江戸幕府は265年もの間、どのよう仕組みを使って国を治める事ができたのか?
これは家康が仕組んで亡くなったのか?各将軍になった者が考えついたのか?
家康は元和2年(1616年)に亡くなっているが、理由は3つ考えられる。
一つは諸大名への監視体制を確立したことです。
諸大名への監視体制といえば「武家諸法度」の制定、「参勤交代」や「手伝普請」などの軍役などがある。
参勤交代は皆さんうすうすご存じだろうが「手伝普請」ってあまり聞いたことないと思います。
手伝普請とは、江戸幕府が行う大規模な土木工事や建築に大名が労働力や資材、またはこれに代わる金品を負担していくことです。
手伝普請の対象となったのは、城郭や河川、御所、東照宮や寛永寺・増上寺などの将軍や家族の霊廟や宝塔、鶴岡八幡宮や比叡山などの寺社関係の築造、修復などである。
綱吉の時代では、犬小屋の建設もあったと言われます。
手伝普請は、現場で働く人足の手配から資材まで基本的に大名持ちだから出費が多過ぎてお金が残らない。
徳川にとっては、権力を誇示できるし、諸大名の蓄えを減らして勢力を削ぐこともできた。
といっても、大名達にメリットがなかったわけでもなく、参加することで最新の築城技術を習得できた。
このおかげで全国にお城が沢山出来たのは、手伝普請があったからとも言えます。
徳川幕府の偉大さ
武家諸法度とは
江戸幕府が大名統制のために出した法令です。
文武両道の奨励、新規の築城の禁止と修理の制限、自由な結婚の禁止などを定め,違反した者は厳しく処罰した。
元和元年(1615年),第2代将軍・徳川秀忠の名で徳川家康が出した13条の元和の武家諸法度に始まり,将軍の代がわりごとに出された。
第3代将軍家光は寛永12年(1635年)に19か条の武家諸法度を発布し,参勤交代を義務づけた。
武家諸法度の主な内容
○大名は領地と江戸と交互に勤めなければならない。江戸に来る場合は、毎年4月中とする。
○新しい城造りは、禁止する。
○新儀(ここでは謀反)をくわだて、仲間をつくり、誓いあうようなことは許さない。
○大名,近習(将軍のそば近く仕える武士),物頭(常備兵の隊長)は、幕府の許可なく、かってに結婚してはならない。
○かってに人の関所や船の関所を設けない。
○500石積以上の船をもつことを禁ずる。
○キリスト教はどこにおいても厳禁する。
○なにごとも幕府の決めた掟のとおりに従わなくてはいけない。寛永12年(1635年)年6月21日。
「武家諸法度」これは家光の功績が大きい.政権を保持するために、家光はさまざまな方法によって大名を統制しようとし、尚且つ、それをシステムとして定着させたのである。
それは幕府が、全国を統一して支配する必要する必要から、街道の整備を着手、参勤交代や物資の輸送の道路ばかりではなく、庶民の旅行道路としても発達していった。
五街道※1には宿駅が設けられ、宿駅には公用旅行者のために人馬が常備され、また小荷物を運ぶ飛脚も置かれた。
※1.五街道とは、日本橋を起点として、東海道五十三次・日光街道二十一次・奥州街道二十七次・中山道六十九次・甲州街道四十三次などである。
各宿場町の中心部には大名が宿泊する本陣・脇本陣や一般の旅行者が宿泊する旅籠屋があり、とりわけ東海道五十三次の宿場町と中山道六十九の宿場町などがあった。
参勤交代
三代将軍・徳川家光の時代に大名統一制のために定められたもので、諸大名を一定期間江戸に住まわせる制度を考案し実施した。
▲徳川家光
それによって大名は一年交替で国元と江戸を行き来しなければならない、妻子は江戸に常駐させたまま、要するに人質、各藩にとって国元から江戸に近い親藩・譜代大名はいいが、江戸より遠い外様大名はたまったもんでない。
▲大名の参勤交代
往来する費用は各藩持ち徳川幕府からの出張費用なんて出ない、各藩の持ち金は減って行くばかり、それが幕府の狙いだった。
大目付や諸国巡見使なんかもある
いわゆる公儀隠密である。
大目付は、各大名の行動や政治を監視する仕事で、特に大目付の密偵は各
藩に放され、幕府のもとには常時、各密偵から情報が伝えられていた。
怪しい動きをしている大名がいたら、すぐ幕府に情報が回ってくる仕組みです。
武家諸法度は家光が発布したものだが、以後将軍が替わる事に武家諸法度を発布するのが慣例になった。
莫大な御用金
二つ目は金銀銅の鉱脈や外国との貿易を掌握し、経済の中央集権を図ったことだった。
マルコ・ポーロが「黄金の国・ジバング」と呼んだぐらいだから、日本は金銀などの鉱物や燃料となる森林に恵まれていて、江戸時代以前から世界有数の鉱業国だった。
江戸時代に入ると、幕府は積極的に鉱業を進めて、日本各地で鉱山の開発を行った。
すると銅の生産量は世界最大となり、これなんかの鉱物は長崎を通じて世界に流通していくようになる。
慶長8年(1603年)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、すぐに佐渡を直轄領に指定してしまった。
さらに翌年に金貨と銀貨の鋳造を開始している。
直轄地には奉行所を設けて、幕府から派遣された奉行や代官が支配を行って、17世紀末頃の幕府の財政収入は、直轄領から上がる400万石年貢の他、佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森などの主要鉱山からの収入だった。
▲埋蔵金あるかも・・・
鉱山として特に有名なのが佐渡金山だが、1600年代前半の最盛期には、年間金400キロ・銀40トン以上を産出してたそうです。
徳川埋蔵金は本当にあるかもしれない、年貢と鉱物でも充分やってこれたことと、豊臣を倒した時に奪った黄金などがある。
佐渡金山は幕末まで長きに渡り計41トンの金が採掘され、江戸幕府の財政基盤を支えてきた。
ヨーロッパが発展できたのは、大航海時代に金銀を持ってきたからだ。
これがヨーロッパの特に西側の資本主義ができあがるもとになった。
そんな大航海時代で、金を世界で最も沢山産出していたのが、実は佐渡だといわれています。
さらに貿易を独占していたのも強かった。
江戸幕府は寛永16年(1639年)からポルトガルの鎖国政策を実施したが、中国とオランダとの貿易は継続された。
銀の減少が深刻になると、小判の輸出が解禁されるようになるんだが、17世紀後半の35年間で、オランダに対しては100万両もの小判が支払われたといわれています。
ちょっと面白い話があります。「東の金遣い・西の銀遣い」だ。
これは、金貨と銀貨を相場で交換するために両替商が発達し、大阪では米を銀貨で交換するため、世界初の先物取引が始まった。
江戸時代には世界最先端の金融市場になっていたそうだ。
農民の扱い
三番目は「農民らの生活や貢納への積極的な介入を行った」ことだ。
幕府は「五公五民」という制度を設け、いわゆる収穫米の五割を年貢として上納、残り五割を農民の生活米とした。
他にも割合を変えた、四公六民や三公七民というのもある。
農民の手元に残る米は、領主は余剰分をできるだけ搾取するのが原則で、徳川家康は「百姓共をば、死ぬ様に生ぬ様にと合致し収納申付る様」といったと伝えられる。
▲お百姓さん
「農民は生かさず殺さずがちょうどいい」っていうこと。
付加税も課せられたから、五公五民だと農民の生活はかなり苦しく、例えば約1ヘクタールを経営する5人家族なら、四公六民でも年1石五斗の不足で、三公七民でかろうじて生活が成り立つそうだ。
重税に苦しむ農民は隠田という隠し田を作ったり逃げ出したり、さらには減免を要求する一揆を起こすこともあった。
江戸幕府が全国を治めていたのはもちろんだが、税の種類や税率はその地方によってバラバラだった。
さらに国内の土地は、幕府直轄領、大名の藩領、旗本領、寺社領などに分かれていたから、それぞれの領主が税や税率決めていた、例えば、藩主などは年貢の税率を自由に決められるが、度を越して年貢を高くすれば当然農民は反発する。
農民が他の土地に逃げてしまったら、元も子もない、だかあらと言って、もし一揆でも起きようものなら幕府から責任を問われ場合によっては、領地を治める能力なしと判断されると、領地を没収されてしまうこともあった。
税を確保するのは第一だが、加えて公平で継続できるようにしなければならなかった。
検地
江戸時代に入ってからも、太閤検地にならい全国的に行われ、新田開発なんかも行われた。
土地の種類・広さ・収穫高と土地の耕作者が調査され、その結果は検地帳に記憶された。
そして検知によって定められた土地の石高を、年貢などの税にしたわけだ。
ちなみに秀吉の時代は「二公一民」と厳しいものだったそうだ。
江戸時代は平均して「四公六民」といわれるが、実際の年貢率はもっと低かったといわれる。
年貢の産出方法には2種類あった。
一年毎に収穫高を調査して課税する「検見法」と、過去の収穫高をもとに、年貢率を一定にして課税する「定免法」で、八代将軍・徳川吉宗は、幕府直轄領を検見法から定免法に切り替え幕府側にとって一定の効果があった。
さらに江戸幕府は、年貢である米の生産意外に目を向けさせないよう、農民たちを貨幣経済から遠ざけようとしていた。