 

 

源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。

 

まとめ

北条氏は、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼし、幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、漸次増大していった。

 

 

 

-北条時政

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。