鎌倉幕府がなぜ倒れたか?
原因はなんだったのか?、ある高校教科書に載っていたのは三つの原因があげられていました。
①蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したのに、幕府から十分な恩賞を与えられず不満がいっぱいで幕府への信頼を失った。
②御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化してしまい、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏していって、そのため、幕府は徳政令(永仁の徳政令)を出すなどして御家人救済に務めたが解決は至らず、各地で悪党と呼ばれる者が活動をはじめ、幕府と御家人との信頼関係も薄いものとなっていった。
③畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。
このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の先制政治がされたが、それがますます御家人の不満をつのらせていった。
以上。
この中で最も重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況だった事でしょう。
最後の執権となる北条高時の時代、「得宗」の家人の第一人者である内菅領・長崎高資が権勢を振る舞い、この行為が御家人たちの反感・反発を生んでいきました。
源頼朝が旗揚げをして、鎌倉入りしてから153年続いた鎌倉幕府は、源氏将軍は3人で終わり、あとは北条氏の執権により第4代の征夷大将軍から9代まで実権を握った北条一族。
しかし、鎌倉幕府は元弘3年/正慶2年5月22年(1333年7月4日)東勝寺合戦による鎌倉幕府と北条得宗家の滅亡した時である。
ただし、幕府の九州統治機関である鎮西探題※1の軍事力は残存していた。
※1.鎮西探題とは、当時モンゴル襲来後、九州地方における御家人の軍事統率と訴訟裁断を目的として、博多に設置された鎌倉幕府の出先機関。
なぜ鎌倉幕府ば滅亡したか
ときは、文保2年(1318年)に後醍醐天皇が即位し天皇新政※2を志した。
※2.新政とは、皇帝や天皇が自ら政治を行うこと。
正中元年(1324年)後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を企てるが、事前に六波羅探題に知られ、計画に参加した側近の日野資朝と日野俊基が捕らえられ、翌年、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇と日野俊基は許されてた。
これを正中の変という。
許された後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)にまたもや倒幕の計画をするが、側近「後の三房」の一人吉田定房が後醍醐天皇の計画を六波羅探題に密告して知られてしまう。
またも失敗してしまう。
幕府の関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は元号を「元弘」への改元を詔※3し(だけど幕府・持明院統は認めず)さらに同月後半に京都を脱出して、一品中務卿の尊良親王と元・天台座主の尊雲法親王(後の護良親王)の二皇子と共に笠沖山の戦いを起こした。
※3.詔(みことのり)とは、天皇の仰せ(を書いた文章)。宣命・宣旨・勅語・詔書など。
その時、武将・楠木正成、桜山滋俊もこれに呼応して、正成は下赤坂城の戦いを開始、桜山滋俊は備後の地吉備津宮で挙兵したが自害をした。
しかし、後醍醐天皇と尊良は捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延た。
二度までも幕府の転覆を企てた後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐天皇の大覚寺統と対立する持明院統の皇統(両統送立)から光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は後鳥羽上皇と同じ隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流され、腹心日野資明は処刑された。
元弘2年/元徳4年(1332年)4月10日、幕府は関係者の処分を終え終結を宣言した。
これを元弘の変。
それにも懲りず鎌倉幕府討伐
同年末に楠木正成と還俗した護良親王※4が再度挙兵し、さらに翌年、元弘3年/正慶2年(1333年)には隠岐島に流された後醍醐天皇と尊良親王※5が脱出した。
※4.護良親王(もりよししんのう)とは、還俗前の名は尊雲法親王で、後醍醐天皇の第三皇子とされる。
※5.尊良親王(たかよししんのう)とは、後醍醐天皇の第一皇子。
船上山で倒幕の綸旨※6を発した。
※6.綸旨(りんじ)とは、蔵人所が天皇の意を受けて発給する命令文書。▲
足利尊氏も鎌倉幕府に反旗を翻し、6月7日赤松円心らとともに六波羅探題を攻め落とした。
足利高氏(尊氏)らが六波羅探題を落とした、翌日の元弘3年(1333年)5月8日上野国生品神社せ新田義貞が挙兵した。
新田義貞の鎌倉攻め
小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで北条軍を破り、鎌倉の難所切り通し、巨福呂坂、化粧坂、極楽寺切通の三方から攻め込んだ。
※上記の鎌倉の難所切り通しの記事が掲載してあります。興味ある方は読んでください。
▲化粧坂
そして、5月21日に稲村ヶ崎から鎌倉への突入に成功する。
この攻撃で北条得宗・北条高時を始めとする北条一族は、5月22日東勝寺で自刃した。
これにより鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉幕府滅亡後の混乱
鎌倉幕府滅亡し、後醍醐天皇が「建武の新政」を行ったものの、公家優先の方針をとったため、地方武士の不満は募ります。
こうした情勢を見て足利尊氏は反乱を起こし建武の新政は崩壊した。
足利尊氏は「北朝」を立てて室町幕府を開いた、しかし、後醍醐天皇の「南朝」と対立する南北朝時代がしばらく続くことになります。
まとめ
源頼朝は後白河天皇、北条義時は後鳥羽上皇と戦い、朝廷側は武士を使う側に立ちたい税も朝廷側にしたい、いやいや武士は税は幕府が集めて国をうごかす。
を
繰り返してきたが、再度、後醍醐天皇が建武の新政で同じようなことを望んだので足利尊氏が阻止して室町幕府を築いて行ったのではないかと思う。