義経と愛妾・静御前の話はどこまで知っていますか?
歌舞伎でよくやっていますので興味深いので掘り下げてみたいです。
どうして義経が兄・頼朝により討伐されなければいけなくなったか?
あんなに源氏のために戦い働いたに‥。
兄・頼朝よりの討伐を逃れ再起を図るため吉野山に逃れるが、女人禁制のため静と一緒に行動ができず
泣く泣く別れ静を京へ返す義経。
その後静御前はどうなったのか?
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白拍子の静との出会い
静御前は、平安時代末期から鎌倉時代前期に生きた女性です。
生年は一説では1165年だそうです。
永万元年(1165年)で義経の父・源義朝の平治の乱から6年後ですが、詳しくは分かっていません。
また、静御前は京都府京丹後市の伝承によれば、京都府京丹後市網野町磯野地区で禅師、母は白拍子の磯禅師で娘・静御前も白拍子で、誕生されたとして記念碑が建立されている。
静御前の様々な遺品や義経から静御前宛ての恋文などが伝世していたが1782年の火災で消失したとされています。
白拍子の舞は、平安時代から鎌倉時代にかけて流行った歌舞で、もともと神に捧げる性格のものでした。
それを歌い舞う遊び女を白拍子と呼んでいました。
格好は、水干・立烏帽子に白鞘巻きの太刀をさした男装で、今様と呼ばれる平安中期に流行した歌を歌いながら舞わった女性。
▲白拍子(イメージ)
白拍子は遊び女といいますが、教養があって貴人と接することも多く、後白河法皇が今様歌の師と仰いだともいわれています。
平清盛に愛された祇王、祇女、仏御前などがいます。
静御前との出会いは、義経の一方的な見初めでした。
『義経記』では、義経と静御前が初めて出会ったのは神泉苑(京都市中央区)としています。
ある日、日照りが続き、神泉苑では百人の高僧が呼ばれて、雨乞いのために仁王経を読みますが、いっこうに雨の降る効き目がありませんでした。
そこで今度は、容姿の美しい百人の白拍子が集められ、舞わされることになりました。
九十九人の白拍子が舞わったのに、その効き目が顕われません。
最後の一人、静が舞わったところ、雷鳴が響き渡理、、三日三晩洪水のように雨を降らせました。
後日、後白河法皇からは、静が日本一であるという宣旨を受けました。
この時に、静は義経に見初められ、そして義経の堀川の御所に呼び寄せられ寵愛をうけました。
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頼朝に討伐をされた義経
頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。
その折、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。
昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている。
昌俊は弟・三上弥六家季ら83騎の軍勢で10月9日に鎌倉を出発し、17日に京の義経の能である六条室町亭を襲撃する。
一説には、静の機転があって義経は佐藤忠信らを伴い自ら討って応戦した。
後に源行家の軍勢も加わり、昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、26日家人と共に六条河原で梟首された『吾妻鏡』。
義経と行家は、後白河法皇に兄・頼朝討伐の発令を求め、従わなければ皇室全員を引き連れ西国で挙兵すると告げ、院は頼朝追討の院宣を下しました。
しかし、その直後、朝敵にされた頼朝は怒り狂って六万の大軍を京に送ると聞き、後白河法皇は態度を180度変え、今度は頼朝に求められるまま義経追討の院宣を下します。
よって義経は兄・頼朝より追討を受ける。
文治元年(1185年)11月6日、西国で再起を図るため、九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、平家の呪いと臆される暴風に吹き戻され離散。
※上記の追討をクリックしてもらうと詳しい記事があります。
元々少なかった家臣たちとも離れ離れなってしまいます。
義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに妾の賤飲みであった。
11月17日義経が大和国吉野山に隠れているとの噂があるので、吉野山の執行(修行)僧兵によって捜索するも見つからなかったが、夜10時頃、静が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く姿を。
▲吉野山如意輪寺
その姿がいかにも怪しいので執行坊に連れていかれ詳細を聞かれ、静は正直に「私は九郎大夫半官の妾です。大物浜より豫州よりこの山に来ました。
5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、伊豫守は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。
その時数多くの金銭類を渡し与え、雑色男たちを付けて京に送ろうとされました。
しかし彼らは財宝を奪い取り、深い雪の中に捨て置いて行ってしまったので、このように迷ってきたのです」
と言って鎌倉からきた北条時政に渡されました。 鎌倉で義経の所在を厳しく訊問を受けるが、静は固く沈黙を守ったという。
しばらくして。御台所の政子は、静が舞の名手であると聞き、鶴岡八幡宮の神前で舞わらせた。
その時の伴奏者は工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を務めた。
静は女の意地とプライド見せつけた命懸けの抵抗の舞いと歌で、「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」「しずやしず賤の苧環くりかえし昔を今になすよしもがな」と義経への慕情を歌った。
一同は感動し袖を濡らしました。
頼朝は違いました。
反逆者を慕い別れの歌を舞うとは、もってのほかと立腹しましたが、
北条政子は静御前の気持ちを理解し、「愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を褒めるべきです」と自身が着ていた衣を褒美ととして与えました。
政子のとりなしで事なきを得ました。
生涯源九郎義経だけを愛し、頼朝の前で義経を慕いながら舞う姿は女性の真の強さを感じます。
静は義経の子を宿していたので、頼朝は女児なら生かすが、男児なら殺せと言って、男児だったので鎌倉由比ヶ浜に捨てさせた。
その後、すっかり傷心してしまった静御前は、母である磯禅師と共に京へ戻り、しばらくして亡くなった云われています。