美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

大高城

桶狭間の戦いの当日松平元康は大高城にいたーそして信長軍から逃げた

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   戦国時代も半ばを過ぎた頃、駿河の守護大名今川義元(42歳)と尾張のうつけ織田信長(27歳)が桶狭間で衝突、その時、松平元康(17歳)は今川の先鋒で大高城へ兵糧の役目を仰つけられていた。

 

 

もし、元康が大高城にいなくて主君を守っていたら徳川時代はなかったと思う。

これも元康の運のいいところか?

 

 

桶狭間の戦いといえば、今川義元が上洛して天下に大号令かけるための、京への通過点であった尾張に攻め込んで行く途中で、信長27歳の若さで兵2000人を率いて無謀の合戦で勝利したというのが定説である。

 

 

近年見方が違う詳しい記事は後日書くとして、今は簡単にいえばそういう事になります。

 

 

今川義元は本当に京へ上洛に行く途中だったのか?

先ほども言いましたが、近年では義元の狙いは三河支配の安定であったとされています。

 

 

この合戦があった時、元康(家康)はどこにいて何をしてたか?ということが疑問になって記事を書きます。

 

 

 

信長に攻められたとき松平元康は

大高城は知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵に築かれ東西約106m、南北約32mの山城で、室町時代永正年間(1504〜21年)に花井備中守によって築城されたものと伝えられています

   ▲桶狭間の位置と大高橋の位置

 

戦国時代の天文・弘治年間(1532〜58年)の頃には、水野忠氏が居城していたが、始め今川氏に属し、後に織田氏についたため、今川方の鳴海城主・山口左馬助に攻められ、今川義元の家臣・鵜殿長照が入った。

 

 

そこへ松平元康(家康)は、今川義元の命で三河衆を率い、大高城(現・名古屋市緑区)に兵糧を運び入れようとしてた。

 

 

今川方の家臣・鵜殿長照は桶狭間の戦い以前から大高城の城代を任されていた。

 

 

大高城は織田方の最前線に位置していることから、丸根・鷲津両砦の織田軍のために身動きを封じられていた。

 

 

そんな情勢下では兵糧が枯渇するという危機的状況にあって、今川義元は元康(家康)に命じたとされています。

 

 

それだけ大高城は、尾張信仰の要の城であった。
元康はそのまま大高城で城を守った。

 

 

 

いろいろの説があるが、元康(家康)は家臣に大高周辺の偵察を命じ、報告では『織田方の軍勢が道筋に多く陣取り、兵糧部隊は必ず追い落とされてしまう」と進言したが、最後に偵察から戻ってきた家臣だけは「兵糧入れは可能である」と断言すたので、殿「織田方の動きをみると、戦が出来るほどの軍勢は整っていない」ように見受けられます。

 

 

「兵糧入れ部隊を、四方から取り囲んで進めば可能であろう」と考えられています。

 

丸根砦は大高城が今川義元の手に落ちたあと、織田信長によって大高城を包囲するように築かれた砦の一つで、永禄永禄2年(1559年)大高城の東側約800m、鳴海から延びる丘陵の先端に築かれた砦。

 

 

当時の今川方の基地である豊明の沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にあり、現状は東西36m、南北28mの砦の周囲に幅3.6mの外堀を巡らしている。

 

 

桶狭間の戦いの時には。信長の家臣・佐久間盛重を将とした立こもってたが、大高城への兵糧入れを命ぜられ、松平勢の一部が、丸根砦・鷲津砦の織田方を引きつけて戦っている間に、大高城へ兵糧を運び込ませた。

 

 

前日、丸根砦を松平元康が鉄砲を用いて攻撃し、激戦の後守備側は全滅したと言われる。

 

 

 

翌日、義元が信長に討ち取られた報告を聞いて半信半疑の元康は、まだ信じられなかった。

 

 

元康岡崎城に向かう

まだ、今川方の大高城にいた、元康は慎重であった。

今川義元の訃報が次から次に届いても信じられず「退却して、誤報なら笑われる」といい、伯父の水野信元※1が使者・浅井道忠を通して届いた。

 

 

「今川義元は討死し、駿河衆は退却している。岡崎城へ戻られよ」と忠告されても動かない。

※1.水野信元(みずののぶもと)とは、松平元康(家康)の生母「お題の方」の兄で伯父にあたる人物です。水野信元は「織田信長」と徳川家康との同盟に尽力したが、後には武田勝頼との内通を疑わられ、信長の命を受けた元康(家康)に殺害された。

 

 

それは夜11時の事である。「大高城にいれば落武者狩に遭わない。安心である」「織田軍は全軍でも5000人に満たない大高城を攻めてきても城は落ちない」とそう考えて慎重に行動したという。

 

 

その後、元康は知立城へ向かった。当時知立城は今川氏の尾張国の攻略城であった。

 

 

城主は、後に徳川家康の側室となった於万の方(結城秀康の生母)の父・永見貞英。

※上記の側室をクリックしてもらえれば詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

そこにいる限りは「逃げた」とはならず「兵を立て直して弔い合戦をするため一旦退いた」という理屈となって誰にも笑われない。

 

 

実際、その様子を聞いた織田信長は、「信義厚く、末頼もしき大将なり」と絶賛したという。

後日、清洲城で信長と対等の同盟を結ぶ。

※2.信義)しんぎ)とは、信義を重んじる、信義を重視する、信義に厚い、信義を重んじる、信義に堅い。

 

 

しかし、いざ知立(愛知県知立市)へ行ってみると、駿河衆が集結していなかったばかりか、織田方の上田半六率いる2,000人の落ち武者狩りに出くわした。

 

 

このとき先導していた浅井道忠が、機転を利かして、「我は水野信元が家臣・浅井道忠である。殿の命令で今川軍を追っている。

 

 

道を開けられよ」と言って、事なきを得て安祥(愛知県安城市)へ入ると、そこで松平元康軍は解散した。

 

 

残された主従は8騎とも、18騎とも伝わっている。
後は矢作川を渡りさえすれば岡崎城へ入城だった。

 

 

 

矢作川に渡し船がない!

だが当時はまだ矢作橋は無い。

普段であれば、渡から六名へと舟で渡る岡崎城の南の「下の渡」を使うが、ここでも落ち武者狩りの危険性は否めなかったので、仕方なく、北野から大門へと舟で渡る岡崎城北の「上の渡」を使うことにした。

 

 

松平元康軍は「御清水」(地蔵堂前のステンレス槽)で馬を休ませ、「上の渡」へ行くと、あろうことか渡し舟が無い、これは、今川軍が先に渡河(とか)して、追手が川を渡れないよう、舟を戻させなかったのを計算しきれなかったのである。

 

 

しかし渡らなければと思っても、梅雨で増水中の矢作川を舟なしで渡ることなんて出来ないと思案してた。

 

 

そのとき、長瀬八幡宮の森から、3匹の白鹿が現れ、矢作川※3を渡った。

※3.鹿ヶ松とは、長瀬八幡宮社伝によると、永禄3年(1560年3月21日)桶狭間の戦いに敗けた松平「元康は、織田軍の追跡を逃れ、この地まで来たが、矢作川が前日の雨で増水して渡ることができずにいた。

その時、長瀬八幡宮の森から鹿が出て来て、松の大木の陰から矢作川を大門のの郷へと渡った。
家臣の石川伯耆守がこれをみて「八幡大菩薩の化身である。浅瀬を知る鹿に続け」と主従18綺で川を渡り、無事に大樹寺に入ることが出来た。

後に徳川幕府は、矢作川堤防のこの地に松を植えた。この松は「鹿ヶ松」と呼ばれるようになったが、昭和28年3月3日、松喰虫で伐採されました、高さ:129m、幹周:39m、東西枝先:23.4mの松です。

 

 

すかさず石川数正が、「浅瀬を知る鹿に続け!」と叫び、松平元康一行は、無事に矢作川を渡ったという。

 

 

以降、「上の渡」「三鹿の渡」と呼ばれるようになり、浅瀬(渡河点)の目印に植えられた松は「鹿ヶ松」と呼ばれるようになり、この白鹿は、「伊賀八幡宮の神の使いである」とか「白鹿を見つけたのは石川数正か、それとも本多忠勝か?」とも伝えられる。

 

 

しかし本多忠勝が、伊賀八幡宮の神の使いである白鹿が矢作川を渡るのを見たのは、後に水野信元軍の偵察に、刈谷へ行った帰りのことである。
白鹿の正体はなんだったのか?

 

 

長瀬八幡宮における神の使い3匹か?あるいは伊賀八幡宮の神の使い1匹か?

したがって見つけたのは石川数正か、それとも本多忠勝か?そんな考察以前に、貿易船が行き交う矢作川に浅瀬はないように思われる。

 

 

常識的に考えれば、浅瀬があれば、座礁は避けられない。
実は、答えは次のような話ではなかろうか?「上の渡」(三鹿の渡)の北に、配津八幡宮(廃絶社)があり、その境内に「德川家康渡船之所」碑がたっている。

 

 

碑文によれば、家康を助けたのは白鹿ではなく、配津村の半三郎という船人だ。

 

 

松平元康の主従8人を舟に乗せて対岸の仁木(岡崎市仁木町)へ運び、お礼に銀銭3文と長刀1振を頂いたという。

そんな古文書が残されているらしい。

 

 

松平元康は慎重であった。
そして少数であった。
落ち武者狩りがいるであろう「上の渡」や「下の渡」を使うとは思えない。

そして大樹寺へ

 

 

-大高城

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。