【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

苗木城

苗木城の歴史探究〜あっと驚く巨石の城跡めぐりとアクセスを紹介

投稿日:2020年5月21日 更新日:

苗木城へ行って、新緑の美しい風景を眺めながら歴史をもっと知りたく出かけることにしました。

 

まず、苗木城へ行くには、中央自動車道を中津川ICで降りると国道19号線にぶつかります。

 

 

その国道19号線を右に回って、国道257号線に入って城山大橋を渡って、下呂・高山方面に向かうと苗木城の看板がありますので、右折れしてください。

 

     
▲苗木城へ行く地図

 

 

苗木城の歴史

苗木城は、現・岐阜県中津川市にある日本の城で、別名霞ヶ城と呼ばれています。

以前は隣町の恵那郡岩村町の岩村城の分城でした。

 

 

最後の苗木城主には、遠山友詳:ともあき(友禄:ともよし)は、明治2年(1869年)版籍奉還により藩知事となった。

 

明治4年(1871年)廃藩置県により苗木城は廃藩となり苗木県となり、明治17年(1884年)7月7日華族授爵ノ詔勅※1(しょうちょく)により遠山友詳(友禄)は子爵となった。

 

別ごとですが、明治4年(1871年)1月14日に名古屋城を出発して、岩村城最後の城主・松平乗命の元に、名古屋城主・第12代徳川斉荘(なりかた)の四女の釣姫が嫁入りにきました。第12代徳川斉荘の父親は、なんと徳川11代将軍徳川家斉で、その孫娘です。詳しく知りたい方は、上記の釣姫をクリックしてください。

 

 

昭和56年(1981年)国の史跡に指定、平成29年(2017年)4月6日に続日本の百名城(142番)に選定されました。

※1:詔勅とは、大和言葉で「みことのり」といい、これは天皇の御言(みこと)を宣る(のる)という意味です。

※2:遠山友詳(友禄)とは、美濃苗木藩の第12代で最後の藩主で、父は第11代藩主・遠山友寿の三男で母は於由賀、正室は島津忠徹の娘・美子です。

子には遠山友享(長男)、萩原某(次男)、娘(遠山友梯の正室)。
養子に遠山友梯(ともやす)(大和国芝村藩・第11代藩主織田長易の四男)を迎える。

官位は従五位下。
刑部少輔、豊前守、信濃守。初名は遠山友詳(ともあき)です。

 

 

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苗木城は遠山七頭の一つ七頭とは

岩村城を本拠地として、明知城、苗木城、飯羽間城、櫛原(串原)城、明照

城、安木(阿木)の七家で七遠山ともいう。

 

安木(阿木)の代わりに大井城、明照(あてら)に代わって馬籠城を入れる説もあります。

 

 

苗木城とは

苗木遠山氏・苗木城主は諸説あります。

恵那郡を統治した地頭加藤景廉(景廉は頼朝の側近のため鎌倉勤め)のた

め、嫡男加藤景朝遠山荘にきて城を築城、遠山荘の名をとって遠山景

と名乗った。

 

 

景朝の嫡男・遠山景村が、仁治2年(1242年)木曽川北部の所領確立のため、木曽川左岸西山戸から右岸の那木津戸が当時那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなったのです。

 

 

元弘年間(1331年〜1334年)遠山一雲入堂(遠山昌利)、遠山景長親子が、高森山(現・中津川市苗木町)砦を築く。

 

 

元弘〜建武年間(1334年〜1336年)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木の広恵寺城を築き後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎える。

 

 

遠山昌利(遠山一雲入道)が高森(中津川苗木町)に本拠地を移すまで約200年間使用された。

 

 

その後、築城年代には諸説がありますが、天文元年(1532年)美濃国岩村城主・遠山景前の弟遠山直景が築城したと伝えられています。

 

 

遠山直景織田信長の妹を娶って姫をもうけたが、このを信長の養女として武田勝頼に嫁ぐことになる。

※上記の織田信長の妹をクリックすると、織田家の家系図があります。興味ある方はみてください。

 

 

 

こうした婚姻関係から、苗木遠山氏岩村城をめぐる織田信長と甲斐の武田信玄攻防戦に巻き込まれる。

※上記の攻防戦をクリックしてもらうと、織田信長×武田信玄のことが、書いてあります。興味のある方はみてください。

 

 

遠山直景の死後、遠山友勝、続いて遠山友忠織田信長の命により苗木城主となる。

 

 

天正10年(1582年)本能寺の変にて織田信長が亡くなった後、時の苗木城主・遠山友忠徳川家康に仕えることになった。

 

      ▲イラストマップ。ネットから流用

 

遠山七頭以外の城

神野遠山氏・神野城(別名鶴ヶ城)
馬場遠山氏・馬場城
福岡遠山氏・福岡城→苗木城の近くにあります。

 

 

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遠山十八支城

美濃遠山氏には、本拠岩村城の他、遠山十八支城と呼ばれる城や砦が存在してました。

 

『甲陽軍艦』の五十一品では、「ないぎ かのう ぶせつ いまみ あてら まごめ 大井 中津 つるひ かうた せとざき ふつた ぐし原 明知」の名が挙げられています。

 

 

また、『美濃明細記』のい岩村城の頃では、その支城として、「苗木城、明知城 飯羽間城 串原城 大井城 久須見城 佐佐良木 藤 阿木城 野井 曾木」があげられます。

 

 

鶴ヶ城(瑞浪市) 武節城(豊田市) 阿寺城(中津川市) 馬籠城(中津川市) 公恵寺城(中津川市) 千旦林城(中津川市)その他

 

 

信濃の遠山氏

信州遠山氏(江儀遠山氏)信濃国伊那郡南部によった一族で、美濃遠山氏と同祖とみられ「伊那旧事記」は明知遠山氏の分家としてます。

 

 

関東の遠山氏

武蔵遠山氏は後北条氏の家臣で江戸時代、明知遠山氏の遠山景保の子遠山直景が北条早雲に仕え武蔵へ移ったのに始まる。

 

また、相模遠山氏は武蔵遠山氏の遠山直景の次子遠山康光の一族で江戸時代に旗本となった。

 

また、館林遠山氏は、苗木遠山氏の遠山弥右衛門景利を祖とする。榊原康政に仕えて500石を得る。

 

 

 

四国の遠山氏

小牧・長久手の戦い徳川家康から感状を得た「遠山佐渡守」の一族で、佐渡守の子孫は高松藩の生駒家や今治藩の久松松平家に仕えた。

また、神箆城城主・延友佐渡守が、この遠山佐渡守だとする説もあります。

 

 

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苗木城の見所

木曽川の右岸に聳え立つ苗木城は標高432m、特徴は巨石を取り込んだ石垣です。

 

 

駐車場に車を置いて、歩いていくと竹門があります。

その竹門には、左側には谷積み技法を用いた石垣がみえます。
平石の隅を立てて積んであり、落積み友言われています。
この積み方は、昭和に至るまで道路工事などで積まれていました。

 

 

右側をみると、切込石整層積みが並んでいます。
石の形を調整して積み上げて作られています。積石の面はあまり加工されなく、他のタイプの石垣と比べて積石が小さいものを使用してます。

 

 

そこをみて登っていくと風吹門に辿り着くと、三の丸があり目に飛び込んでくるのは石垣群の大矢倉跡。

 

                  ▲大矢倉跡

 

17世紀半ば三階建ての倉庫として新造された大矢倉があり、御鳩小屋とも呼ばれていた大矢倉の建物でした。

 

 

三の丸を後に、天守台がある本丸を目指し登ると、次第いに大きな巨石と、高く積み上げられた石垣の揃い踏みは見事です。

 

          ▲剥き出しの岩盤の上に懸造と呼ばれる足場

 

頂上に待ち受けるのは、剥き出しの岩盤に独特の工法で組まれた『懸造※3(かけずくり)と呼ばれる足場。

※3:懸造とは、柱と貫で崖の上に建物を固定して、床下を支える建築方法で、京都の清水寺もこの方法で造られています。

 

 

 

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