美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

八重姫 北条義時

北条義時と八重との結婚はあるのかー正室・姫の前との関係は?

投稿日:2022年3月23日 更新日:

   NHKの「鎌倉殿の13人」を観ている視聴者の方が義時と八重が結婚するかハラハラしているいると思います。

 

 

ドラマで結婚してしまった、子も出来た。史実は?
‥と思うけどなんの証拠もないのが事実ですが推測は出来ます。

 

 

義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子※1であり、この時に産んだ母は誰であったか謎である。

※1.庶子とは、正室ではない女性か生まれた子供を指す語。

 

 

29歳まで結婚しなかった義時、おかしいとは思いませんか?
謎です。

なぜ、庶子である長男を・3代・執権にしただろう?

 

 

建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった「姫の前」を頼朝の仲介で正室に迎えた

.姫の前とは、頼朝の大倉御所に勤める女官であった姫の前は、『吾妻鏡』によると「比企の内藤朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。

容顔太だ美麗なり」と記されており、頼朝のお気に入りで大変美しく、並ぶ者のない権勢の女房と出会った。

義時は1年あまりの間恋文を送っていたが、姫の前は一向になびかず、これをみかねた頼朝が義時に、「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて仲を取り持ったという。

こうして建久3年(1192年)9月25日姫の前は義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)義時の次男・朝時を、建久9年(1198年)三男・重時を生む。

建久3年(1203年)9月比企能員の変が起こり、実家である比企氏が夫・義時率いる軍勢によって滅ぼされる

『吾妻鏡』では、その後、姫の前の消息については不明であるが、『明月記』嘉録2年(1226年)11月5日条によると、「源具親の子・源輔通は同母弟で、幕府から任官に推挙があった」と記されており、輔通は元久元年(1204年)生まれであることから、姫の前比企の乱の直後に義時と離別して上洛し、源具親と再婚して輔通を生んだ、続いて天福元年(1233年)に猶子となった具親の次男・源輔時も姫の前所生と見られる。

『明月記』承元元年(」1207年)3月30日条に、前日に源具親少将の妻が死亡したことが記されており、姫の前は再婚後3年ほどで京都にて死去している。

 

 

翌年に姫の前は嫡男・朝時※2をもうける。

※2.北条朝時とは、義時の次男、名越流北条氏の祖、母は正室の姫の宮。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承したことにより名越朝時とも呼ばれる。

 

八重姫は、一説には入水自殺をしたという説があります。

▲ここに上記の八重姫の関連記事があります、興味ある方はクリックしてください。

 

 

謎が多いです。
推測ですが八重との子だから北条を継いだと思います。

 

 

謀略家の父・時政の元に生まれた義時

北条義時は応保3年・長寛元年(1163年)に、北条時政伊東祐親の娘(八重の姉)との間に誕生。

 

 

父・北条時政は、ご存知のように島流しにあった流人・源頼朝を支えた立役者、治承・寿永の乱や鎌倉幕府の幕政においては、頼朝の側近的存在として重宝されるようになります。

 

 

娘・政子※3は頼朝の正室だったことから、源氏と北条氏は深い関係を築いていきます。
※3.政子とは、一説には義時とは母が違うと書かれています、妹と政子は母が同じ。

      ▲異母姉弟なの?にどうして一緒に暮らしていたか?

 

北条時政は、謀略に非常に長けた人物で、「能ある鷹は爪を隠す」と言わんばかりに、頼朝の前では秘めたる才を隠していたが、正治元年(1199年)頼朝亡くなると北条時政の時代が到来します。

 

 

北条氏の繁栄のため邪魔な敵を徹底に排除していきます。

頼朝の側近中の側近だった梶原景時を排除、梶原景時の乱「鎌倉殿の13人」を参照そてください。

▲ここに鎌倉殿の13人の名前が記されています、興味ある方はクリックしてください。

 

 

第2代鎌倉幕府将軍・源頼家は比企氏に育てられたため北条氏に不利になり殺害、よってその弟・実朝を育てた北条氏は将軍にする。

 

 

 

 

北条義時父を伊豆へ追放

父・時政は後妻・牧の方のいうまま、二人のだった平賀朝雅※5のことを寵愛するようになり、義時・正子の存在が※4にされるようになったからである。

※4.蔑ろ(べつろ)とは、この場合、ないがしろと読む▲

※5.平賀朝雅とは、鎌倉幕府の御家人、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母比企尼の三女。頼朝の猶子※6となっている。

※6.猶子(ゆうし)とは、実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子。

 

 

その娘・婿と対立していた畠山重忠という有力御家人を北条時政は得意の謀略で消し去ってしまいます。

 

 

畠山重忠は質実剛健な男で、周囲からの評判も高い人物なので義時・政子弟姉は反対しましたが、父・時政は強引に討ちました。

 

 

義時はこの時、我が身が危ないと姉・政子に相談しました。
悪い予感が的中します。

元久2年(1205年)に北条時政が、実朝も頼家と同じ廃位させて平賀朝雅を将軍にしようか、そしたら牧の方は喜んでくれると密かに考えはじめた。

 

 

この支離滅裂な父の行動に義時・政子は怒りを爆発させた。

これ以上一人の女の私利私欲で政治を動かすことは許さん、たとえ父上でも容赦は出来ないと言って時政・牧の方を伊豆へ追放します。

 

 

 

 

北条泰時の母は誰?

泰時が生まれた時、義時は21歳頼朝の後押しもあって八重姫と一緒になるも正室は拒んだと推察する。

 

 

母の名は、阿波局となっています。

一般的に阿波局を検索すると、義時の妹。政子の妹となっています。

 

 

夫は頼朝の異母弟義である阿野全成に嫁ぎ、四男・時元をもうける。
その後、甥である頼朝の次男・源実朝の乳母となる。

『吾妻鏡』では阿野全成の「妾」と記されています。

 

 

なお、北条泰時母である阿波局も義時の「妾」とされる。

政子の妹も同じく「阿波局」と呼ばれ混同されることがある。

 

 

ここに坂井孝一※7さんの書があります、

※7.坂井孝一さんとは、1958年2月、日本の歴史学者。創価大学文学部人文学科教授。専門は日本中世史。

 

原文のまま

生没年、出自など詳細は不詳。
坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないかとの仮説を提示している。
また、この縁組の背景として、義時が江馬次郎(小四郎)に代わって江間を領有したことが背景にあるのではないかとしている。

ここまでです。
信じるか信じないかはあなた次第です。

 

 

 

まとめ

坂井孝一さんは、いま大河ドラマでやっている『鎌倉殿の13人』の時代考証を担当してるんですね?

 

 

改めて坂井孝一さんの『プロフィール』をNHKからコピーして紹介します。

創価大学文学部教授。1958年、東京都出身。博士(文学)。

専門は、平安末・鎌倉時代の政治史・文化史、室町時代の能・狂言を中心とした芸能史。

著書は『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(2014年)、『曽我物語の史的研究』(2014年)、『源頼朝と鎌倉』(2016年)、『承久の乱 ‐真の「武者の世」を告げる大乱』(2018年)、『源氏将軍断絶』(2020年12月刊行予定)など多数。愛猫家。

 

八重がどうして義時の正室にならないかったというと僕個人の推測ですが、政子の手前、遠慮したんだと思う。

姫の前も離婚しないと起請文を書いたのに比企の乱によって離婚。

 

 

-八重姫, 北条義時

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