美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

比企の変

比企能員は頼家の乳母父だが3代将軍を巡って北条氏と対立して滅亡

投稿日:2022年5月26日 更新日:

 鎌倉幕府、第2代将軍・源頼家の時、比企能員は、13人の合議制の一人となった。

 

 

初代将軍・源頼朝を支えたが51歳で急死、2代将軍・源頼家の乳母父のため頼家を支えて権勢を握った、その権力の大きさ故に北条氏から、目をつけられ敵対する。

 

 

本来ならば実母は北条政子、育ての父母は比企氏、頼家はどちらに慣れ親しんでいるか?

 

 

生みの親には親しみを覚えなかった。
では比企能員はどんな人物か?

 

 

鎌倉幕府の有力御家人。
安房国または安房国出身とみられ、源頼朝の乳母の比企尼の甥で比企尼の養子となる。
比企尼の夫は比企掃部允※1は、藤原秀郷の流を汲むとされる比企氏の一族。

※1.比企掃部允(ひきかもんのじょう)とは、平安時代末期の武士。比企尼の夫。実名は不明、掃部允は官職名。藤原秀郷の系譜とされ、波多野氏の系図で実名を遠宗とするものがある。娘に丹後内侍、河越尼、三女(実名通称不詳)。

 

 

 

頼朝が急死すると北条氏が牙を剥く

頼朝は何歳まで生きるつもりだったのかナ〜?

跡目を決めておかないから、こいう罪をつくってしまう、それは比企能員に嫡男・頼家を乳母父に任命したことが権力闘争に火をつけた。

 

 

頼家は育ての親の方に味方をするのが当然、北条氏は分が悪い気が気でないはず。

 

 

比企氏は、まして娘の若狭局将軍・頼家の側室となって嫡子・一幡※1.を産んだから、さ〜大変一層権勢を強めてしまった比企能員。

※1.一幡とは、鎌倉幕府の第2代征夷大将軍・源頼家の長男、母は側室・若狭局、弟に正室・辻殿の子・公暁(次男)・栄実(三男)・禅暁(四男の​​母は足助重長の娘・正室・辻殿の子は異母弟、竹御所は異母妹か同母妹がいます。

 

 

北条氏としては、取り敢えず2代将軍を頼家にして、いずれは北条氏が乳母父になっている千幡(後の実朝)を将軍にして権力を維持したいと考えても不思議ではない。

 

 

一方比企氏の方は頼家亡き後は一幡を跡継ぎにして権力を保持したいと思うのも不思議でもなんでもない。

 

 

比企氏が忘れていけないことが一つある。
正室・辻殿の子・公暁がいることを。

 

 

頼家の正室・辻殿は次男・公暁と禅暁を儲けていたが、跡目は一幡を押した比企氏。

 

 

三男の栄実は側室・一品房昌寛の娘、名前不詳。
次男といって正室の子・公暁が跡目の筆頭にならなんだか?

 

正室・辻殿は愛知県豊田市足助町、秋の紅葉で有名な香嵐渓の足助重長の娘。

公暁は、第3代征夷大将軍・実朝を暗殺した人物。

 

 

三男・栄実は、一品房昌寛の娘、父・頼家の死後は「尾張中務丞」なる人物に育てられ政子の指示で公暁共々出家させられる。

 

 

頼家の子だということで、北条氏打倒の陰謀に度々担ぎ出された末に、幕府方の武士たちの襲撃を受け自害してしまう。
意外と北条時政の指示で殺害したんじゃないかと想像します。

 

 

四男・禅暁は、元久元年(1204年)に父・頼家が暗殺された後、出家して仁和寺に入室、母・辻殿は三浦胤義と再婚した。

 

 

公暁が叔父の実朝を暗殺したことで、公暁に荷担の疑いを受け、承久2年(1220年)4月14日誅殺される。享年17歳か18歳。
禅暁の死により頼家の子(男子)は全て死亡した。

 

 

頼家の正室・辻殿は足助の出身

辻殿の父・足助重長とは、尾張源氏氏山田氏の一族で、三河国加茂郡足助荘の荘官となり、同地に黍生城を築き居住してとされています。

※ここに、足助の足助重長のブログがありますから、興味のある方は読んでください。

 

父祖に続き河内源氏の嫡流の臣従したとも考えられ、源為義の八男・源為朝(鎮西八郎)の娘を娶るなどした。

 

 

詳しい動向は不明であるが、その最期は平家によって討ち取られたとされ、伝承では治承5年(1181年)墨俣川の戦いに兄たちと共に参戦し戦後捕虜として平家方に拘束された後に殺害されたという。

 

 

なお、源為朝の娘との間には嫡子・重秀(重季)のほか、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の室となった娘を儲けており、娘・辻殿公暁の母となっています。

 

 

 

若き2代将軍・源頼家祖父北条時政に殺される

父・頼朝の急死で将軍になった。

将軍になる前に頼家と比企能員の娘で側室・若狭局の間に、建久9年(1198年)に庶子として長男・一幡を儲けている。

 

 

頼家は18歳で家督を相続し鎌倉幕府の第2代鎌倉殿として発足、3年半後に征夷大将軍になる。

 

 

源頼家は18歳の若者でボンボン育ち、父・頼朝のように苦節の時代を乗り越えていない若い頼家が、いきなり東国武士団のトップの重責を任せるのは無理があり政務がチグハグで、頼家が直に訴訟を裁断することは停止され、母方の北条氏を中心に十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。

 

 

御家人達は、将軍がいなくても幕府という組織が機能することに気付いていた、将軍は朝廷に対する武士団の代表という位置付けに過ぎませんでした。

 

 

その地位を担保していたのが「御恩と奉公」という幕府と御家人たちの契約です。

 

 

御恩とは将軍が御家人に土地を与え、所有を保証することであり、御家人はその代価として、いざというときに自分の武力を提供して奉公する。

 

 

このギブアンドテイクの関係によって成り立っていたのが鎌倉幕府だったのです。

 

 

頼家の時代になってからは、父・頼朝のように激しい戦いを繰り広げた頃は、シンボル的な人物が武士団を強引に率いていくことが不可欠でしたが、政権が落ち着いたいまとなっては必要なかった。

 

 

しかし朝廷から政治の実権を奪取した今となっては、将軍は実権を持たずとも、将軍を補佐する御家人に政治を任せていればよかったのです。

 

 

これに反発したが、合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家が存命しているにも関わらず、朝廷に鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡に跡を継ぎたい」との報告9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されてことが、藤原定家に日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。

 

 

 

比企能員北条時政に討たれる

いわゆる「比企の変」が起きた。

『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が跡を継ぎ、日本国総守護と関東28ケ国の総地頭となり、頼朝の弟・千幡には、関西38ケ国の総地頭を譲る」と発表された。

 

 

これに不満を抱いた比企能員が、病床の頼家と乳母父の能員による北条氏と千幡の討伐の密議を障子の影で、たまたま立ち聴きした御台所・政子に聞かれてしまった。

 

さぁ〜大変

政子は父・時政に報告し時政は先手を打つために比企能員を自邸に呼んで殺害し、一幡の屋敷を攻め比企一族を滅ぼし一幡も焼死した。

 

 

建仁3年(1203年)9月岩村城主・遠山景朝は、比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を父・加藤景廉と伴にに倒して功を立てたと『吾妻鏡』に記されえている。

 

 

頼家は、大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので、自分から出家し全てを一幡に譲ろうとした。

 

 

多少病状が回復して事件を知り激怒、祖父・時政討伐を命じるが従う者はなし、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、伊豆国修善寺に幽閉された。

 

 

翌年の元久元年(1204年)7月18日北条氏の手兵によって殺害された。

 

 

殺害当時の日入浴中に襲撃され抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえ付けてようやく刺し殺したという。

哀れ頼家享年21歳の若さで北条氏の犠牲になった。

 

 

 

-比企の変

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。