甲斐国の武田信玄と駿河の国の今川氏と同盟を結んでいたが、父・義元の死によって遠江の国衆たちが今川に叛き混乱状態となった。
このことにより、信玄が今川領に対する野心が生まれる。
信玄は永禄8年(1565年)には、織田信長と同盟を結んで、信長の姪を養女※1にして、信玄の四男・武田勝頼に嫁がせた。
※1.養女とは、織田信長の妹と結婚した美濃国苗木遠山氏の遠山直廉(別名:苗木勘太郎)の娘を養女にした。1567年まで正室(龍勝院)であった。
※上記の苗木遠山氏をクリックして頂くと詳しい記事がありますので、興味ある方はクリックして読んでください。
武田家の内部で織田家と同盟を結ぶことに反対する、嫡男・武田義信派の内部から意を唱えた者がいるが却下される。
※上記の意を唱えた者をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
永禄11年12月6日、信玄は今川氏との同盟を破り駿河を攻める、それと同時に、家康も遠江に侵攻することになる。
これは、侵攻前に家康と信玄が同盟を結んでいた事を意味する。
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なぜ家康が信玄に不審を抱いたか
信長は、永禄11年(1568年)足利義昭を奉戴し、上洛を開始し、この上洛戦の最中に今川氏に背後を衝かれる事を避けたかったため、信玄の駿河侵攻を認めた。
侵攻の前には、武田・徳川の間で「密約」があったとされる。
それは、同時に今川領国に侵攻して、大井川を境に駿河を武田が、遠江を徳川が領有するということであった。
同年12月6日に信玄は駿河に侵攻、今川氏真は戦おうとするが、武田の調略により今川家臣らは戦線離脱、大した抵抗もなく武田軍は駿府に入る12月13日。
氏真は駿府から掛川城に逃れた。
今川氏と同盟関係にあった小田原の後北条氏が出陣してきたため駿河侵攻は鈍る。
一方家康は三河を出陣し、12月13日には遠江に攻め込んだため、当地の国衆らは続々と家康に帰順し、遠江中部の高天神城の小笠原氏も家康に降った。
家康は信玄にどして不審を抱いたか
遠江侵攻は順調に進んだが、武田家臣・秋山虎繁(後に信長の叔母・おつやの方と結婚して岩村城主となる)の率いる信州伊那衆が遠江国に攻め込んできた。
これには家康は怒り信玄に講義した。
信玄は秋山軍を駿府に引き上げさせた。
この事件で武田信玄に不信感を持ったのだった。
永禄12年1月中旬から始まった掛川城攻めは3月に氏真に和睦を提案し、5月中旬に開城させた。
しかし、徳川・今川の和睦の動きに、駿河を攻めあぐねる信玄は、信玄で家康に不信感を募らせていた。
両者の和睦が成立すれば、信玄は窮地に陥る可能性あるからだった。
家康は遠江一国をほぼ手中ににした。
駿府から撤退した信玄は、5月には武蔵国などに侵攻し、後北条氏を撹乱した。
敵対していたはずの武田氏と後北条氏であったが、強硬な北条氏康の死(1571年10月)により信玄は接近する。
▲北条氏政▲武田信玄▲徳川家康▲織田信長
氏康の子・氏政は、上杉謙信との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぼうとした、なぜなら氏政の正室は信玄の娘であった。
こうして武田と北条の同盟が成立したため、信玄は西方への軍事行動が容易になったのである。
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徳川・上杉の同盟結ぶ
この問題から、元亀元年(1570年)10月には徳川・上杉の同盟が成立、条件は信玄と断交することを誓った。
そして、信長と謙信が懇意になるよう、家康が仲介する事を約束する、武田と織田の縁組が破談になるよう信長を諌めるとまで言った。
家康の決断の原因
それは、信玄の家臣・秋山虎繁が率いる伊那衆の遠江侵攻が侵攻だといわれてます。
信玄は、家康宛ての書状を、永禄12年(1569年1月8日付)で、「秋山虎繁以下の信州衆が、遠江に在陣していること、これをもって、我らが遠江国を狙っているとお疑いのようですね。
早々に秋山をはじめとする下伊那衆を我が陣(駿府)に招くことにしましょう」と述べている。
これは、家康の抗議により、出された文章である。
信玄の出陣
元亀元年(1570年12月28日)、武田氏に人質となっていた、家康の異父弟・松平源三郎を追って、秋山虎繁が東美濃国の岩村領を通って、三河へ攻めて込んでいったため、徳川氏の連合軍と遠山氏の軍で交戦、上村合戦・小田子合戦が勃発した
※上記の上村合戦・小田子合戦をクリックして頂くと詳しい記事があります。
元亀3年9月29日に、信玄の重臣・山県昌景と秋山虎繁に3,000の兵を預け東美濃から三河国に派遣して、10月3日、信玄は甲府を出陣、家康の三河国領に侵攻することになる。
信玄の本隊は、駿河から遠江に入り、高天神城の小笠原氏を降す。
続いて、信玄は二俣城に軍を11月上旬に進め11月末に降伏した。
信長は信玄の遠江侵攻を知ると激怒した。
信長は信玄の要望により、越後の上杉謙信との和睦に向けて動いていたにもかかわらず、信玄の暴挙だと謙信への書状で、信玄の行いを無動と断じ、侍の義理を知らない、恨みは尽ることはないと痛罵する。
信玄退治に燃える信長は、10月下旬には、浜松の家康のもとに、家臣の梁田広正、11月には平手汎秀・佐久間信盛・水野信元ら3,000の援軍を送った。
12月22日、信玄の軍勢は浜松城の近くまできてる。
家康は出陣して武田軍と「戦う、合戦する」と告げるも、重臣たちは「武田軍は3万もいて熟練の武者ばかり、対する我が方は8千です」と忠告する(三河物語)。
それでも家康は「多勢が自分の邸の裏口を踏み破り通ろうとしているのに、咎めないものがあろうか。戦いは多勢無勢で結果が決まる訳ではない。天運のままだ」と決戦を選んだ。
『信長公記』には、二俣城を落とした信玄は「堀江の城へ撃ち廻らせ相働き」とある。
堀江城を攻撃すれば、浜名湖の水運を掌握できる、そうなれば、物資が浜松に送れなくなるので、浜松城での籠城は困難となるであろう、よって信玄は堀江城を攻撃しようとした。
それを知っていた家康は無闇に戦いを挑んだ訳ではなかった。
家康が浜松城から出陣し、接近している事を知った信玄は、家康軍との戦いを決意し、武田軍は魚鱗の陣、徳川軍は鶴翼の陣をしき、三方ヶ原で激突した。
『三河物語』は、徳川軍が武田軍の一陣・二陣を打ち破り、信玄本陣に殺到したと記す。
しかし、多勢に無勢で徳川軍は敗退したという。
『信長公記』は、織田方の武将の奮戦を記した後で、家康の逃亡の有様を記す。
ただ一騎で退く家康。
敵は先回りして退路を断とうとするが、家康は見事な弓術により、敵中を突破した。
『三河物語』では、家康は味方の小姓を討たせまいとして、味方を固まらせて、退却したという。
家康より先に城に帰った者のなかには「家康戦死」のデマを流すものもいたが、家康が無事に帰城すると、それらの者は気まずいのか、逃げ隠れたとされる。
信玄は浜松城を力攻めにせず、刑部(現・浜松市北区)に向かい越年した。
その後、三河国に進軍した。
家康三大危機の一つ「三方ヶ原の合戦」はこうして収束する。
小勢の家康軍が大軍の武田に勝つ見込みはなかったであろう。