美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

家康の側室

波乱の生涯だった家康の生い立ちと天下を取る過程を簡単に説明

投稿日:2022年10月24日 更新日:

 家康は父・松平家第八代の松平広忠17歳と母・於大の方15際のとき三河で生まれ、幼名を竹千代となったが、3歳(実質1歳半)で父が母と離縁した。

 

 

母はその後、阿久比城久松俊勝と再婚したため、永禄3年(1560年)3月に家康は異父の弟・康元と会見、そして松平姓を下賜した。

 

 

その他の弟二人にも・康俊・定勝も同じ松平姓を名乗らせる

永禄5年(1562年)上ノ郷城主となる。

 

 

松平康元は、天正18年(1590年)落城後の小田原城の守備にあたり、同年下総国関宿藩2万石の所領を与えられ、天正19年(1591年)には4万石に加増された。

 

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役を務めさせている。

 

 

竹千代時代

竹千代時代は、わずか6歳で今川義元の元に人質として出されるが、そのとき護送役の田原城主・戸田宗光は駿府に送るどころか竹千代を奪い、銭千貫文で織田信秀に売り飛ばした。

 

 

買った織田信秀は側は再三松平広忠を脅かすが要求に応ずるどころか「息子を殺さんと欲セバ即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」と答えた。

 

 

それを聞いた織田信秀は「広忠良将なり」と感歎したという。

こうして竹千代は織田家の菩提寺・万松寺に預けられ2年間余り人質生活を送ったと言われる。

 

その時に信長と知り合った。
歳の差約9歳あった。

 

 

そして天文18年(1549年)2月20日今川氏は織田軍と対峙して織田信広(信長の兄ただし庶子)を捕虜した。

 

 

これで竹千代と交換できると思った松平広忠は、天文18年(1549年)3月6日に急死一説には暗殺されたといわれるが不明。

 

 

竹千代このとき8歳で、まだ織田信秀の人質のため父の死に目に会うことは叶わなかった。

 

 

そして織田信秀の息子・信広と竹千代の交換が成立したのは、父の死から8ヶ月後の天文18年(1549年)でした。

 

 

岡崎城主のまま、今川の館に行き19歳まで人質生活を送った。
竹千代は母の愛も知らず、父の優しさ強さも身に持って知らず暗い絶望に近い人生を送ってたような気がしてならない。

 

 

しかし、桶狭間の戦いの時に、運がいいか悪いか織田信長が今川義元を討ち取ってくれたので人生が変わった。

それは誰にも起こりうる人生の転換ではないでしょうか?

 

 

そのときの名が、元信か元康だったかわからないが、そのまま今川氏を離れ岡崎城へ入った。

その後、幾多の戦いをして家康は側室を次から次と作った。

 

 

 

名前の改名の時期

竹千代から松平元信→松平元康(永禄元年)家康に改名。

そして、永禄6年(1563年)3月に、松平元康の嫡子・竹千代(信康)織田信長の姫・徳姫の婚約が成立し、織田家との同盟関係(清洲同盟)がさらに強化された。

 

 

一方元康は同年永禄6年(1563年)6月から10月の間に松平元康から徳川家康に改名した。

 

 

義元から与えられた「元」の字を変えることで、今川氏との決別を意味したといえます。

 

 

永禄9年(1566年)5月に家康は念願だった、三河一国の平定を成し遂げ、同年末朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙位・任官の勅許を受ける。

 

 

 

家康の側室たち一覧(順不動)

側室・西郡局

最初の側室となったのは「戦利品」というのか西郡局(にしごおりのつぼね)です。
家康が側室を持つようになったのは、永禄30年(1560年)の桶狭間の戦い以後のこと。

        ▲多くの側室(順不動)

 

 

それまでは今川義元の姪で正室・築山殿(瀬名姫)に遠慮してか、側室はいませんでしたが、最初の側室が西郡局です。

     ▲イメージ

 

今川の家臣で三河国西之郡城主鵜殿長持の娘でしたが、永禄5年(1562年)に家康から攻められ落城する。

 

 

父と兄は討死、兄の子氏長・宇次らは捕縛され、氏長と氏次は、駿府城に取り残されていた瀬名姫と嫡男・信康・亀姫(信長の娘)と人質交換に出され生きながらえる。

 

 

美貌で知られていた西郡局は家康に気に入れられ側室になって、永禄8年(1565年)に家康の次女・督姫を産んだ

 

 

助けられた瀬名姫も、駿府を出られたのは鵜殿一族が犠牲になればこそだった訳だから、文句がつけられなかった。

 

 

永禄8年(1565年)〜天正3年(1575年)の間に、家康の次女・督姫を出産。 この督姫北条氏直の正室となった。

 

 

側室・小督局

2番目の側室が長勝院小督局、名を於万と言いました。

三河国二ノ宮・知鯉鮒(ちりふ)明神禰宜・永身貞英の娘でした。
永身氏は平安時代から続く武家でもあり、於万の叔母は家康の生母・於大の方です。

 

 

つまり、家康とは従兄妹となります。

天正元年(1573年)に家康の正室・築山殿の奥女中でしたが、家康の手付けとなり、妊娠した於万は、築山殿の嫉妬を避けるため、重臣・本多重次に預けられました。

 

 

一説には、築山殿が嫉妬して、身籠った於万を冬の寒い夜に裸にして庭木に縛り付けたとも伝わっています。

 

 

元康配下で浜名湖の軍船を取り仕切っていた名門・中村家の屋敷で、於万は天正2年(1574年)双子の男児を出産する。

 

 

中村家には、今もその胞衣(えな)が残っています。

当時は双子は忌み嫌われていたため、一方の男児と於万は、実家・永見家に預けられます。

 

 

この子は長じて永身貞親と名乗り、知立神社の神職を継ぎました。
もう一方の男児は於義伊(おぎい)と名付けられて、家康の次男として育ちますが、父との対面は3歳までかなわず、本多重忠の元で養育されました。

 

 

於義伊は11歳で豊臣秀吉の養子となって元服します。
後に越前北之庄68万石の藩主・結城秀康となり、於万も北之庄へ移りました。

 

 

秀康が34歳の若さで病死すると、於万は家康の許しも得ずに出家して、72歳で亡くなっています。

 

 

側室・阿茶局/雲光院

阿茶局須和は、家康の右腕として活躍した女性として有名です。

戦国時代から江戸時代前期の女性、父は飯田直政という。

 

 

元は甲斐武田家の家臣でしたが、その後今川家の家臣で主家没落後に一条信龍に属したが神尾忠重に嫁いで二人の子・神尾守世、守繁を儲けるが、天正5年(1577年)7月に夫・神尾忠重は亡くなる。

 

 

未亡人となった諏訪は美人で切れ者、武芸・馬術に長けていた所を家康の目にとまります。

 

 

その後、天正7年1579年)に家康に召され、戦場においても幾度となく家康に供奉※1し、小牧・長久手の戦いに男装して参戦、戦の激しさから陣中で一度懐妊するも流産してしまう。

1.供奉(ぐぶ)とは、〜する物を供給すること。供えること。供え奉じること。〜従事する、仕えるの意を、その動作の相手を敬っていう語。お仕え申し上げること。

 

 

天正17年(1589年)に亡くなった西郷局の替わり徳川秀忠松平忠吉を教育しており、長男の神尾守世は秀忠の近侍として仕えた。

 

 

以後、子はできなかったが、西郷局が亡くなると、まだ幼かった秀忠・忠吉の養育を任されて育ての母となりました。

 

 

本多正信と共に、謀に長けた側近として家康を支え、方広寺鐘銘事件大阪冬の陣での和議交渉で、その才能を遺憾なく発揮したという。

 

 

大阪夏の陣真田隊家康本隊に迫ったときも、陣中に侍っていた阿茶局は、身を挺して家康を守ったといわれています。

 

 

家康の死後、他の側室方が髪を下ろす中、家康の遺命により阿茶局だけは剃髪を許されず、秀忠を支えるべく尽力した。

 

 

秀忠の息女・和子後水尾天皇のもとに入内するときは、母親代わりとして付き添い、和子出産の際にも上がった。

 

 

この功により後水尾天皇から、臣下の女性の最高位である従一位を賜っており、事実上の将軍の母として認められました。

 

 

 

側室・英勝院/お梶

安土桃山時代から江戸時代前期にかけた女性。

出自は、太田康資と北条氏康の養女(遠山綱景の娘:遠山は恵那市岩村町の岩村城主・遠山景朝が祖)法性院との間に生まれた娘。

 

 

幼名は「おはち」であったが、家康の内命で「おかち」と改めた。
後に「梶」「勝」落飾後は「英勝院」と称した。

 

 

慶長12年(1607年)1月に、家康最後の子・五女・市姫を産む。

市姫は仙台藩主・伊達政宗の嫡男・虎菊丸(後の伊達忠宗)と婚約するが4歳で夭折※2してしまう。

※2.夭折(ようせつ)とは、若くして死ぬ

 

 

不憫に思った家康は於万の産んだ鶴千代(後の徳川頼房)越前藩主・結城秀康の次男である虎松(後の松平忠昌)、外孫の振姫(姫路藩主・池田輝政の娘)らの養母とした。

振姫は後に伊達忠宗に嫁ぐ。

 

 

 

側室・お亀の方/相応院

父は石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である京都西法寺・志水宗清の娘で母は東竹甲清の娘・龍雲院。

 

 

はじめ竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生むが死別したため奥務めに入る。
その後、石川光元の側室となり石川光忠を生むも別れる。

 

 

文禄3年(1594年)22歳の時家康に見初められ側室となり、文禄4年(1595年)に仙千代(6歳で夭折)、慶長5年(1600年)に五郎太を生む。

 

 

後の尾張徳川家の祖・徳川義直、家康の死後、相応院と名乗り息子・義直のいる名古屋城で暮らす。

 

 

 

側室・お愛/西郷局

家康最愛の女性だったといわれる西郷局です。

父は戸塚忠春、母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)、通称はお愛の方という。

 

 

母方の三河西郷氏(源・豊橋市西郷校区)は、この辺りに本拠を置いていた。

 

 

西郷局の外祖父・西郷正勝の頃には、三河国内での影響力は今川義元の傘下で命脈を保っている程度にしか過ぎなかった。

 

 

母は今川氏の命であろうか、遠江国の住人・戸塚忠春に嫁している。

お愛は成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦※01となっていたが、従兄・西郷義勝の正室に先立たれ継室に望まれて一男一女をもうけた。

※01.寡婦(かふ)とは、夫と死別または離別し、再婚していない女性、夫のない独身の女性を意味する。

 

 

元亀2年(1571年)武田氏の先遣・秋山虎繁(美濃国岩村城主となって信長の叔母と結婚した武将)の南進を阻むため、親戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、西郷義勝が落命してしまう。

 

 

またしても寡婦となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。

 

 

天正4年(1576年)家康の嫡男・松平信康の長女・登久姫の乳母として浜松城に入り、家康の手が付いて側室となります。

 

 

天正7年(1579年)家康の三男・長丸(後の第2代将軍・秀忠を、翌年には福松丸(井伊直政の抜け駆けで有名な、後の松平忠吉を出産した。

 

 

極度の近視だったためか、おっとりとして慎重・誠実、その上美貌の昌子を、家康は愛情を込めて『味見姫(くらみひめ)於愛と呼んだと伝わります。

 

 

三河武士団に「最も人望があった側室」と言われ、盲目の女性を支援・保護する活動もしていました。

 

 

信康・築山殿の事件や武田との戦い、本能寺の伊賀越え小牧・長久手の戦いなどで苦難を重ねる家康を支え、心労のためか、駿府城にて天正17年(1589年)満37歳で亡くなりました。

 

 

 

側室・三条市とは茶阿局か

三条家の娘として生まれた以外は、その出自のほとんどが不明、生年・没年不明。

 

 

譜集『源流綜貫』には天正17年(1589年)に徳川家康の落胤とされる小笠原権之丞※3を出産したとされるが、家康の子女を生んだ他の側室に比べると、同じく落胤※4とされる松平民部※6の生母である法光院※5と同様に記録が少なく、不明な点が多くみられる。

※3.小笠原権之丞とは、徳川家康の落胤として著名。母は三条氏。本来ならば六男の松平忠輝の兄にあたるともいわれる。

※4.落胤とは、父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤・落とし子ともいう。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記録されていないことが多い。

※5.法光院とは、徳川家康の側室で、名は松。出自は不明。

※6.松平民部とは、徳川家康の落胤とされる、母は法光院(お松という。

 

 

側室・下山殿

父は武田一門で家臣・秋山虎康(叔父に秋山虎繁・岩村城主となっておつやの方の4番目の夫となり信長と戦い長良川畔で処刑される)で、永禄7年(1564年)に生まれる。

 

 

天正10年(1582年)穴山信君が織田氏に臣従した際に、織田氏と同盟関係にある三河国の徳川家康の側室になる。

 

 

天正11年(1583年)家康の五男・万千代(武田信吉)を出産する。

信吉は前の主君・武田信玄の娘で養父の正室である見性院の養子とした。

 

 

良雲院と家康の間に生まれた家康の三女の振姫の母も下山殿とする説もある。

 

 

父は武田一門で家臣の秋山虎康(越前守)永禄7年(1564年)に生まれる。

 

 

また、旗本の秋山正重は虎康の孫で下山殿の甥とされている。

 

 

 

側室・信寿院

父は山田氏、名は富子で出自はほとんど不明。

 

側室・清雲院

父は伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直の娘として生まれる。

兄の長谷川藤広が家康に仕えていたことから、慶長2年(1597年)に17歳で二条城の奥勤めとなり、当時56歳であった家康の側室となる。

 

 

慶長19年(1614年)大阪冬の陣では本陣に供奉し、夏の陣では伏見城に留守居をした。

 

家康の寵愛を受けていたが子宝には恵まれなかった。

 

 

 

側室・正栄院

初めは武田氏の旧臣の三井弥一郎の正室、子に三井吉正。名は牟須(むす)で、出自は不明です。

 

 

天正12年(1584年)夫の弥一郎が小牧・長久手の戦いで戦死すると、天正12年に幼い吉正を連れて大奥奉公に出る。

 

 

そこで家康の目にとまって、寵愛を受け数ある側室の中から特別にお気に入りの「三人衆」として扱われたとされています。

 

 

天正20年(1592年)には、朝鮮派兵により肥後国の名護屋城の本陣に詰めることとなった家康に供奉し、同年6月18日に名護屋城において出産するも難産のため母子とともに没する。

 

 

 

側室・泰栄院

父は武田家の旧臣・宮崎泰景の娘、名は仙といいます。
天正年間に徳川家康に召し出され奥勤めを始める。

家康との間に子女は生まれなかった。

 

 

側室・茶阿局

名は久。本姓は河村。法名は朝覚院である。

初めは遠江国の金谷村の鋳物師の後妻となり、娘・於八を生むも、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちするという事件が発生してしまう。

 

 

お久は、娘・於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴して代官は処罰されました。

 

 

その後、家康はお久を浜松城に召し出して奥に入れて勤めた。

最初は役目も低かったが、徐々に家康の信任を得て、側室となり茶阿局を名乗って寵愛を受ける

 

 

天正20年(1592年)辰千代(後の松平忠輝、文禄3年(1594年)松千代を出産する。

 

 

 

側室・普照院

相模国の小田原で後北条氏の旧臣・間宮康俊の娘、名は久。

文禄4年(1595年)、伏見城にて家康との間に四女・松姫を出産するも、慶長3年(1598年)に早死にする。

 

 

側室・お万

出自については『寛政重修諸家譜』などでは勝浦城主・正木頼忠と智光院との間の娘、名は万(萬)。

 

 

『南紀徳川史』では、河津城主・蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘、もしくは冷川村百姓夫婦の娘など諸説あります。

 

 

母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは、北条氏隆の娘とあり、『南紀徳川史』では田中奉行の娘という説もあります。

 

 

萬は、天正5年(1577年)4月4日正木頼忠を父として生まれたが、同年8月父・正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。

 

 

天正12年(1584年)母親が蔭山氏広と再婚したことにより蔭山一族になった。

 

 

その父・蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。

 

 

一説には伊豆国冷川村の出身で、幼い頃に百姓である両親と死別したとされる。

 

 

萬は駿河国太平村(現・沼津市太平)の郷士・星谷縫殿右衛門に養育され、文禄2年(1593年)三島で家康江川英長※7(江川太郎左衛門)の養女としてて家康にお目見えして側室になる。

※7.江川英長とは、父と同じく後北条氏に仕えていたが、しばしば三河国の徳川家康を訪ねて親交があったが、笠原隼人という同僚に徳川家と昵懇であると讒言※8されたため、笠原を殺して三河国に出奔し、北条氏規の口添えがあり家康に仕え戸田尊次に配属された人物

※8.讒言(ざんげん)とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。

 

 

そして、伏見城にて、慶長7年(1602年)3月7日に徳川頼宣(紀州徳川家)、翌年慶長9年(1603年)には徳川頼房(水戸徳川家の祖)を出産する。

 

 

 

側室・お竹

父は武田家の家臣旧臣・市川昌永といわれる。名は竹といわれるが、他にも武田家旧臣の穴山信君や秋山虎康、または信玄の娘ともいわれる説もある。

 

 

天正8年(1580年)に家康との間に三女・振姫を出産している、この頃から側室となったと考えられます。

しかし、振姫の生母を別の側室・下山殿と言う説もあります。

 

 

 

側室・お梅

父は豊臣秀吉の従弟・豊臣一門で家臣・青木紀伊守一矩の娘として生まれる。

 

 

家康の外祖母である華陽院は叔母に当たる。名は梅。

慶長5年(1600年)華陽院の姪という名目で15歳で奥勤めとなり、当時59歳の家康の側室となるも、後に下野国小山城主・本多正純の継室となる。

 

 

-家康の側室

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。