鎌倉は南に海・北東西は山に囲まれ狭い地形だから、頼朝は鎌倉幕府を創ったんだろうか?
都は疫病が蔓延していて行きたくなかったか?
慣れ親しんだ湘南地方だから鎌倉に置いたんだろうか?
いずれも該当していそうな理由じゃないですか?
でも決定的なことは、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと書いてあります。
ここで鎌倉の「鎌倉七口」について紹介すると、頼朝に深い関係があるのが見えてきます。
鎌倉には七つの切通しの道
「鎌倉七口」という、物資運搬のために山などを切り開いて、造った道「切通し」名が、「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通し」「極楽寺切通し」「頼夷奈切通し」「名越切通し」があります。
▲鎌倉七つの切通しの略図
これを纏めて、「鎌倉七口」と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ特に重要な要路となったわけだす。
「鎌倉七口」に入ってない「釈迦堂口切通し」もあります。
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①亀も急坂のため引き返した「亀ヶ谷坂切通し」
▲急な坂のため亀も引き返したという別名「亀返坂」とも言ってた。
扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ急坂、現在も生活道路として北鎌倉へ通じる裏道として使われてます。
北鎌倉駅から建長寺方面に向かい、建長寺手前の路地を入ると観光客がほとんどいない緩やかな坂道になります。
ここが亀ヶ谷坂切通し。
この切通しとは、山や丘などを掘削し人馬の交通が行えるようにつくった道路です。
交通だけではなく防御の役割も果たしています。
治承4年(1180年)10月6日源頼朝が安房から大軍を引き連れて鎌倉入りしたが、北から鎌倉へ入る道はここだけであったため、頼朝はこの道を通って鎌倉へ入った。
坂を下り左にある寿福寺を通り由比ヶ浜の八幡(元八幡)に向かったと言われています。
元八幡宮は頼朝の先祖・源頼義の子・源義家と、「前九年の役」(1051〜1062年)で奥州の豪族・安倍氏(安倍氏の反乱)を討伐した。
源頼義は「前九年の役」に臨んで、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮に戦勝祈願を行い、勝利したお礼として、役を平定した翌年の康平6年(1063年)に、由比の地に(由比の里)に京都・石清水八幡宮を移し、祀ったところである。
源氏の氏神である八幡宮を、開府以前の鎌倉に祀ったということは、鎌倉が源氏にとって如何に重要であったかが伺えます。
治承4年(1180年)10月6日、安房から大軍を連れて鎌倉入りを果たしたとき、源氏の守り神を祀った、この源氏ゆかりの八幡に最初に訪れている。
その後、治承4年10月21日の頼朝が由比若宮(元八幡宮)を小林郷北山に遷宮したのが、現在の鶴岡八幡宮です。
現在は、北鎌倉からJR鎌倉駅方面や海臧寺や銭洗弁財天方面の近道になっています。
坂道は峠にかかると、向こう側は急勾配です。
頼朝の時代は北部から鎌倉に入るルートはここだけだったようです。
切通しの一番高い部分には岩壁が露出していて、六地蔵が祀ってあります。
②化粧坂切通し
化粧坂切通し(けわいざか)名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからであるとか、この辺に遊女が住んでいた。
▲化粧坂切通し
化粧坂切通しは、鎌倉の古道JR鎌倉駅方面から源氏山へのアクセス口となる切通し。
この切通しは、化粧坂切通し(けわいざか・化粧坂・仮粧坂)とも記される)と言われ、鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つとして知られています。
この辺に遊女が住んでいたからと諸説あります。
想像力を掻き立てられる名付けの坂です。
扇ヶ谷から葛原岡へ続く坂で、鎌倉の防御上重要な位置であるため、元弘3年(1333年)5月16日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道で、わずか80m程の坂道であるが幕府軍の抵抗は激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破出来なかった。
この化粧坂切り通しは、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る切通しです。
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この道路は武蔵方面へ通じる主要な出入り口として、鎌倉の防御上重要な意味を持っている。
鎌倉後期には栄へ人々の往来で賑わっていたようです。
③巨福呂坂切通し
鎌倉中心部と北鎌倉をつなぐ、かつての主要路です。
現在は巨福呂坂(こふくろざか)は、生活道は新しくできた巨福呂坂トンネルに代わり、かつての山越えの古道である切通しは使われていません。※行き止まりとなります。
巨福呂坂、 この切通しは、鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が延応2年(1240年)に防衛と人の通行、物資の輸送の便を図るために、深い切通し造った鎌倉中心部と北鎌倉をつなぐ、かつての主要路です。
鎌倉幕府最期となった元弘3年(1333年)5月、新田義貞軍の将・堀口貞満と、守る北条軍の将・長崎高重の間で、両軍の激突は物凄く、19日から22日まで烈しい攻防戦が展開された戦いが巨福呂坂の戦いです。
生活道は新しくできた巨福呂坂トンネルに代わり、かつての山越えの古道である切通しは使われていません。
④大仏坂切通し
仁治2年(1241年)〜建長2年(1250年)頃に開かれたとされています。
▲大仏坂きり通し
鎌倉長谷と梶原・山崎を経て藤沢をつなぐ、かつての主要路です。
鎌倉幕府の防御の重要拠点として位置つけられ、近くに北条氏の重臣が住んでいた居館・常盤邸がありました。
この切通しは、左右に切り立った崖が続く、急坂の山道であり、いまだに中世鎌倉の雰囲気を残している幽玄な場所。
今は、大仏坂トンネルができ切通しを通る人もなく、切通しへの入り口が分かりにくく、生活道は新しくできた大仏坂トンネルに代わったため、未だに中世鎌倉の雰囲気を残している。
明治時代にトンネルが掘られ、街道が今のバス通りに移りましたが、切通はかつてのままに残されため、鎌倉時代の雰囲気を残す貴重な小径です。
生活道は新しくできた大仏坂トンネルに代わったため、道の真中に巨石が残り、両側が岩壁に囲まれているなど、未だに中世鎌倉の軍事要塞の雰囲気を残している。
今は、大仏坂トンネルができ切通しを通る人もなく、切通しへの入り口が分かりにくい。
⑤極楽寺切通し
坂ノ下から腰越、片瀬に続いて、更には京都へとつづくかつての主要路です。
元弘3年(1333年)5月新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つです。
鎌倉幕府の最後、北条氏滅亡の時、新田義貞は自ら2万騎を率いて深澤・津村を経て、腰越に迂回した。
極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。
幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数の死者がでた。
新田義貞は、極楽寺坂の突破を諦め、稲村ガ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかった。
現在は舗装された道路となり当時の面影はありません。
極楽寺と由比ヶ浜方面を結びます。
極楽寺坂の頂上とも言える、かつてあじさいの名所であった成就院への参道より由比ヶ浜を臨む。
山の上に位置するため、あじさい越しに由比ケ浜の雑踏が嘘のようにが静かに見える絶景スポットで、鎌倉の中でも比類なく素晴らしい景観です。
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⑥朝夷奈切通し
「あさいなきりどおし」と読みます。
鎌倉七切通しの一つで、仁治元年(1240年)、北条泰時により鎌倉と金沢・六浦を結ぶ道として造られました。
▲朝夷奈切通し
いつ頃完成したかははっきり分かっていませんが、あまりに早くこの道が完成したため、朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)という豪傑(ごうけつ)が一夜でこの峠を切り開いたという伝説ができました。
今は別に新道が開かれたので、この道を通る人はあまりいませんが、鎌倉時代のおもかげをよく残しているので国の史跡として保護されています。
鎌倉中心部と六浦(現・横浜市金沢区)をつなぐ、かつての主要路(六浦道)です。
鎌倉の海は遠浅で、波の高い時に船をとめる事ができなかったので、鎌倉の東側にある六浦が鎌倉の海の玄関として栄えました。
今は別に新道が開かれたので、この道を通る人はあまりいませんが、鎌倉時代の面影をよく残しているので鎌倉の貴重な遺構であり国指定史跡です。
⑦名越切通し
「なごえきりとおし」と読みます。
治承4年(1180年)に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地でした。
▲名越切通し
そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、その多くは細くて急な尾根越えの山道か、危険な波打際の崖下の道であったと思われます(古代の「古東海道」)がこの地域を通っていたと考えられます。
13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展しますが、頻繁となる物資や人々の往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなりました。
その難渋を除くため、都市の基盤整備の一環として、後に「鎌倉七口」などと呼ばれる切通し路が開削されたと考えられます。
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名越切通しは、鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路の一つです。
周辺には、切通の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸、やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構も多く分布していて、中世都市の周縁の歴史的景観を良く残しています。
生活道は新しくできた小坪トンネルに代わったため、未だに中世鎌倉の雰囲気を残している趣きのある古道です。
かつて北条氏にとっては三浦半島の三浦氏が脅威であったため、三浦半島に続くこの道には「大切岸」のような防御機構の名残がのこっています。
難路から「難越え」、転じて「名越」になったといわれています。
現在の横須賀線の名越トンネル上に旧道が残っていますが、生活道は新しくできた小坪トンネルに代わったため、未だに中世鎌倉の雰囲気を残している趣きのある切通しです。
なぜ頼朝は切り通しを造ったか
要害の地であった鎌倉は、鎌倉以外の地域と行き来する場合には、必ず峠を越えなければならない。
鎌倉の周囲の山は標高100m程だが、山道なので結構険しい、さらに小さな河川が複雑な谷戸を形成しているため、いざという時に優れた防衛力となる。
頼朝が鎌倉を選んだ理由の一つは、いろいろあるが「鎌倉は三方が山南は海という、天然の要害」であったのが、最も大きな決め手だったろう。
しかも一方は海だから諸国との交易には困らない。
山越る場所には、人や物資の往来が便利なように「切り通し」を造りつつ、大軍が一度に攻められないよう考えた道路です。
まとめ
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流され、平家の伊東祐親・北条時政の監視下に置かれていたが、北条政子と結婚したことによって、北条氏を味方につけていった。
これも頼朝の計算であったと思う、いくら源氏の棟梁といっても味方をつくらなければ戦えない。
それで挙兵して平家を倒し、鎌倉幕府を開いて朝廷政治から武家政治にしたのも頼朝、それが徳川時代まで続いた。