こんにちは岩村町出身の歴史好きの隆太郎です。
岩村町には、今から約830前の鎌倉時代からの岩村城の歴史が残っています。
例えば、加藤景廉が山上村の邑長と会って、思案六法して腰掛けたとされる「腰掛け巌」が今でも残っています。
興味ある方は、一度は訪ねてみてはどうですか?
▲陸太郎のプロフィール
では、なぜ岩村の地に城を築城したのか、それは、加藤景廉が鎌倉に行く途中に寄った村が岩邑山上村、その時に出会った山上邑長(むらおさ)と当時の山賊退治に手を貸して退治したという話が残っています。
※上記の加藤景廉をクリックして頂くと詳しい記事があります、興味ある方は読んでください。
加藤景廉は、累代の源氏の家臣で、頼朝が旗揚げするということで鎌倉に向かった。
実際に旗揚げした時に平家の伊豆の代官・山本兼隆の首を取り恩賞として岩村の地の地頭に任じられた、そのため岩村城の祖となり、加藤景廉の嫡男・加藤景朝(遠山)が築城して、岩村を任せて、自分は鎌倉に居て頼朝をサポートをしていたといいます。
※上記の山本兼隆をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでくださ。
岩村町は冬はめちゃめちゃ寒いし、沁みるし、上町〜領家までの高低差があるし、昔し銭湯の帰りにタオルが棒のようになって、友達とそれでチャンバラごっこをして帰った気がした記憶があります。
鎌倉時代はどんな町だったろうか?と想像するのも楽しい、今ある城下は野原だったと思います。
そして、現在の城下町は、織田信長の家臣・川尻慎吉が城主になって造った城下町、それから徳川の時代になって、手を加えて現在の城下町になって行ったと思います。
※上記の川尻慎吉をクリックして頂くと遠山時代の城下と今の城下の記事があります、興味ある方は読んでください。
岩村城へ登ると一の門が最初ありますが、その手前に出てくる名称は藤坂という所です。
▲一の門
そこら一帯に藤の花が咲いていた所からその名がついたと言われます。
場所はどこら近辺かというと、下田歌子勉学所の辺りから一の門までをいう。
なんでここが藤坂という名が付いたかというと、加藤景廉の妻が故郷の紀州から持ってきた藤の実を植えたという伝説に因んで付けられた。
その遠山氏の子孫・遠山景任が何代目の城主か分からないけど、織田信長が叔母のおつやの方を政略結婚にと話を持って来たところから女城主の話が生まれてくる。
岩村城主は遠山時代・武田時代・織田時代・豊臣時代・徳川時代と長期に渡った、その中の遠山時代の終わり頃に活躍した女城主・おつやの方の悲しい物語です。
武田信玄上洛に動く同時に岩村城を攻める
一般的には、武田信玄が「西上作戦」とか「上洛戦」と言われてますが、元亀3年(1572年)に動いたとされています。
確かに、当時、織田信長との関係が悪化し、足利将軍の足利義昭が各地の大名に信長討伐指令を出して、この指令を受けた信玄も上洛を目指していたとして動いたように言われていますが、真の真相は少し違います。
信玄の真の目的は・・・・上杉か織田か徳川か、いろいろの要素が絡まって北条との関係を見ながら、結果的に織田・徳川を討つことになったから、三方ヶ原の戦い、一方では岩村城を攻めることになる。
先ず三河の徳川領へ侵攻するべく、翌11月、通り道となる要所・岩村城を秋山虎繁に攻めさせた。
同年8月、先の戦いで受けた傷ずが元で夫・遠山景任は病死し、またもおつやの方は、男運がなく未亡人になってしまった。
遠山景任の生誕不明のため、推測でおつやの方より1歳か2歳年下だから36歳の若さで亡くなっている。
2人の間に子はなく、信長は自分の5男・御坊丸をおつやの要養子に送り込み、岩村城を乗っ取りました。
これに怒った信玄が遠山氏を攻めさせた。
実は2人の間に女の子がいたことが判明したが、長野県の上松に隠れ住んでいたが亡くなっています。
※上記の上松をクリックして頂くと記事があります、興味ある方は読んでください。
この時、御坊丸はまだ6歳と幼少だったため、おつやの方が実質的な城主として采配を振るうことになりました。
おつやは幼い御坊丸を大変可愛がり、御坊丸もまた実の子のようにおつやに懐いだそうです。
この戦いでも、秋山軍の強さの前に遠山軍は苦戦を強いられますが、おつやは御坊丸に代わって戦装束を身に纏い、徹底防戦を主張して果敢に城兵1300人を指揮した。
「すぐに信長殿からの援軍が来るはず、それまでは耐えよ!」と鼓舞して籠城する。
攻め手の秋山軍は5000人、数の上では不利でしたが、難攻不落の岩村城は非常に攻めにくい造りの山城だった。
井戸も多かったため水の切れる心配はなく、別名「霧ヶ城」というほど、岩村城は霧を発生する井戸・霧ヶ井戸があり、頻繁に発生する濃霧に包まれれば、敵は視界を遮られて身動きできないようになってしまいます。
とはいうももの、当時の信長は「信長包囲網」が形成される中、伊勢長島一向一揆の第一次討伐で大きな損害を受けたばかりで、今後の対策に追われ、なかなか援軍に兵を割くことができないだろう事は叔母・おつやにも分かっていたが、このままではジリ貧になってしまう援軍が来なければ全滅は必至。
覚悟したおつやは、「実質城主たる自分の首を差し出せば、城兵領民と御坊丸を助命してほしい」と秋山軍に伝えた。
が、おなご一人の首で刃が治るはずもなく、代わりに秋山虎繁から突きつけられた降伏条件は、誇り高き女城主にとっては死よりも屈辱的なものでした。
それは「我が側室となり城を明け渡せば、御坊丸をはじめ城兵の命は助ける」という返事、断れば御坊丸乱世の俄いによって斬首、民の命も亡くなるでしょう。
信長を裏切り、我が身は敵の側室となり下がるより他に道は残っていませんでした。
戦場で敵将に求婚されたおつやの方
実は、おつやと秋山虎繁は初多面でなく、あまりの美しい女性であったおつやであったから、そのような条件を出したのである。
織田信長の嫡男・織田信忠と武田信玄の娘。松姫との悲恋は有名なエピソードですが、その2人の婚約の儀を整えた武田方の死者が秋山虎繁だったのでした。
美濃・三河方面の外交を任されていた秋山虎繁は、龍勝院(武田勝頼の正室)の輿入れや信忠・松姫の婚約に際して何度か岐阜城を訪れて、おつやとは顔みし知りで、その美貌に一目惚れしていたのかもしれない。
おつやは屈辱に耐えて降伏条件をのみ、岩村城は開城して武田方になったのでした。
翌元亀4年(1573年)3月、ようやく信長が岩村城に兵を差し向けましたが、時既に遅く秋山虎繁とおつやの方は戦いの渦中において祝言を挙げ、信長軍を撃退し御坊丸は人質として甲斐の躑躅ヶ崎館へ送られました。
当然ながら、信長は激怒。
しかし信玄没後も、家督を継いだ武田勝頼の勢いに押され、さすがの信長も一旦兵を退かざるを得ませんでした。
おつやの方は3回の政略結婚で岩村城へ
おつやの方は織田信秀(信長の父)の妹で、織田信長の叔母にあたる女性、なは「お直」とも伝えあります。
おつやの生誕は不詳ですが、1536年〜1538年頃の生まれと思われ、叔母とはいえ信長より年下で、愛知県勝幡城で生まれ、大変美しい姫だったそうです。
※上記の勝幡城をクリックして頂くと関連記事があります、興味ある方は読んでください。
16歳〜18歳の頃、一度目の政略結婚は”日比野下野守清美“で、斉藤道三の家臣で「斉藤六人衆」の一人に嫁いでいる。
永禄4年(1561年)の「森部の戦い」で織田信長」に攻められ落城し、清美も討死した。
18歳で一回目の未亡人なっています。
二度目の結婚は、信長に仕える武将でしたが、ほどなく戦死しています。
再び岐阜に戻ったあと永禄5年(1562年)に、今度は東美濃の岩村遠山氏の遠山景任に嫁いでいます。
この時、おつやの方は逆算すると1562年-(1536年か1538年生まれ)=だから22・23歳位で嫁いだことになります。
敵将・秋山虎繁との結婚年齢
遠山氏は東美濃の鎌倉時代からの豪族で、一族が七つの城に分かれ勢力を保っていました。
中でも岩村城は織田領・武田領・徳川領の境界にあたり、惣領として一族をまとめる居城でもあり、それ故に織田・武田双方と関係を密にしていました。
信長は東美濃を拠点にしたくて叔母・おつやの方の他にも、妹を遠山一族に嫁がせて、生まれた姪を養女として、永禄8年(1565年)に武田勝頼の正室(龍勝院)として嫁がせています。
元亀元年(1570年)徳川家から人質として武田家に預けられていた、松平康俊※1が、甲斐を脱出。
※1.松平康俊とは、母。於大の方の三男で異父弟。
※上記の松平康俊をクリックすると詳しい記事があります、興味ある方は読んでください。
預かり役だった武田家臣高遠城主・秋山虎繁がこれを追跡し遠山領に侵入します。
おつやの方が嫁いだことで織田方となっていた遠山勢は、織田の同盟関係である徳川に加勢し、上村(恵那市上矢作町)で秋山軍と戦いますが、猛攻に遭って討死者が続出した。
そのため信長が援軍を出してなんとか秋山軍を退却させました。
戦場で敵将に求婚されたおつやの方
敵将・秋山虎繁と四度目の結婚の年齢は、1572年に岩村城落城した時だから、1537年を引くと35歳位ではないでしょうか?
実は、おつやと秋山虎繁は初多面でなく、あまりの美しい女性であったおつやであったから、そのような条件を出したのである。
織田信長の嫡男・織田信忠と武田信玄の娘。松姫との悲恋は有名なエピソードですが、その2人の婚約の儀を整えた武田方の死者が秋山虎繁だったのでした。
美濃・三河方面の外交を任されていた秋山虎繁は、龍勝院(武田勝頼の正室)の輿入れや信忠・松姫の婚約に際して何度か岐阜城を訪れて、おつやとは顔みし知りで、その美貌に一目惚れしていたのかもしれない。
おつやは屈辱に耐えて降伏条件をのみ、岩村城は開城して武田方になったのでした。
翌元亀4年(1573年)3月、ようやく信長が岩村城に兵を差し向けましたが、時既に遅く秋山虎繁とおつやの方は戦いの渦中において祝言を挙げ、信長軍を撃退し御坊丸は人質として甲斐の躑躅ヶ崎館へ送られました。
当然ながら、信長は激怒。
しかし信玄没後も、家督を継いだ武田勝頼の勢いに押され、さすがの信長も一旦兵を退かざるを得ませんでした。
おつやと虎繁の束の間の幸せ
こうして岩村城で夫婦として暮らし始めた2人、おつやにとっては御坊丸を助けるためとはいえ、結果的に信長を裏切った婚姻でした。
「いずれ信長の軍勢に攻められる、負ければ当然命の保証は無い」と承知の上ですから、「悔いのないように前向きに生きよう」と腹を括っていたのかもしれません。
秋山はおつやにとっては四度目の夫、今までの夫とは全て死に別れ続けてきた。
この結婚は長く続く事を願った。
やがて2人の間にには男の子が誕生し、名を六太夫とし御坊丸の「御」は「信長の五男」を意味する漢数字の「五」とも表記するために「六」を用いたとされています。
信長の反撃
そんな束の間の幸せを噛み締めていた2人でしたが、天正元年(1573年)武田方に継いていた奥三河の国衆・奥平貞昌が武田を裏切って離反し、徳川方についた。
後に家康の長女を嫁がせている。
これをきっかけに天正3年(1575年)5月、長篠の戦いが勃発します。
信長・家康の連合軍は、この戦いで鉄砲隊を巧みに指揮して武田軍に勝利、武田氏は武田家重臣の多くを失い勢いを削がれ、信長の反撃がいよいよ始まりました。
信長はすぐさま嫡男・信忠を総大将に命じ岩村城の奪還を命じ、遠山一族の生き残りを味方に引き入れて、城への補給路を断って兵領攻めを開始し、本隊を岩村城の西の小高い丘(現・大将陣)に置いた。
その兵力は3万、一方岩村城に立て籠った秋山勢の10倍、秋山虎繁の半年に及ぶ籠城戦を指揮して、勝頼の援軍を待ったが先の長篠の戦いで兵力がままならず、やがて兵糧も尽きて餓死者・病死者が出始め、11月10日敵陣への夜襲をかけたが返り討ちに遭い、兵の三分の一と大将格21名を失った。
そんな絶望的な状況の中、信長自ら出陣するという一報が届き、城にいる城兵達は飢え疲れ果てて反撃を続けることが不可能の状態でした。
意を決した虎繁が信長に使者を送ると、なんと信長からは「身内ゆえ、降伏すれば城主・城兵共に助命す」との返事が届いた。
これを受け、虎繁はついに岩村城を明け渡し、信長に御礼言上すべき面会にいきますが、約定空しく家臣と共に捕縛され、岐阜に連行されてしまいます。
城に残っていたおつやも捕らえられ、岐阜へと送られた。
信長の怒りは治っていませんでした。
自分を裏切り、要衝を敵の手に渡し、あまつさえ敵将の妻とな理、実子・御坊丸を武田の人質に差し出した叔母のおつやの方に激怒していた。
逆さ磔・岩村城の悲劇
11月21日、おつやと虎繁・家臣達は長良川の河川敷で逆さ磔になって処刑されました。
逆さ磔は、通常の磔を逆さにしたもので、死に至るまでの過程が異なるのです。
酷い処刑と言われます。
なにが酷いかというと、逆さに縛りつけておくだけで槍も用いず、絶命するまで放火っておく極刑です。
逆さにされると「頭に血が上る」の言葉通り、重力によって頭部に血液が集まっていき、やがて下がってきた内臓が呼吸を妨げて死に到ろ・・・・
岩村町の大将陣公園の西側に妙法寺というお寺があります、そこにおつやの方と秋山虎繁を供養する「まくら冢」があります、今もお参りが絶えません。