美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

加藤景廉 山本兼隆の首と取る 源 頼朝

源頼朝より加藤景廉が山木兼隆を討ち恩賞で東美濃の遠山荘を貰う

投稿日:2022年1月13日 更新日:

 東美濃国・遠山荘ってどこにあるんだろうか?
住所は岐阜県恵那郡岩村町(旧)今は恵那市です。

 

岩村城を築城する前は、山上邑に無頼の輩・野武士・盗賊が多く出ては邑人を困らせていました。

 

そこに加藤景廉が現れて野武士を退治した縁で岩村の地にきたという話です。

 

現在も国道257号線を恵那市から岩村町に行く途中に山上が存在します。

 

まず、加藤景廉とはどいう人物だったか説明させてください。
その前に伝説を読んでください。

 

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「巌邑府誌」に書かれている加藤景廉の伝説

保元・平治の乱の頃(1150年)の美濃国遠山荘では盗賊が野に充ちていて里人困っていました。

 

山上邑の邑長(むらおさ)は、この状態を憂い伊勢神宮の神廊に参籠して「今私共の邑人(むらびと)は盗賊の難を免れるよう祈った。

願わくば神様の哀れみによって、これらの盗賊を一掃してください。
そうすれば邑人も安心する事ができましょう」と一心不乱に祈りました。

 

するとその夜、夢に神様が現れ「汝の願いを叶えて強い武士に盗賊をことごとく成敗する事を命じよう」と告られました。
次の日、邑長は宇治橋の上で腰に長い刀を差した一人の武士に出会いました。

 

 

背も高く風貌は大変強そうであったので、夢で告げられた武人と思い、その袖を握って「恐れながらあなた様はどなたでしょうか?」と尋ねると「拙者は伊勢の生まれで加藤次ともうす。

我が家は代々武人で、これより関東に赴き託する人を探そうと思ってる」と答えました。

 

 

これを聞くと邑長は神のお告げは嘘でなかったと喜びました。

昨夜の話を武人に話し、山上邑に案内し、邑人と一緒になって盗賊を征伐したので邑人は加藤次東濃の主になってもらうことにしました。

 

 

その後、源頼朝が伊豆にて旗挙げの時、加藤次も頼朝の下臣として従い、平家方の山木館の襲撃で山木兼隆を討ち取り戦功を挙げた。

その恩賞として加藤次の所望する東濃地方を彼に託し地頭に任じました。

            ▲加藤景廉が山本兼隆を討った錦絵

 

邑人たちは、かつて加藤次が座った巌を祭り、加藤次座石(腰掛巌)というようになった。

 

加藤次は巌上に座った時、東を望み巌邑山を本拠地と定め岩村城を築いた。
という話です。

             ▲今も山上にある腰掛け巌

          ▲加藤次が座った加藤次座石(腰掛巌)

 

今も山上の山上町長(元)の家の裏にあります。

興味のある方は一度見ておくのもいいものです。

 

 

加藤景廉とはどいう人物か

もともと伊勢国を本拠地としていた御家人でした。

伊勢・加藤氏の館は安濃津の近くの下部田(現・津市南羽所)にあったといわれる。

 

平氏との戦いにより敗れ父・景員(かげかず)に従って伊豆国に下り、工藤成光らの助けを得て土着勢力となっていた。

 

 

嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝えられる。

 

 

治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王が打倒平氏のため挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起促す令旨を発した。

.蜂起(ほうき)とは、多くの者が一斉に暴動を起こすこと。

 

 

頼朝チャンス到来と受けて、以仁王頼朝は宇治平等院の戦いに挑んだが、準備不足のため敵方に露見して逆に追討を受け破れた。

 

 

しかしこれを契機に諸国の反平氏打倒勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まった。

 

 

手始めに源頼朝伊豆目代打倒のため挙兵すると、景廉は父や兄と共に、その麾下※1に参じ、平氏の伊豆目代・山木兼隆を討ち取るという大攻を挙げた。

※1.麾下(きか)とは、将軍直々の家来。ある人の指摘下にあること。また、その者。

ここに山木兼隆の関連記事がありますよかったら読んでください。

 

 

このような武勇を挙げる景廉のことを源平盛衰記では、「殊更きりもなき者、そばひらみずの猪武者」と記している。

 

 

頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄・光員と共に甲斐国大原荘(現・富士吉田市富士川口町)に逃れるが、やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、「鉢田の戦い」で。目代・橘遠茂※2を討ち、その後は源頼朝に従って瀬戸内海で平家を討ち、頼朝の奥州藤原氏攻略の際いにも幾度かの武功が挙げた。

※2.橘遠茂(たちばなのとおもち)とは、平安後期の武士、駿河の目代、治承4年(1180年)平家追討のため駿河に侵入しようとした甲斐源氏の武田信義軍と戦い敗れて討たれた。

信玄公も源氏の系統です。

 

その後、頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、景廉は側近として頼朝に仕えた。

 

 

景廉は病持ちであったため、寿永元年(1182年)6月7日、鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で酒を飲み過ぎて気を失い、佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出しといういう。

 

 

翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。
景廉の功績が認められ、文治元年(1185年)に遠山荘(遠山荘は美濃国恵那郡の大部分で中心地は岩村)を源頼朝より拝領した。

          ↓

 

「美濃国恵那郡遠山庄事 右為勲攻之賞遠山加藤次景廉所充行也者 早令領知可被専所務之状如件 建久六乙卯年三月三日頼朝判」
と書き付けをもらう。

 

 

その後、景廉は頼朝の元にいて、長男・加藤景朝が岩村へ行き、名を遠山景朝と称し遠山氏の初代となる。

景廉の死後承久年間(1219年〜1222年)に、岩村城の敷地内に八幡神社を創設し、父・景廉を誉田別命(ほんたわけのみこと)の配神として祀った。

 

 

岩村町歴史資料館には、加藤景廉公の神像が保存されています。

 

 

元暦2年(1185年)源範頼率いる、平氏追討に病身を押して船に乗り九州へ向かったが、鎌倉に残っていた景廉の父・景員は頼朝に息子・景廉が病気のためおそらく死を免れないであろう事を訴えたところ、頼朝は驚き嘆息※3▲新書をもって範頼に命令して景廉に療養せしめ、平癒4後は早く返すように伝えた。

※3.嘆息(たんそく)とは、悲しんだりがっかりしたりして、ため息をつくこと。
※4.平癒(へいゆ)とは、病気が治ること。

 

 

そして景廉に懇(ねんごろ)ろな見舞状と馬一頭を送って、これに乗って帰還するように申し送った。

 

 

その後の奥州合戦でも戦功を立てた。
頼朝の信任厚く建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅殺し、その父・義定の所領遠江国浅羽庄地地頭職を与えられた。

 

 

頼朝が死去した後、正治2年(1200年)に梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、これと親しかったため一旦は連座して所領の一部を収公されたが大したことはなかった。

 

 

建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を、北条義時の命によって景廉が謀殺した。

また、比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉が首を取っている。

 

 

その後も和田合戦などの緒戦で幕府方として働き、再度元老の座を取った。

 

 

三代将軍・源実朝の代に鎌倉幕府の評定衆となったが、実朝が鶴岡八幡宮の際に警護の任にあったが、二代将軍・頼家の息子・公暁によって暗殺されたため、警備不行き届きの責任を感じて出家し覚蓮坊妙法と改名。

 

 

承久3年(1221年)6月承久の乱では一人として鎌倉に止まったが、8月3日に55歳で没した。

 

 

源氏3代の将軍に仕えた景廉の、墓は伊豆市牧之郷にある。
今も岩村と牧之郷とは行き来があります。
岩村街では神として八幡さまに祀られています。

 

 

 

-加藤景廉, 山本兼隆の首と取る, 源 頼朝

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