コロナ感染で令和2年から4年まで伝統ある秋祭りが中止になり、岩村秋祭りの行列もやっと今年(令和5」年10月1・2日)で行列が行えることになって町中が浮き立っています。
この行列は武並神社から上の八幡神社へ初代・岩村城主・遠山景朝が父・加藤景廉に逢いに行って酒でも酌み交わして一晩語りあって帰って来る行事です。
翌る日には神輿を奉じて武並神社へ還御するが、この渡御・還御の大勢の農民や町人が供奉(くぶ)した。
神輿渡御・還御の行列は時代と共に若干の変化はあったが、いまも町を挙げての行事として町民が参加してる。
行事としては古く当時は花馬も本物の馬を登場してたのに、今は木馬を使用していて呆れました。
僕に言わせてもらったら伝統ある秋祭りを伝統のままやってほしいものです。
言わずと知れた、この行事は町指定のお祭りであるため、もっと重き風格のあるものにしたいものです。
この行列は岩村町をここまで発展させた人物という事を忘れた愚かな政治家?たちの考える経費削減、これによって八幡神社・武並神社も修繕しないに等しい社状態、改築して常日頃神官を置いて守ってもらいたいと思う者です。
城内に八幡宮を造ったわけ
岩村町の秋祭りは、今年は2022年10月1・2日に行われます。但し行列は縮小されています。
徳川時代の大給松平家宗家の2代岩村藩主・松平乗寿が五穀豊穣・家内安全・平和を願って行われた秋祭りです。
八幡神社には岩村城創築を源頼朝からこの地方に地頭を補された加藤景廉が、承久の乱後に死去した。
城内八幡宮は岩村藩神社調べによると、承久年間(1219年〜1221年)鎮座とあるが、城が築かれた頃から鎮座したものであろうと考えられる。
誉田別命を祭神とし、岩村城創築の祖である加藤景廉を配神として景廉を遠山一族が城内の八幡宮に祀ったとされている。
中世から江戸時代にかけて城内鎮守の神として歴代城主及び家中の崇拝が篤かった社である。
もともと城中にあったので民間の参拝は許されなかったが、苗木と明知の遠山家から毎年参拝がなされた。
これは岩村遠山氏が美濃遠山氏の宗家であり始祖・景廉への礼拝を意味していた。
その後、城主の交替はあっても八幡宮への崇敬は変わらなかった。
八幡宮が本丸の北にあった、社殿の側の櫓は八幡櫓と称して北監視の望楼とした。
▲これが八幡宮の図です。
▲八幡櫓の図です。
▲登城口から土岐門大手門をを通って八幡曲輪の前に霧が井戸がある
永正5年(1508年)の棟礼など4枚が県指定を受け、景廉公の木像と絵馬の何枚かは町指定です。
城があった頃の祭礼は
徳川時代に行列ができた。
両神社を結ぶ神輿渡御の創設者・岩村2代藩主・松平乗寿(大給松平宗家七代は1614年〜1638年まで在城、この他に祥雲寺・庚申堂、石室千体仏を建立した殿様→浜松城へ国替へ後に老中になる)が、寛永8年(1631年)武並神社を壮大な社殿に建て替え、これを機会に盛大な祭礼をしたといわれる。
※上記の祥雲寺・庚申堂をクリックしてもらえれば詳しい記事があります。
※上記の石室千体仏をクリックしてもらえれば詳しい記事があります。
元禄16年(1703年)の差出帳によれば「武並祭礼九月九日執行、踊りあり。御奉行出張、殿様より祝儀あり。餅米五斗宛下さる」とある。
松平乗寿は転封するが、後の丹羽氏に替わっても祭礼は休む事なく現在まで続いています。
八幡神社は岩村城内にあったので、行列は藩主邸まで行き、ここで武士団に神輿をわたし、武士団が神輿を奉持して城内を登り八幡神社まで着けた。
祭礼の両日は岩村藩士も残らず出仕ことを例とし、岩村藩校知新館は休講した。
神輿を武士団へ渡した農民・町人らは藩主から御神をいただき、藩主邸の付近にへり(うすべり)を敷き、持参の重箱入り肴や町内差し入れの酒などで祝宴し、三番叟、能狂言、唄舞などを披露して楽しんだ。
藩主も藩主邸から町人の芸をご覧になることを原則としたが、藩主不在の折は家老が藩主代理を務め、ときには江戸表より代理が差し向けられた。
祭礼担当の藩主も任命されていて町方との連絡、日程の打ち合わせなどに当たり、通常祭奉行といい、町方からは御奉行と呼ばれていた。
祭奉行の工程
神輿渡御行列の構成は衣装、道具とも江戸時代からの物で、山上家文書の嘉永6年(1852年)「武並宮御祭礼規定」に当時の構成が詳しく書かれている。
※上記の山上家をクリックして頂くと詳しい記事があります。
基本的には現在も変わらず、76役、総人数300人前後が参加する。
現在では花車、花馬、御神馬は岩邑小学校1年生が曳き、御宝剣、五行幣は同小学校の男子が奉時する。
行列中の「打囃」は江戸時代から入若連により伝統芸能として守られています。
「入り」とは一色、領家、大通寺、山上の4町内をいい、入地区は岩村城下町の農村部であった。
その入りの若者によって組織されているので入若といわれる。
打囃は小太鼓2人、拍子木2人、摺金2人、笛4人、大太鼓2人、そして打囃奉行1人の13人で構成されています。
笛は、いまでも町内に生えている「すす竹」を使用しての手製のもので。その技術も伝承されている。
「御案内」は現在では旧入地区の庄屋であった山上家が代々務めているが、かつては森、浅見、松田、木村、長谷川といった町の庄屋・問屋も参列していた。
行列の全員が古式に則った衣装で参列し、諸道具も伝統によるもので、例えば行列中の御神馬(現在は作り物)に使用する飾馬具は天保年間(1830年〜1843年)の物が使用されています。
祭礼の時期当時とこんにち
江戸時代から9月9・10日(旧暦)であったが。新暦時代となって10月1・2日となり、昭和中期より10月の第一土・日曜日になりました。
武並神社は武並山から現在の位置に移された
現在は岩村駅の近くにあってとてもいい雰囲気の社です。
武並神社は大己貴神(おおなむちの神)を始め諸神とし、配陣として遠山景朝を祀っています。
この神社いつの頃から武並山に鎮座したかにについては諸説あって、神社調べで延文元年(1356年)とあり、大永年間(1521年〜1528年)という説もあります。
『巌邑府誌』では武並の本廟(ほんびょう)は蕨平(わらびたいら)にあったと書かれてます。
しかし武並神社を遠山氏の氏神とし、武並神社を奉じて遠山氏が領内各地に散在しているので鎌倉中期から末期には存在していたと考えられる。
当初の社殿は、ささやかな小祠であったが、寛永8年(1631年)2代岩村藩主・松平乗寿が武並山上に壮大な社殿を造営した。
城内八幡宮の父・景廉へ対面に行くという祭礼は2代目岩村藩主・松平乗寿の創始によるものと考えられます。
大正4年(1915年)9月、現在の岩村町一色天王山へ遷宮され、武並山は遺跡となりました。
祭礼
五穀豊穣・家内安全・平和を祝っての村祭りでもあります。
岩村城を築いた加藤景廉の子である景朝のご神体を神輿に乗せ、時代衣装を身にまとった総人員約300人が長さ300mに及ぶ行列を整え武並神社を出発、岩村本町通り(重要伝統的建造物群保存地区)約1.7kmを練り歩き、神輿を景廉が祀られている八幡神社に運びます。
神輿は景廉のもと、親子対面を 果たして一夜を過ごし、翌日、再び神輿は行列によって武並神社に帰ります。
行列の役割・内容などは嘉永5年の「武並宮御祭礼規定」にある次第と基本的に変化していません。
祭礼の初日は、神輿の神輿渡御は数百メートルに及ぶ行列を整え、武並神社の祀られし遠山景朝が朝神輿に乗って父・加藤景廉のいる同町の上町へ城下町を通って父の待っている八幡陣神社へと向かいます。
江戸時代になって神宮寺ができ、大給分家の松平氏になって薬師寺が下段に置かれた。
薬師寺は信州小諸にあったのを松平乗紀の国替えと共に城内へ移した。
城内八幡宮は神官と法印とで奉仕した。
『岩村神社史』によると、明治6年(1873年)4月、岩村城の廃城により大路弁財天社内へ遷宮した。