武士の魂と言われている刀、刀を構成する要素は非常に多い。
ある時は戦いの道具として、ある時は身分の象徴としての性格を持つ刀に対して刀工たちは、工夫を凝らし実用性装飾性の高いものを生み出し、刀は時代と共に姿を変えていった。
では鎌倉時代の刀はどういう刀だったか?
北条時政所有の刀は天下五剣の一振り
北条氏に伝わった剣は、鬼丸国綱という刀、天下五剣に数えられ、今現在は宮内庁に所蔵されている日本刀です。
特徴的な皮包太刀様式の拵えが付属してます。
▲この拵(こしらえ)は、革包太刀と呼ばれ、拵全体を革で包み紐で巻き締めた黒漆太刀の姿。
「鬼丸拵」と呼ばれ、同様な造りの拵の名ともなっている。
太平記によれば、国綱の持ち主の北条時政は、枕元に夜な夜な子鬼が現れて眠りを妨げているという悪夢に悩まされていた。
ある晩、夢の中に翁が現れ、「自分は太刀国綱である。ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言ったという。
翁のいうとおり、錆を拭い去ったところ、立て掛けておいた国綱が倒れ、近くにおいてあった火鉢の足を斬った。
見るとそれは銀で作られた鬼の形をしており、それ以来夢の中で子鬼に苦しめられる事が無くなったという。
その後「鬼丸」と名付け、北条高時(第14代執権)の代まで北条家に伝わったという。
鬼丸国綱という刀
反りが高く腰から先幅にかけて徐々に狭くなる姿は太刀の理想像とも称される。
▲刀の名所
作刀した粟田口国綱は山城国粟田口の刀工で後鳥羽天皇の御番鍛治を務めた人物。
後に鎌倉へ移り時政に鬼丸を作刀したという。
※源義経の名刀の記事も書いてあります。興味ある方は読んでください。
※信長の名刀“へし切長谷部”の記事も書いてあります。興味ある方は読んでください。
その後の鬼丸国綱行方
北条執権家から名越高家(北条)に渡たっが、高家が山崎合戦(久我畷の合戦)で赤松円心と交戦(1333年)したさい討死にしたため、第14代執権・北条高時に戻る。
正中3年(1326年)に北条高時が24歳で病を得て執権を辞して出家する(相模入道)と、後継をめぐり鎌倉幕府が分裂する。
高時の庶子の邦時を推す内菅領長崎氏と、正嫡子が生まれまで高時の弟である泰家を執権に
つけるべきと主張する安達氏(高時の正室は安達氏)が対立し、「嘉暦の騒動」が起こる。
金沢貞顕(北条氏庶流)が執権に就任するも安達氏の圧力を受け10日あまりで辞任、その後、赤橋守時(引付衆一番頭人)が鎌倉幕府最後の執権に就任した。
同じ頃朝廷でも大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化しており、元弘元年(1331年)8月に後醍醐天皇が、再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する。
幕府は軍を派遣して、これを鎮圧し後醍醐天皇を隠岐島へ配流するが、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で再び挙兵する。
幕府は、名越高家と共に御家人筆頭・足利高氏(尊氏)を京へ派遣するも高家は赤松則村に討たれてしまい、その後、高家は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略。関東でも新田義貞が挙兵し鎌倉へ進撃し、北条高時は北条家菩提寺である葛西ヶ谷東勝寺で北条一族らと自刃する。
「鬼丸」は、次男の北条時行に持たせ信濃国に落ちて行き、兄の北条邦時へ渡るも新田義貞に討たれ「鬼丸」は、北条家亡き後新田義貞、斯波高経の手を経て足利将軍家に伝わる。
以後、足利氏代々の重宝として秘蔵され、室町幕府13代の足利義輝が二条御所での死闘の際に振るったという。
その後の鬼丸の行方
足利義昭から織田信長に贈られ、さらに秀吉に渡るが、秀吉は鬼門よけの意味を込めて、京都の本阿弥光徳に預けた。
秀吉亡き後、光徳は徳川家康に献上したが、やはり家康も「太閤深き考ありて其の方へ預けた太刀なれば、其儘預るべし」と言って本阿弥家に戻し、同家で保管していた。吉宗・慶喜しかり手に取るが戻した。
鬼丸天皇家に渡るも返す
寛永3年(1626年)11月13日、後水尾院に嫁いだ徳川和子に皇太子高仁親王が御誕生の節、翌月4日「鬼丸」が御所に献上された。
しかし寛永5年(1628年)6月11日に皇太子が薨御したため、「不吉な太刀である」とのことで再び本阿弥家に戻される。
「鬼丸」は、どこへ行った?
家職を失った本阿弥当主の本阿弥悌三郎は、実家の柏原姓に復し、跡をわずか6歳の道太郎に継がせ、これにより本阿弥家に実質的に管理能力が失われたため、明治14年(1881年)宮内庁に返還される。