美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

源氏将軍

愛妾大進局の子・亀王丸(貞暁)が源氏将軍直系なのにならなかった理由

投稿日:2022年4月12日 更新日:

   平家を倒しせっかく鎌倉幕府を築いたのに、当の本人が馬から落ちて亡くなってしまう。
 

 

これは予期せぬ出来事2代目頼家伊豆国修善寺幽閉され暗殺3代目実朝も、武士として初めての右大臣の昇任を祝うため鶴岡八幡宮へ出向き、その帰り公暁によって暗殺された。​​​​

 

 

暗殺者は頼家の子・公暁、実朝には子供がいなかったので、これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

 

 

ところが、頼朝の愛妾・大進局が男子を産んでいた。
その大進局の子・貞暁は、実朝を暗殺した公暁の師だった。

 

 

最悪の事態を考慮して、もっと頼朝の子を残しておけばよかっただろうに。

 

 

 

それには政子の理解が必要だった

頼朝の子として、この世に生まれたのは八重姫との子・千鶴丸(祖父によって殺される)正妻・政子の子、次男・頼家(幽閉後暗殺)、正妻の子、三男・実朝(暗殺)大進局、四男・貞暁(庶子)です。

 

 

貞暁の生誕

貞暁は、文治2年(1186年)2月26日に頼朝の子(四男・庶子)として誕生。

幼名・亀王丸と名付けられた。

 

 

この年は、正室・政子は次女・三幡を出生した年でもあります。
のちに、貞暁は鎌倉時代初期の真言宗の僧侶になる。

 

 

政子は高野山に出向いて貞暁を口説きに行っています。(後の方に記述してあります)

 

母・大進局の生涯

大進局は、平安時代末期の女性で鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘(常陸介藤原時長の娘)とされています。

 

 

常陸入道念西という武将は、諸説ありますが藤原光隆(中村光隆)の子で、源為義の娘が産んだ、伊達朝宗のことだと考えられていますが、詳しくは不明。

 

 

これが正しいと大進局は、伊達朝宗ということになります。
この父・伊達朝宗は1189年の奥州合戦にて、佐藤基治を生捕りした功績があり、常陸国伊達郎を賜り、以後、伊達姓を称し、のちに伊達政宗を輩出して伊達宗家の初代当主になった次第です。

 

 

そんな娘が、鎌倉幕府の大倉御所に使える女房でしたが、秘かに源頼朝の寵愛を受けていました。

 

 

『吾妻鏡』によると
大進局は、正室・政子に気兼ねして、岩村城主・加藤景廉の一族である長門景遠(長門江七景遠)の別邸にて出産したとあります。

※上記の加藤景廉の記事を読んだ頂くと、どいう人物か分かります。興味ある方はクリックしてください。

 

この事が露見すると、政子は「はなはだ不快」であるとして、出産の儀式は全て省略され、乳母のなり手もなかなかいなかった。

 

 

そんな中長門景遠は、政子の勘気※1を蒙り、鎌倉・深沢の辺りに隠居してしまいました。

※1.勘気とは、主君・主人・父親などの怒りに触れ、咎めを受けること。​​ 

 

 

そして、追われるように、長門景遠の子・長門景国によって、大進局と亀王丸も深沢に移った模様です。

 

 

建久2年(1191年)1月23日、政子の怨みが激しいため、頼朝から上洛を促され、京に近い伊勢国三ヵ山の所領を与えられた。

 

 

翌3年(1192年)4月11日、頼朝から七歳のなる男子の乳母父を命じられた小野成綱、一品房昌寛、大和守・藤原重弘らは政子の嫉妬の激しさに恐れをなして、ことごとく辞退したため、長門景国に任じられ、翌月母子共々上洛するよう定められた。

 

 

5月19日亀王丸は仁和寺の隆暁法範(一条能保の養子※2の弟子として上洛、供には、長門景国、江内能範、土屋宗光、大野藤八、由井家常が従った。

※2.一条能保とは、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけた公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。坊門姫(源義朝の娘で同母・頼朝の妹)。

子に一条信能がいるが、承久の乱の後鳥羽上皇の近臣の一人で京で捕らえられ、岩村の相原で岩村城主・遠山景朝に処刑された。

※上記の一条信能をクリックしていただくと、後鳥羽上皇の命令で出兵して北条泰時軍に捕らえられ、岩村城主・遠山景朝に連行され、岩村の相原で処刑された記事があります。興味ある方はクリックして読んでください。

 

 

由井の邸から出発の前日の晩、父・頼朝は密かに邸を訪ねて亀王丸に太刀を与えた、亀王丸は出家してのちに貞暁と名乗る。

 

 

その後、大進局は出家して尼僧となり、法印行寛(源行家の子)の世話で摂津国で老後を送っていたが、寛喜3年(1231年)2月、貞暁は病で46歳で亡くなったという知らせを聞く。

 

 

政子の虫のいい話4代将軍に

亀王丸は修行に励み、18歳になって、仁和寺7世・法親王から伝法灌頂を受け、仁和寺の勝寳院・華蔵院4世となりました。

 

 

承元2年(1208年)3月3代将軍・源実朝が天然痘に感染します。
伊達氏2代・伊達宗村は、密かに貞暁(23歳)を次期将軍に就けようと画作しました。

     ▲伊達宗村は、貞暁を第4代将軍に据えようとした。

 

還俗※3すれば、将軍になる資格がありました。

※3.還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であること捨て、在俗者・俗人に戻ることをいう。

 

 

しかし、3代将軍・実朝の病は治り、伊達宗村の謀も執権・北条義時に露見したため宗村は身を隠し、貞暁は、やむなく高野山に逃れ、五坊門主・行勝のもとに匿われると、法名を貞暁に改めています。

 

 

建保5年(1218年)2月、北条政子は弟・北条時房を従えて熊野参詣に貞暁を訪ねており、高野山の麓・天野で面会して3代将軍・実朝に手を焼いてた政子は、次期将軍に要請したとされます。

 

 

貞暁は、父・頼朝から授かった短刀で、自らの右眼を潰して、不具であるとし政子の要請を丁寧に辞退したといいます。

 

 

翌年、承久元年(1219年)実朝を暗殺した公暁は、貞暁の弟子だった。

 

 

翌年、承久2年(1220年)、公暁に与したという嫌疑で、仁和寺に入っていた2代将軍・頼家の遺児・禅暁が、北条義時によって京都・東山で誅殺されています。

 

 

結果的に、鎌倉幕府4代将軍には、源頼朝の遠縁で摂関家・九条道家の子である九条頼家(藤原頼家)が就任してます。

 

 

寛喜3年(1231年)、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)

 

 

これにより、頼朝の男系男子の子孫は断絶した(男系女子も3年後の竹御所死去により途絶え、頼朝の直系子孫は完全に断絶、同時に政子の血筋も途絶えた)

 

 

-源氏将軍

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。