美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

北条泰時

北条義時の系図と長男・北条泰時(3代執権)の母は八重姫か

投稿日:2022年4月16日 更新日:

   謎を生む鎌倉時代、今から830数年前のことの真実は誰も分からない。

 

 

我が故郷の岩村城築城830数年経っていますが、真実はわからないです。

 

 

源頼朝より恵那郡地方を賜った加藤景廉、その息子・加藤景朝が地元に根をおろし築城し遠山荘を拝領して守護・地頭の役目をやって鎌倉幕府に務め、戦国の動乱まで遠山氏は長く続いた。

 

 

まして八重姫義時とは加藤景廉・遠山景朝とも顔見知りだったに違いない。

 

 

なぜ、そこまで断言できるかというと、加藤景廉は一兵卒ではなく頼朝の側近で頼朝が旗揚げした時、伊豆目代・山木兼隆首を取ったのが加藤景廉だから(大河ドラマでなんのシーンもなかった)

※上記の加藤景廉をクリックして関連記事を読んでください。

 

        ▲この絵画が加藤景廉が山本兼隆を討ち取った様子

 

 

八重姫の謎

八重姫頼朝の初婚の相手、子供・千鶴丸までもうけていながら結婚できなかったか?

 

 

そもそも、その当時の頼朝の身分は平清盛によって、伊豆国の蛭ヶ島に流された流人だったけど、れっきとした源氏の御曹司。

 

 

そこで監視役を務めた伊東祐親北条時政の二人、八重姫は伊東祐親の四女、長女は北条時政の正室、その子供が義時など。

政子・時子は異母弟姉ということ。

       ▲北条時政の系図

 

義時と八重姫とは叔母・甥の関係だったが歳が近かったので気が合っていただろうと思う。

 

      ▲義時と八重姫の関係

 

※ここに義時と八重姫の歳の差を計算したものを載せてある記事があります。興味ある方は義時と八重姫をクリックしてみてください。

 

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謎の1

伝承によると

八重は恋仲であった源頼朝を慕って、伊東から山を越えて北条の館を訪れた八重姫は、頼朝の心変わりを知って、この寺の前にある真珠ヶ淵に身を投げたとする伝説。

 

 

この時点で子の千鶴丸は、父親に殺害されたことを知っててのことか?

梯子一本あれば助けられたと書いてあるが本当だろうか?

 

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飛び込んで助けれると思うんだけど、村人が見てたということでしょう?
これが本当だったら3代目執権の北条泰時は誰の子か?

 

 

 

謎の2

父・祐親が家臣の江間小四郎に嫁がせたとあるが、誰でしょう?
北条義時の通称と同じですが、一応別人とします。

 

 

なぜなら、この時義時は13歳ですから除外しました。
ドラマでは頼朝が旗揚げした時、江間の小四郎は平家方だから頼朝軍と戦って戦死した、八重は未亡人になって、挙げ句の果て父も弟も自害して亡くなってしまった。

 

 

伊東祐親にとっては、北条義時は孫にあたる、義時とは八重は叔母、甥の間柄で、北条時政は義理の息子。

 

 

八重姫が父の祐親の命で嫁がされたという江間小四郎(小次郎・次郎とも)は、北条義時のこととも伝わるが、通説では別人とされている。

 

 

ただ、頼朝が挙兵した後、八重姫が産んだ江間小四郎の子を義時が養育したという伝承もあり、義時も江間の地を得て江間小四郎と呼ばれるようになるので、義時と八重姫が結婚をしていたとしても不思議ではないのかもしれない。

 

 

謎の3

八重姫千鶴丸を祀ったとされる最誓寺などがあり、最誓寺は鎌倉時代初期に江間小四郎と八重姫の初願により創建された真言宗の西成寺がはじまという寺院。

 

 

最誓寺(さいせいじ)は、鎌倉時代初期に江間小四郎と八重姫の発願により創建された真言宗の西成寺が始まりという寺院。

 

 

慶長元年(1596年)宗銀によって曹洞宗に改宗され、寺号も最誓寺に改められています。

 

 

本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。

 

これらの文を見ると八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたとは思えないです。

 

 

謎の4

八重姫の父・伊東祐親は何故源頼朝への仕打ちが酷かったか?

もともと伊東祐親は累代の源氏、その御曹司頼朝の監視役を平家から賜った伊東の豪族、それが娘・八重姫と結ばれて子まで儲けていたのに、孫を殺害頼朝を殺害しようとしたのか不思議です。

 

 

鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』の治承4年10月19日(1180年11月8日)条と、養和2年2月15日(1182年3月21日)条に、安元元年(1175年、源頼朝29歳)の9月頃、伊東祐親が源頼朝を殺害しようとした所を祐親の次男・伊東祐清が知って頼朝を逃した。

 

 

その後、頼朝の旗揚げがあって伊東祐親・祐清が頼朝軍に捕らえられ、特別に許すこととしたのに、頼朝と祐親の間に何かしら、因縁や確執があったのではと考えられます。

 

 

実は、源頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向だった、京から帰って来て本来ならめでたしめでたしで千鶴丸を抱きしめかったのに。

 

 

しかし、親戚である北条の娘・政子とも関係していたことを知って逆ギレしてまったのではないか。
という説もあります。

 

 

決定的の謎、北条泰時の母は誰

謎の謎、最大の謎。

義時には正室・姫の前と継室・伊賀の方もいて、それぞれ男子の子もいるのに、長男といえ庶子なのに、第3代執権にしたのか、まして得宗家として代々続いたか?

      ▲北条義時の系図

 

 

ここに義時の系図があります。

ドラマで(鎌倉殿の13人)でも、八重姫が義時の子を妊娠した、この時義時は21歳ということはわかっています。

 

 

正室をもらったのが29歳
今説明したNHKの「鎌倉殿の13人」の時代考証している坂井孝一さんの文章をそのまま載せます。

 

 

八重姫について

坂井孝一は「不明な点、論証できない点は少なくないが」「推論に推論を重ねることを承知上で、いささか想像を巡らしてみたい」と断った上で、八重姫が夫・江間の小四郎の戦死後、「阿波局」という女房名で頼朝の御所で働くようになり、江間氏の所領を受け継いだ北条義時と再婚して、北条泰時を産んだのではないかとの仮説を提示している。

Wikipediaより引用

と載せています。

 

 

-北条泰時

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。