義経は奥州平泉に逃れ、頼朝軍と戦ったというぐらいことは知っています。
後白河法皇の考えで損を食った義経だが、義経にも人徳がなかったこと、逆に朝敵となって頼朝に追われ、奥州平泉に逃れ藤原秀衛に助けを求めた。
どうなったかをお伝えします。
義経のすばらしい戦闘脳力
親の仇、平清盛が六十四歳で亡くなると、急速に力を弱めた平家は、幼い安徳天皇と共に都を離れ、福原を本所地としました。
寿永3年2月頼朝は7万の兵で福原攻めを命令した。
一ノ谷の戦いです。
これに勝った義経は意気揚々と京都に凱旋します。
頼朝は武功を称するどころか、なんの恩賞も与えなかった。
義経は全国の武士を束ねる立場にありながら、秩序を重んじる頼朝は不快に思った。
なぜ3万の兵を置き去りにし単独行動をとったことが許せなかった。
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人々は義経を英雄扱い
他方、都の人は違った義経が大功を立てた事に喜び、この義経に恩賞を取らせたのは朝廷の最大権力者後白河法皇である。
▲イメージ
後白河法皇も後白河法皇で、義経の主君・頼朝に無断で検非違使という官位を与えてしまう。
義経も義経で主君に相談もしないまま官位を受けてしまう。
頼朝が認めなかった義経の勲功を、後白河法皇が評価したのだ、その知らせを聞いた頼朝は激怒して、平家追討軍から外してしまう。
しかし、半年後、平家討伐が一向に進まない状況に業を煮やした頼朝は、謹慎中の義経を再び前線へ送った。
人間所詮都合のいいようにしか行動しないことがわかった。
屋島の戦い、ここでも義経の単独専行で源氏の勝利で終わった。
続いて最後の決戦場壇ノ浦の戦いでも勝利した。
壇ノ浦の戦いの後、頼朝のもとに戦奉行の梶原景時から頼朝の元に書状が届く「義経が軍の規律を乱し、手柄を一人じめと考えている」という内容である。
頼朝は義経の命令に従わなくてもよいと全軍に指示した。
この報せを京で聞いた義経は捕虜を連れて鎌倉へ向かうも、鎌倉の手間へ腰越へ着いた時、兄・頼朝から鎌倉へ一歩も入ってはならぬという命を受けた。
その上、頼朝は義経の所領を没収して収入まで途絶えてしまった。
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義経哀れ後白河法皇に裏切られる
そして兄弟間のすれ違いを危惧した後白河法皇は、御所に義経を呼び兄弟の争い事に油を注いだ。
頼朝の力が突出することに不安を覚えた法皇は、義経に頼朝を討てと言って「伊予守」に任命、さらに源行家と義経を結びつけた。
『吾妻鏡』によると、頼朝と弟・義経の対立が決定的となった、文治元年(1185年)10月、義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣を迫り10月18日、源行家と義経に頼朝追討の宣旨を開始してました。
ところが義経に味方する御家人たちがいません。
法皇は頼朝軍が京に押し寄せてくるので恐れをなして、後白河法皇は手のひらを返すように兄弟喧嘩に巻き込まれるにはいかんと思い頼朝に義経追討の院宣を出した。
そうすると義経は朝敵となって、ひとまず九州へ逃げようと思い船に乗ったが嵐のため吉野山へ逃げた。
義経を追討奥州合戦
文治4年(1188年)2月頼朝と対立して、逃亡していた義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることが兄・頼朝に発覚した。
藤原秀衛は前年文治3年10月に亡くなっていたが、義経と子の藤原泰衛・国衛の三人に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の約束を持って頼朝の攻撃に備えるように遺言したという。
頼朝は「亡き母のため五重塔を造営しること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衛の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奉上した。
これにより頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衛に義経追討宣旨を下だす。
藤原泰衛は父の遺命に従い拒否、業を煮やした頼朝は、文治5年(1189年)になると頼朝は泰衛追討宣旨を発給するよう朝廷に奉上している。
これから遡ること数ヶ月前の出来事が『尊卑分脈』の記述されている、
それによると、文治4年(1188年)の12月に藤原泰衛が自分の祖母(父・藤原秀衛の母)を殺害したとも取れる部分がある。
真意は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられています。
文治5年(1189年)2月15日、藤原泰衛は末の弟の頼衛を殺害している(尊卑文脈)。
2月22日、鎌倉では藤原泰衛が源義経の叛逆※1に同心してるのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。
※1.叛逆(ほんぎゃく)とは、そむき逆らうこと。むほん。はんぎゃく。
2月9日に基成・泰衛から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わなかった。
2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を朝廷に要請している。
よって4月に院で藤原泰衛の宣旨を出す検討がなされた。
義経、藤原氏に討たれ首を取られる
文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。
後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。
今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝えた。
6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。
しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。
▲高館義経堂の慰霊の石碑
鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟(三弟)・忠衡を誅殺している(『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。
忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、討たれたと考えられている。
なお、理由は不明であるが、四弟・高衡は生き残っている。
泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。
奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は大庭景義の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。