岩村町を散策したいと城下町を岩村駅から登っていくと、途中に“巌邑天満宮”があり、さらに“かんから屋”を左手に通り過ぎると、枡形地形の通りに出ます。
さらに登っていくと右側に勝川家と浅見家が並んでいます。
勝川家は地場の商人、浅見家は初代岩村藩・松平家乗と共に随行してきた商人兼庄屋です。
▲略図
昔、勝川家は屋号を「松屋」といい山林と農地を多く所有し、江戸末期から大いに抬頭しました。
▲勝川家の前
町内はもとより町外各地に松屋山と呼ばれる勝川家所有の山林から伐り出された銘木を保管する木倉もありました。
また、所有地からの年貢米は裏手にある荷駄の通用門から搬入され、扉を連ねた米蔵へ納めましたが、その数は三千俵ともいわれた。
岩村町の豪商でした。
▲驃騎
幕末期になりますと、岩村藩の財政はますます苦しくなり、藩の会計方は必然的に商人に頼らざるを得ませんので、勝川家もかなりの御用金を調達させられました。
名古屋尾張藩の徳川釣姫と勝川家
岩村藩最後の藩主となったは松平乗命(のりとし)で、安政二年(1855年)九月に家督を相続をし三万石を領しました。
激動の幕末期、元治二年(1865年)に徳川将軍のの長州征伐に従軍、慶応三年(1867年)二十歳で陸軍奉行となりました。
明治元年(1868年)に官軍に帰順し、同二年版籍を奉還し、岩村藩知事となりました。
明治四年(1871年)に24歳で徳川御三家である尾張徳川大納言・徳川斉荘の四女・釣姫と結婚しました。
釣姫(ちょうひめ)は松平乗命より五歳年上でしたが、薄幸の人で結婚生活三ヶ月で病没してしまいます。
※上記の釣姫をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方はご覧に「なってください。
尾張徳川家は六十二万九千石で大給松平岩村藩は三万石、この婚儀のため巨額の経費がかかりましたが、岩村藩の財布はすでに空っぽ状態であり、当然、民間に頼らざるを得ず勝川家も負担させられました。
当然葬儀の出費もあったと思われます。
勝川家に釣姫様の遺品が多くあるのは、お世話になった勝川家へのお礼だと言われています。
岩村城郭の払い下げと勝川家の入札
鎌倉時代からの岩村城も明治維新によって政府の所有となり、さらに明治六年(1873年)6月に岐阜県参事・小崎利準の名でもって岩村城郭の払い下げが告示されました。
かつての権力のシンボルであった日本三大山城の一つであった岩村城も姿を消すこととなりました。
入札は誰でも参加できますが、買い取るには現金が必要ですから、やはり資産家が入札に加わりました。
入札したのは20人でした(連名の者は一人としました)木村弥五八、水野清一郎、山田善七といった問屋・御用達職の名もあった。
勝川家の当主・勝川猪蔵の名もあり、入札は建物の一つ一つに番号をつけての入札でした。
勝川猪蔵は武器蔵、朱印蔵、土蔵、廊下門、仕切り門、煙硝蔵など5棟を入札しました。
この入札を調べてみますと、他の入札者に比べて入札額が高く、ほとんどが落札したものと思われます。
例えば、朱印蔵それは将軍から頂いた御朱印を保管する重要な蔵ですが、当時の金額で十四円八拾銭という入札額でした。
勝川家にある岩村城郭の遺構はこうして城山から移されました。
珍しい水琴窟
勝川家の庭には、江戸時代の庭師が考案したと伝えられる“水琴窟”があります。
手水鉢やつくばいの近くに小さな穴をあけた瓶(カメ)を土中に埋め、その中に水滴が落ちることにより瓶の中で反響を起こし、琴に似た音を出します。
このことから水琴窟あるいは洞水門と呼ばれます。
今でも、それを優雅に聞かせてくれる所は数多くありません。
浅見家の偉大なる9代・与一右衛門が電車を通す
今は閉めてあって中を見ることができませんが、祖先は江戸時代の初代藩主・松平家乗が慶長六年(1601年)に上州那和(群馬県)より転封のとき随行して来た商人。
▲浅見家
浅見家は幕末3代にわたって岩村藩の大庄屋を務め、財政のみでなく藩政、そして明治維新後の岩村町発展に大きく貢献した家です。
浅見家が抬頭したのは4代・藤助の頃からといわれています。
藤助は藩主・松平乗薀の分家彦三郎の御用達を務めたり、郡上騒動のときも、木村家と同じように軍用金をを調達しました。
浅見家も与一右衛門を名乗り世襲しましたが、7代目・与一右衛門政意のとき庄屋となり、家業として酒屋を始めました。
右衛門為俊のときに苗字帯刀を許されました。
▲標記
宝暦九年(1759年)の郡上騒動による岩村藩出動の軍用金を調達、天保五年(1834年)江戸岩村藩邸類焼の際に多額の金品の提供をしている。
※上記の郡上騒動をクリックして頂くと詳しい記事があります。
天保の改革と8代与一右衛門為俊
8代目与一右衛門為俊は藩内の困窮者の籾米を施したり、江戸藩邸類焼のときに多額の金品を送ったりしています。
ここで木村家でふれました家老・丹羽瀬清左衛門の「天保の改革」について述べます。丹羽瀬家は松平氏の代々の家老をし、清左衛門は文政九年(1826年)に家老に任じられました。
家老となると藩財政の慢性的の困窮を打破するため藩政の改革に乗りだしました。
「慶安御触書、六論衍義大意」を木版にして領民に配布し、領民に倹約を奨励し、生活を緊縮するよう令達し、農業の振興を指示し、城下町に織物業を興しました。
また、農民年貢について不正を厳重に取り締まり、代官・橋本祐三郎を斬首の刑に処して決意を示しました。
しかし木綿絹織物工場は失敗し、木村弥五八、浅見与一右衛門、松田清左衛門は一万四千両という巨額な負債を生じ、木村、松田の両問屋や庄屋の浅見まで出奔して身を隠しました。
天保8年(1837年)になって、清左衛門の厳しい処置に憤慨した農民・村役人は結束して三十一か条の歎願書を郡奉行へ提出し江戸の藩主にも報告され、農民騒動の一歩前で藩主の決断により清左衛門は幽閉され、新法は廃されて事なきを得ました。
浅見、木村、松田、森家は天保改革によって大きな打撃を受け、藩の財政はますます苦しくなりました。
9代目・浅見与一右衛門
幕末から明治にかけての変動期にあって岩村再建に努力したのが、九代目の浅見与一右衛門でした。
天保14年(1843年)に誕生、23歳で家督を相続し翌年庄屋になりました。
幕末期の岩村藩を支え、戸長となり国立銀行を設立したり、県議会議員となり、県会議長となった。
明治26年に衆議院議員などを歴任し、中央線の鉄道が岩村を通らずに大井(現・恵那)に決定されてしまった。
かつての岩村の繁栄が山間の僻地として取り残されることを懸念した浅見与一右衛門が中心となって、明治36年全国7番目に岩村⇄大井間に電車軌道の敷説を着工した。
しかし、未曾有の難工事が重なり、明治39年(1906年)に全国13番目となって開業するに至った。
山や谷を切り開き、しかも貨物を運搬する電車は日本初であり、その快挙に対して多くの名士から祝賀の揮毫が寄せられた。
今は廃線になっています。
▲浅見与一右衛門が私財で建設した事を忘れないために記事を書きました。