皆さん、織田信長の名前は知っていますね?
本能寺の変の事も勿論知っていると思いますが、明智光秀自身が謀反を起こしたと思っている方がほとんどです。
簡単に説明すると、まず、明智軍に攻撃され自害したという事は伝記の事実です。
その時光秀がいたかどうかはNOです。
これは新聞に発表されていました。
※上記の新聞に発表をクリックして頂くとその新聞が載っています。興味ある方は読んでください。
日本史上最も名前が売れて最強と言われた人物の武将は織田信長と武田信玄じゃないかと推測します。
なぜかというと、日本の歴史に大きな影響を与えていきました、尾張の国の中でも小さな勢力だった信長は、徐々に勢力を広げていき、当時の日本の中心人物まで上り詰めていったと思います。
しかし、そんな絶頂期に、家臣である明智光秀による謀反にあい、あっけなく死んでしまうという筋書きで世の中は通用してます。
全くその通りのような気がしますが、どこまでが本当で、どこまでが作り話かわかりません?
もう一方の武田信玄も西上作戦を実行していたが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月には野田城を落とし、3月6日に家臣の秋山虎繁を岩村城に入れ、信長の叔母・おつやの方に開城させた。
勢いに乗った武田軍が突如進撃を停止、元亀4年4月12日軍を甲斐に引き返す三河街道で病死去してしまう。
信玄が元気だったら信長・家康は危なかっただろうに・・・。
織田信長生き様
生誕は天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日)に、愛知県の西部で生まれたとされています。
では西部とはどこでしょう?
名古屋駅から出ている名鉄鉄道の津島線の勝幡駅の近くにあった勝幡城で生まれました。
その後に生まれたのが妹・お市、年下の叔母・おつやの方(美濃国岩村城・女城主:父は織田信定、兄弟には信長の父・織田信秀)。
※上記の勝幡城をクリックして頂くと信長の系図と勝幡城の記事があります。興味ある母は読んでください。
父は織田信秀で弟に織田信勝がいた、しかし父が死んだため、信長と信勝の間で家督争いが起きてしまい、信長が最初に戦ったのが、弟・信勝を殺すことによって家督を継ぐことになって、織田信長は織田氏の中で頭角を現して行くことになります。
しかし、そんな織田氏を攻めてきた一族がいた、それは、駿河国の今川氏です。
こうして今川義元は尾張国の桶狭間に入ったところで、信長が侵入してきた今川軍に奇襲をかけ今川義元を討ち取りました。
勝負を賭けた桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月19日に今川義元が駿河から国境を越えて尾張国へ入って来るのを阻止するために、織田信長が手勢2・3000の兵を率いて大軍と戦い、いわゆる「桶狭間の戦い」です。
勝利したのは織田方です。
当時、今川義元は有名な武将だったので、これは衝撃的な出来事だったはずです。
次に信長が目を付けたのが美濃国を攻略していき攻略して、本拠地を美濃にし、地名も岐阜へと改めます。
▲岐阜城
足利義昭との出会い
当時は義昭は僧侶でした、時の将軍は兄の足利義輝でしたが、部下と対立してしまい殺されてしまいます。
そして時期後継者争いが、足利義栄と僧侶の義昭で、足利義栄を将軍にしたい輩は、三好三人衆と阿波三好家の義栄派、一方、足利義昭を将軍にしたい輩は、織田信長と三好義継と松永久秀の義昭派の間で戦いが始まった。
信長は義昭を将軍にするため京へ出向き、義栄派を京都から追い出して、将軍となった足利義昭は、京都で政治を行い始め。信長はその政治を支える一員となっていくのです。
こうして上洛した信長は、次に目をつけたのは、敵対してた朝倉氏でした。
越前国(現・福井市)を治めていた武将、この朝倉氏を攻める信長は北上していきますが、妹・お市の方を嫁がせた浅井長政も信長を裏切り朝倉氏についたため、一旦は撤退した信長は、本願寺・延暦寺とも敵対していきます。
このような流れで行われたのが、比叡山焼き討ちでした。
さてこのように織田信長と足利義昭は、反幕府勢力により苦境に立たされいきますが、この時、同じように苦境に立たされている人物がいました。
武田信玄は最強だったか?
この頃の武田氏は、上杉・北条・徳川と敵対していて危ない状況を打開すべく、信玄は本願寺や朝倉氏と同盟を結び、反幕府勢力に組み込まれ、反織田と共に戦おうと立ちあがったので、信長と足利義昭は信玄が、まさか反幕府側につくとは思ってもみませんでした。
「武田氏が京都へと攻め上がってきてる」と、この噂を聞いた京都の人々は動揺します。
織田信長は信玄を止めるべく防御に徹していきますが、ここで予想外の出来事が起こってしまいます。
なんと足利義昭が信長を見限って、信玄に味方するようになってしまって、信長は将軍の支持を失って絶体絶命の状況になって、誰もが信長の負けを確信します。
しかし、信長はついていました、幸運にも西に進んできてる途中の武田信玄の死去(享年53歳)です。
信玄を失った反信長勢力は、これをきっかけにして徐々に崩れていき、信長によって足利義昭は追放され、室町幕府は滅亡した。
さて人生最大のピンチを切り抜けた信長でしたが、敵対勢力がいなくなったわけではなく、これ以後も敵対勢力と戦っていき、朝倉・浅井を滅ぼします。しかし東には武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、西には三好氏と本願寺が残っていて、以前と東西から圧力をかけられ変わってはいませんでした。
この状況を打破するために、勝頼の方は徳川家康、本願寺・三好氏の方は織田信長が破って、徳川と合流して始まったのが、天正3年(1575年)5月21日に長篠の戦いが始まって、武田勝頼は大敗を喫し多くの重臣を失ってしまいました。
多くの反対勢力と決着をつけた信長は、事実上将軍のような立ち位置となり、織田政権と呼ばれる政治権力を確立していきます。
しかし、織田氏が勢力を拡大したことにより、新たな勢力と国境を接することになっていき、上杉氏と毛利氏です。
こうして信長は毛利輝元や上杉謙信と対立するようになり、新たらしい段階になっていきます。
信長は各方面に家臣を配置していき、戦いを進めていきますが、ここで戦況を一変する事件が起きます。
本能寺の変の真実は
京都の本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣である明智光秀の謀反によって死亡、嫡男の信忠も5男の織田信房(幼名:御坊丸、岩村城主に養嗣子となるが甲斐武田氏に人質となる、織田勝長。別称、津田源三郎・織田信房)共に自害に追い込まれてしまい、織田氏は大きく動揺していきます。
信長を討った明智光秀は、一時政権を奪取しましたが中国地方から帰ってきた羽柴秀吉に敗北、一度は逃れた明智光秀も落武者狩に遭い障害を終えています。
こうして動揺した織田政権の中で、羽柴秀吉が頭角を表して、天下統一へと進んでいくのです。
本能寺の変では、このようなストーリーになっていますが、事実でしょうか?
わかっている真実
①本能寺の変によって織田信長が亡くなったのは事実、これは明智光秀の謀反によってと言われていますが、②光秀は参戦していません、これも事実です。
本能寺にた信長の部下たち全員と共に信長も最後は亡くなってしまったと言われています。
この時の信長は弓を使って光秀軍と戦って、その後部屋に入って部屋に火をつけて自害するというふうに伝わっています。
なぜかこの時の記録にありますが、「大音響が轟いた」と記録には書いてあります。
信長は鉄砲に使う火薬に火をつけ、本能寺そのものが吹っ飛んでしまったので、信長の遺体も見つからなかった。これも事実です。
いずれにしても、ハッキリとした事実として分かってることは①本能寺の変で信長が亡くなったと書かれている文章があるがありますが、死体を検分してないので事実かどうかわからないというのが事実です。
では何のために光秀が本能寺を攻めようとしたのか?
諸説ありますが、あくまでも諸説です事実ではありません。
山崎の戦いで負けて竹薮の中で落武者狩りのお百姓さんに刺されて死んだという記録はあります。これも事実です。
だけど首実検ですが、亀に入れられて何週間も放置されて、ドロドロに腐って秀吉の元に持ち込まれ、これが間違いなく光秀の首であると言われ、光秀は死んだことになります。これも事実。
おかしなことがあって山崎で討たれて、何故か何日も経ってから首実検がされたのか?不思議。さらに不思議なことは、光秀が死んだとされている3年後に光秀を目の前に置いて書いたとされる光秀の肖像画が現在も残されている。
絵に描かれている日付が間違いではなく事実です。
ところが光秀の肖像画というのは、光秀を前にして描いたというんですが、光秀は3年前に死んでいるはず、じゃあ誰がモデルか?
よくわからない、事実はそいう絵があるという事実です。
そしてその後、天下人となった羽柴秀吉は豊臣秀吉と名前お変え関白太政大臣まで栄達をして我が国のボスになって、最高の政治権力者になっていった。