家康の次男・結城秀康は父・家康の母・於大の方によって、家康の異父の子の代わり秀吉の養子に出されてしまった不運な人だった。
結城秀康は武勇に優れた義の人だったのに、兄・信康が亡くなっても次男である秀康は3歳になるまで父・家康とは対面できず不運の境遇の幼少期だった。
家康の長男は正室・築山殿の子・松平信康、だけど築山殿と共に家康の命によって殺害されてしまうことになる。
養子にだされて、結局三男の秀忠が将軍職を継ぐことになる。
どうして次男なのに養子に出されてしまったのか?秀康は、天正2年(1574年)2月8日、遠江国敷知郡字布見村で生まれ、母は永見吉英に娘・於古茶(通称:おこちゃ)また、於万の方・小督局ともいわれていました。
最後には、結城家に養子に行って、結城秀康と名乗っています。
そんな秀康の数奇な人生を紹介していきます。
徳川家康も、幼名を竹千代、元服して松平元信・松平元康・松平家康・徳川家康と名を変えていきます。
結城秀康は、幼名は於義伊(義伊丸・義伊松)・松平秀康・羽柴秀康・結城秀康と名前を変えていきます。
家康は、徳川という姓は、藤原氏の流れを汲む得川氏から取ったとされていますが、個人的な意見ですが眉唾ものです。
※上記の藤原氏の流れを汲むをクリックして頂いて、家康の先祖が源氏の流れを汲む家柄か皆さん読んで判断してください。勝てば官軍です。
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梅毒を患ってしまった結城秀康
梅毒は、延徳4年・明応元年(1492年)にコロンブスにより、新大陸から欧州に持ち込まれた説が有力です。
日本で最初の記録は、永正9年(1512年)に、火縄銃よりも30年早く伝来しています。
今の世は、薬もあって完治するんですが、当時は薬もなくどういう病気かも分からず、梅毒トレポネーマという細菌に感染したままで終わってしまいます。
家康は幾多の女性と性関係を持つも病気にかからなかった運の良い人だと思う。
梅毒という病気は、性行為により皮膚や粘膜からしか感染しませんが、母子感染の報告もあります。
梅毒は治療しなければ、症状が出たり消えたりを繰り返し、1期から4期まで慢性的に進行していく恐ろしい病気です。
そんな秀康ですが、不幸にも若くして梅毒を患い鼻が欠けてしまいます。
梅毒3期の症状だったんです。
梅毒感染によって皮膚にできるゴムのようなシコリ(ゴム腫)によって周りの細胞が破壊されやすく、治療方法がない時代には鼻が欠ける人も多かったといわれます。
ある日、秀康を家康が招き対面をする際、「秀康が欠けた鼻を隠すため軟膏を貼っている」と聞いた家康が不機嫌になり、「病気で身体が欠損するのは自然であり恥ずことではない。表面だけ取り繕うのは公家や町人のやることで、武士のすることはない」と追い返してしまった。
当時は多くの武将が梅毒で命を縮めています。
慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられが、病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年(1807年)3月1日に越前へ帰国し、そのまま4月8日に死去してる。
享年34歳だった。
死因は直接の原因ではなく、梅毒による哀弱症が死因とする指摘もある。
現代の男性女性諸君気をつけてください。
一度目の養子先は「豊臣家」秀吉の養子
養子に出されたのは、やがて兄の信康が切腹をさせられてしまい、家康の後継の座は秀康に回って来るかと思われました。
しかし、家康は豊臣秀吉に秀康を養子にさし出してしまったんです。
実は小牧・長久手の戦いにおける和睦の条件だったそうですが、やっぱり愛情がないのかと勘ぐってしまいますよね?ところが・・・
事の発端は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、家康の異父弟・久松定勝が二番槍を挙げたのを見た秀吉が戦後人質として養子に要求してきたが、母・於大の方が猛反対したため、替わりに自分の息子・於義伊(秀康:当時10歳)前後、三男・長丸(秀忠は5歳前後)だったから於義伊を養子に出した。
秀吉はこれを喜び、自分の『秀』と家康の『康』をとって『秀康』と名付けられ、そして、秀吉の下で成長した秀康は、秀吉の天下取りの戦いに従軍して功績を挙げ、武将としても成長していきました。
戦功が振るわず悔し涙流した秀康の話を耳にした秀吉は、「やはりわしの子だからな〜」とご満悦だったという逸話もあり、可愛がられていたようです。
こうして、ゆくゆくは秀吉の後継者になる筈だったが、天正17年(1589年)秀吉に実子・鶴松が誕生し、狂喜した秀吉は、あっさりと鶴松を後継者とし、秀康は関東の結城家へと出されてしまったのです。
本来なら家康の跡を継いで将軍になってかもしれない秀康、また、豊臣の跡取りになっていたかもしれない結城秀康だった。
二度目の養子先・結城家とは
結城家は関東の名門武家、まあ体のいい厄介払い、タライ回し状態の秀康ですが、腐ることなく、関ヶ原の戦いが起こると父・家康に従い東軍に属した。
そして、会津の上杉景勝が南下方面に降りてこないか関東での牽制役になり、関ヶ原本戦の東軍の勝利に貢献した。
それがいかに大きな功績だったかは、結城10万1千石から越前68万石へと大幅な加増転封されたことからも分かることです。
結城秀康は、体格が良く、剛の者として知られ、天下の三名槍の一つ『御手杵の槍』を操りました。
▲御手杵の槍
この槍、4m弱もある巨大なもの、それを軽々と扱う秀康は、家康の跡を取って次の将軍になってもおかしくないと誰もが思ったようです。
実際、家康が「次の将軍誰がいい?」と尋ねたさい、徳川四天王の一人本多忠勝や側近の本多正信・正純親子は秀康を推したん出そうせす。
結局は、秀康がすでに結城家に養子に出ていたこともあり、弟の秀忠が2代将軍となりましたが・・・秀忠の器量は将軍にふさわしくないと思った家臣が多かったといわれます。
秀康は義の心の持ち主だった
秀康は単に強いだけではなく、相手を思いやる心もあって、関ヶ原の戦いの前、石田三成が武断派諸将によって襲撃されたことがあった、この時、居城に戻る三成を警護したのが秀康だった。
▲結城秀康
三成に対して、秀康は「太閤殿下の恩に報い、秀頼公のためを思うなら、今は城に戻って諸将をなだめるべき。
私がちゃんと守って差し上げるますからご心配なく」と進言したそうです。
三成は最後まで警護してくれた秀康に深く感謝し、刀を贈りました。
秀康は、これを「石田政宗」と名付け、関ヶ原の戦いの後も、三成の名を口にするのもはばかるような風潮の中で大切にしたそうです。
また、自らが抑えた上杉景勝が降伏を申し入れて来ると、攻め込んむことはせず父・家康への謝罪をすすめて取り成した。
後に、江戸城の大広間で秀康と景勝が出会ったとき、お互いに上座を譲り合って周囲は大変だったそうです。
景勝は秀康の家柄が上だとして譲ろうとしたんですが、秀康は、「先に中納言となり先輩なのは上杉どので、自分は結城家のものであり、徳川家ではありませんから」と固辞して景勝の面目も保ったのだそうです。
因みに、こうした譲り合いは、弟・将軍・秀忠との間にもあったそうです。
別々になった輿が出会ってしまい、「どうぞそちらが先に」と譲り合ってまったく行列が動かなくなってしまった。
結城家とは
豊臣秀康は、結城晴朝のところへ養子に出された。
当主、結城晴朝は、天文3年(1534年)8月11日、小山高朝の三男として誕生し、元服に際し4代・古河公方・足利晴氏の偏諱を受けて晴朝と名乗る(初めは小山姓)。
弘治2年(1556年)、小山氏との海老島合戦に参加し小田城を攻める。
永禄2年(1559年)8月に伯父・結城政勝が死去すると、嫡男・明朝が既に没していたために結城氏の家督を継承する。
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で下総結城氏17代当主で下総国結城城主。
次男・秀康の生い立ち
徳川家康の次男として生まれる。
秀康が生まれたのは、天正2年、母は側室・於万の方。
因みに将軍・秀忠が生まれたのは、天正7年(1579年)4月7日、三男として遠江国浜松城に誕生、母は側室・西郷清員の養女・愛子(戸塚忠春の娘)、次男と三男の歳の差4歳10ヶ月です。
側室・於万の方は、当時、家康には嫉妬深い正室・筑山殿がおり、その侍女だった於万の方を側室にしてしまった。
そんな事情が関与したのかわかりませんが、秀康が生まれたのは家康の家臣の屋敷、幼名は『於義伊(おぎい)またの名を於義丸(おぎまる)』ともいいます。
この名の付け方も酷いもので『ギギ』という魚に似ていたからという話もあります。
織田信長が『奇妙丸』だの『茶筅(ちゃせん)』だの変わった幼名を我が子に付けた話は有名ですが、これは信長だからいいのであって、家康がそれをしてもなんだか微妙な感じがしますよね。
怖い妻・筑山殿を憚ったのか、生まれた秀康に会おうともしなかったそうです。
一説には、秀康は当時『畜生腹』として双子で生まれたという説があり、秀康には何の罪もない、そんな秀康を憐れんで手を差し伸べたのが、兄の信康でした。
長男・信康が家康との対面の場を作ったので会えました。
父子対面はあったけど、それが家康の子として認知されないまま、家康の正室・築山殿が死去してから、秀康は認知されたのである。