徳川家康は多くの側室を持った
家康は今川義元の人質となって、義元の縁者・姪の瀬名姫を正室として結婚をした時は、今川家にいてさすがに側室という訳には行かず遠慮してた家康だが、織田信長による桶狭間の戦いによって今川義元を討ち取って自由になる。
家康の最初の側室となったのは西郷局、永禄3年(1560年)今川義元の親族でもあった今川氏の家臣で、三河国宝飯郡上ノ城(現・蒲郡市神ノ郷町)の城主・鵜殿長照の娘であったた。
家康が永禄5年(1562年)鵜殿長照(祖父)と鵜殿長持父子を討ち取って、息子・氏長と弟・氏次を捕縛し、捕らえた兄弟と身柄引き換えに、今川氏に臣従していた時期に今川家に人質として差し出していた正室・瀬名姫と嫡男・竹千代(後の元康)、長女・亀姫らを返還するよう今川氏に要求した。
捕らえた氏長の祖父・鵜殿長持の正室は今川義元の妹だったため、当時今川氏の当主・今川氏真にとっては近い親族であったため交換に応じた。
人質交換は成立し、氏長兄弟は今川氏に引き渡された。
その妹は美貌で知られていた西郷局は家康に気に入れられ側室になって、永禄8年(1565年)に次女・督姫※を産んだ。
※.督姫は、三河国の生まれ。松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、松平忠輝らは異母兄弟、亀姫、振姫は異母姉妹に当たる。
側室となった蔭山殿
▲順不同。家康の側室たち
側室の一人養珠院・蔭山殿は、天正5年〜承応2年(1580年〜1653年)の生涯で、徳川家康の側室となった女性でした。
出自は、源頼朝に仕えた武将・三浦義村の娘・矢部禅尼を先祖とする三浦宗家の末裔、父は安房正木氏の一族の正木頼忠(三浦氏庶流)、母は北条氏隆の娘、家康から三浦姓を許され大阪の陣で活躍した三浦為春は兄に当たる。
お万の方が幼い頃、母が蔭山氏広と再婚したことにより、氏広に養われ伊豆で育った。
文禄2年(1593年)、三島本陣で家康に見初められ、伊豆国韮山の江川英長の養女として家康の側室となる。
その蔭山殿は、家康との間に伏見において、慶長7年(1602年)に徳川頼宣(10男)と慶長8年(1603年)に徳川頼房(11男)を産んだ。
徳川頼宣は、元和5年(1619年)7月、紀伊和歌山藩65万五千石に転封、紀伊徳川家の祖となり、弟の徳川頼房(当時は、鶴千代で下総下妻藩より25万石で入った。家康の11男)です。
蔭山殿の幼名
出自については、源頼朝に仕えた三浦義村の娘・矢部禅尼を先祖とする三浦宗家の末裔で、父は安房正木氏の一族の正木頼忠(三浦氏庶流)、『寛政重修諸家譜』などでは勝浦城主・正木頼忠と母・智光院※との間に生まれた娘とあり、また『南紀徳川史』では、河津城主・蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘、もしくは冷川村の百姓夫婦などの諸説あります。
※.智光院とは、北条氏隆の娘。
また母とされる智光院は、『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘とあり、『南紀徳川史』では田中奉行の娘(板部岡江雪舟※1の姉、氏隆養女)という説がある。
※1.板部岡江雪舟とは、戦国時代から江戸初期にかけての武将。外交僧。後北条氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。鎌倉幕府の執権・北条時行の子孫とされる。
蔭山殿の生い立ち
蔭山殿は、天正5年(1577年)に生まれ、戦乱で逃れた伊豆の地で成長した。
17歳のとき沼津本陣で徳川家康(52歳)に見染められ側室となる。
歳の差35歳。
その美貌・知性ゆえ、元和2年(1616年)で没する家康の晩年において、最も寵愛された女性である。
蔭山殿は、紀州藩の祖・徳川頼宣(家康の10男)、水戸藩の祖・徳川頼房(家康の11男)の生母(頼房の養母は、英勝寺開基の英勝院(お勝の方))であり、紀州藩で8代将軍となった吉宗以降、14代将軍・家茂までの将軍、孫の水戸光圀や15代将軍となった慶喜をも子孫に残した。
まさに徳川家の礎ともいうべき人物である。
蔭山殿は、慶長3年(1598年)の22歳の時に、日蓮宗信徒の養父・蔭山氏広を亡くし、法華経信仰への帰依を深めていった。
※.母・智光院は蔭山氏広と再婚したため、養父・蔭山氏広に恩義を感じていた。
当時、高名な日重(身延山久遠寺第20世)、日乾(身延山久遠寺第21世)を師事した後、そのあとを継いだ日遠は元亀3年〜寛永19年(1572年~1642年)の説法に心服した。
慶長9年(1604年)行学※2に優れた日遠は、33歳で身延山久遠寺に晋山(第22世)し、お万の方から宗祖日蓮聖人の再来と尊崇され、生涯の師とする深い帰依を受けた。
※2.行学(ぎょうがく)とは、仏語。修行と学問。行法と修学。行とは、「自ら行う」修行であり、「化他」とは、「他を化する」すなわち他者」を教化教導する修行のことです。 「自行」とは、「自ら行う」修行であり、「化他」とは、「他を化する」すなわち他者を教化教導する修行のことです。
家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠らを不快に思っていた。
慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での浄土宗・日蓮宗の問答対決を不利とみて、直前に日蓮宗側の論者(日経)を家臣に襲わせた。
日蓮宗側は瀕死の重体で宗論の場に臨まされ、一言も答えることができず、浄土宗側が勝利した。
※.慶長の法難、その後、日経とその弟子は投獄、拷問を受け、翌年京都六条河原で耳切り・鼻そぎの刑に処せられる。
この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。
これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしよう(駿府の法難)としたため、お万の方は家康に日遠の助命を嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。
すると蔭山殿は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、一緒に処刑されるための、日遠と自分の2枚の白装束を縫う。
これには家康も驚いて日遠を放免した。
この蔭山殿の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も感動し、「南無妙法蓮華経」と七文字書いたご宸翰を、お万の方に下賜されたという。
大野山本遠寺は山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗の別格本山である。
慶長13年(1608年)慶長の法難の連座を不徳とし、総本山・身延山久遠寺を隠退した日遠の草庵から始まり、日遠を開山、蔭山殿(養珠院)を開基として創建された。
別名「蔭山殿の寺」とも称される。
蔭山殿は二人の子供、紀州藩主・徳川頼宣と水戸藩主・徳川頼房に命じて大伽藍を寄進させ、境内が整備される。
蔭山殿の死去
蔭山殿(養珠院)は承応2年(1653年)8月21日江戸紀州藩邸において77歳の天寿を全うした。
墓所は遺言により、この寺にある師・日遠上人の御廟に並んで、紀州藩主・徳川頼宣により造られた。
壮麗・雄大な高さ4.55mの宝篋印塔、正面の石門と周囲の玉垣の細工など、紀州藩が派遣した石工の手によるものと推定され、当時の最上級の技術・部材により造り出されたもので、山梨県指定史跡とされている。
蔭山殿(養珠院)は丹誠厚い日蓮宗外護により、新寺建立、霊跡復興に尽力し、江戸時代の日蓮宗発展の礎をつくったともされるその功績から、各地にも祀られている。
日遠は受不施義(他宗・不信者からの布施・供養を受け入れる)の関西学派の頭領として、当時隆盛を極めていた日奥・日樹らの不受不施義を主張する関東学派に対し、鋭く論陣をはった。
寛永7年(1630年)2月20日江戸城内での受・不受の宗論(身池対論)では、幕府権力を背景に不受の関東学派を打ち破り、その後幕命を受けて不受不施派に代わって、日遠が池上本門寺貫主となった。(日奥・日樹らは流罪となる。)
しかし翌年に弟子の日東に池上を譲り、自らは鎌倉経ヶ谷に不二庵を建てて隠棲した。
この庵にはお万の方(養珠院)をはじめ多くの信徒が度々参詣して法話を聞いたという。
日遠は寛永19年(1642年)2月下旬に病を感じ、日蓮聖人入滅の地を慕い、鎌倉から池上本門寺に帰り3月5日71歳で示寂した。
日遠上人の晩年は、名実ともに宗門を代表する高僧として仰がれ、師の日重、兄弟子日乾と共に「宗門中興の三師」と評される。
妙本寺に仲良く並ぶ二人の供養塔の前で、改めて二人の師弟関係、波乱万丈の人生と成した偉業に思いをいたし、深い感慨を覚えた。
家康の死後の身の振り方
蔭山殿は、徳川家康の死後、落髪して養珠院と称し、久遠寺(身延町)や池上本門寺(東京都)の保護に尽くしたが、承応2年(1653年)8月21日に、江戸の紀州藩邸で死去した。
紀州藩主・徳川頼宣は、養珠院の遺言により、本遠寺に壮麗で雄大な宝篋印塔を建立し、菩提を弔った。
宝篋印塔は関西形式で、正面の石門と周囲の玉垣の細工は県内では類例がなく、紀州藩が派遣した石工の手による墓と推定されている。
墓石の材料は御影石、欠損部位もなく、近世初期の大名墓と墓制を知る上で貴重な資料といえる。
また、当時、最上級の技術や部材により造りだされたもので、徳川家の盛時を偲ばせる。
墓所には宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)、玉垣(花崗岩)、石門(平唐門・花崗岩)、石燈籠、手水盥、墓所周辺に紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣がある。