北条義時といったら、北条政子の弟だといぐらいは知っています。
何をしたかというと、あまり理解をしてない。
1163年(応保3年・長寛元年)に、北条時政の次男として生まれた。
建保7年(1219年)に、鎌倉幕府の初代から3代にわらる源氏将軍が鎌倉から滅亡すると、得宗※1の北條義時が鎌倉幕府の実質的な支配者となった人物です。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇により北條義時追討の宣旨(せんじ)が、全国の御家人に発令され、それによって朝敵になった義時は、鎌倉幕府軍を引き連れて京に攻め朝廷を制圧した(承久の乱)。
仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流した。
※1.得宗とは、2代北条義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では、「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代の北条時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。
義時流、得宗流という呼び方もある。資料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられています。
北条義時と頼朝・姉・政子と八重姫の歳の差
北条義時は1163年に、父・北条時政、母・伊東祐親の娘の間に次男として生まれる。
源頼朝は1147年に、父・源義朝、母・由良御前の間に三男として生まれる。
姉・北条政子は1157年に、父・北条時政の生誕は1138年、母・伊東祐親との間に長女として生まれる?(生母不明という説もある)。
八重姫はこの伊東祐親の娘(生没年未詳)。
兄・は、長男・河津祐泰(生誕が1146年?だから20歳で生まれたとして父・伊東祐親の歳は1126年)、次男・伊東祐清(生誕不詳)、長女・北条時政の前室、次女・三浦義澄室、三女・万劫御前(夫・工藤祐経の生誕が1147年だから嫁いだときには夫より若いはず、その後土肥遠平に嫁いだ)、四女・八重姫、ほかとなっています。
推測として八重姫は(長男が1146年だから、その間に次男・長女・次女・三女がいるので11歳から15歳の差がある)ので、1160年位の生まれじゃないかと思う。
北条義時と八重姫は歳も近いし従姉妹どうし親しくなったって不思議でもなんでもない。
北条義時は次男のため「江間小四郎」あるいは「江間四郎」という別称を用いた。
それがいつからいつまでとは不明です。
当然、北条氏は長男・北条宗時が家督を跡を継ぐはずだったので、義時は本家の「北条」ではなく分家となって「江間」の名字を使用しており、この江間家の初代当主じゃなかったのか?
江間小四郎と称した。
義時が15・16歳の頃姉の政子が頼朝の妻になっている。
姉・政子は21か22歳で頼朝の正室になっている。
治承4年(1180年)8月17日義時は父と兄・宗時と共に義朝の挙兵に従うが、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して兄・北条宗時が戦死する。
頼朝は政子と結婚する前に八重姫という女性がいた
伊東祐親は、北条時政と共に、平治元年(1159年)に破れて伊豆に配流された頼朝を監視を任された時の豪族だった。
北条時政にとっては義父である伊東祐親と共に頼朝を監視した。
伊東祐親には八重姫という娘がいた。
北条時政には政子という娘がいた。
政子は伊東祐親にとっては外孫です。
ある時、伊東祐親が大番役※7で上洛している間に、八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になっていた。
※7.大番役とは、内裏・院の御所や京都市中の警護役(京都大番役)
役を解かれて帰ってきた祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。いまの世に源氏の流人を婿に取るぐらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平氏の咎めを受けたらなんとするか」と平家への聞こえを恐れた。
家人に命じて千鶴丸を轟ヶ淵に柴漬(柴で包んで縛り上げ、重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害し、娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎※8に嫁がせた。
※8.江間の小四郎とは、江間荘の在地領主のことをいう。江間四郎or江間小四郎と呼ばれていた北条義時。
しかし、義時が伊東祐親の娘・八重姫と結婚したというのは????
何故なら、義時の母と八重姫は姉妹ですから叔母です。
「吾妻鏡」からすると、事件が起きたのは1175年(安元元年)ごろと考えられ、1163年に生まれたとされている義時が、その時12・3歳のはずです。
年齢的には無理があります。
▲伊東祐親の簡単な系図
北条政子と北条義時は八重姫の父の系統です。
曽我兄弟の父・河津祐泰(八重姫の兄)は、1176年(安元2年)19月、奥野(現・伊東市)で催しされた源頼朝を慰めるための巻狩りの帰路に工藤祐経に殺害された。
曽我兄弟とは、工藤祐経に暗殺された河津祐泰の子で十郎祐成と五郎時致の兄弟です。
父親・北条時政とは、どいう人だったか
まず頼朝との出会い。
源氏の棟梁になる頼朝が父・源義朝の「平治の乱」で負けたため、平家に捕らえらられて伊豆の蛭ヶ小島に配流され監視役となった時に出会った豪族が北条時政と伊東祐親です。
そのときまだ、頼朝13歳の時だった。
▲源頼朝の系図です。
前妻は伊東祐親の娘・のちの妻・牧の方(継室)の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧(沼津市)を知行※2していた。
※2.知行とは、①職務を執行すること。②平安・鎌倉時代、与えられた知行国の国務を執り行うこと。③中世・近世、領地や財産を直接支配すること。④近世、幕府や藩が家臣に棒録として土地を支給したこと。
治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の源頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく様子を静観していた。
しかし、源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主が平時忠に交代すると、伊豆国衙※3の実権は伊東氏※4が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。
※3.衙(が)とは、①つかさ。天子のいる所。宮城。「衙内」「衙兵」②「衙府」「衙門」③あつまる。まるい。「衙参」
※4.伊東氏(いとうじ)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現・伊東市)を本拠地としていた豪族。
さらに流刑者として伊豆に滞在していた平時忠の元・側近の山木兼隆が伊豆国の目代となり、また、源頼政の孫・源有綱※5.は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。
※5.源有綱とは、平安時代末期の武将。伊豆守・源仲綱の次男。大内守護・源頼政の孫。
自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として父・義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。
北条時政は源頼朝と挙兵計画を練り、山木義隆を攻撃目標に定めた。
挙兵を前に、頼朝は工藤成光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉※6らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については北条時政のみが知っていたという。
※6.加藤景廉とは、我が故郷恵那市岩村町の岩村城の祖で、頼朝の重臣であったため鎌倉を離れず嫡男・加藤景朝(のちに遠山景朝と改名)が築城した。標高717mの山城、日本三大山城です。
※上記の日本三大山城をクリックしていただくと、そうして三大山城に選ばれたかが書いてあります。
山木義隆を加藤景廉が討ってこいと言って頼朝から渡された長刀ず。
※上記の加藤景廉をクリックしていただくと詳しく書いてあります。
▲岩村城跡 ▲加藤景廉が目代・山木義隆を討った絵