【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

うつけ

うつけと呼ばれていた信長が天下を狙う知能と運の良さを発揮する

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よく映画やドラマを観てると信長は、「うつけ」と言うことが報じられています。
では、「うつけ」とは、どいうことを言うのでしょうか?

 

信長の生い立ち、幼名は吉法師

織田信長とは、天文3年(1534年)5月尾張国の戦国大名・織田信秀

田政久の間に嫡男として誕生しました。

 

 

生まれたのは勝幡城※1(愛知県愛西市勝幡町)、この後に祖父・織田信定(1538年没)末娘として生まれたのが「岩村城の女城主・おつやの方です。

年齢は不詳で信長より2・3歳は若いはずです。

 

※1勝幡城とは、現・愛知県愛西市勝幡町にあります。名古屋駅から出ている名鉄津島線に乗っていけば「勝幡」駅があります。

※上記の勝幡城をクリックすると織田家の家系図があります。興味のある方はクリックしてみてください。

 

 

幼名は吉法師(きっぽうし)、信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡※2の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。
守護である。

 

※2下四郡とは、愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡のこと、最初「織田大和守家」は中島郡と海東郡の二郡及び山田郡(尾張国)の一部のみ)の守護代となる『大乗院寺社雑事記』に記載されている。

当時、尾張国は守護大名の斯波氏(しばし)の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していた。

 

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余談ですが、三英傑の中では比較的ちゃんとした血筋の織田家素性のわからない秀吉先祖が何者かわからない「松平」家康と比べると、信長の場合は何百年かさかのぼれる織田一族です。

 

 

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行※3という家柄であった。
※3三奉行とは、当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していた。

 

 

こうした状況下で、信長の父・織田信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪って信秀は尾張国内において勢力を急拡大させて行った。

 

 

 

うつけの定義(うつけといわれる武将)

信長は、信秀から早い時期に那古野城を譲られ、城主になっている。
「うつけ」とは、もともと、からっぽという意味であり、転じてぼんやりとした人物や暗愚※4な人物、常識にはずれた人物を指す。
すなわち、うつけ者ともいう。
字は「空」「虚」「躻」などと書きます。

※4:暗愚(あんぐ)な人物、常識はずれた人物を指す。うつけ者ともいう。字は「空」、人民の心も知らぬ暗愚な君主‥‥とある。

 

                     ▲那古野城跡

 

実際の暗愚な人物が「うつけ」と呼ばれるというよりも、奇矯な振る舞いなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、実際には暗愚なわけではない場合も多いと言えます。

 

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うつけと呼ばれた人物

⚫️織田信長:ご存知の方は多いと思いますが、信長「うつけ」と言われる代表格ではないでしょうか?

 

 

弱肉強食の戦国の世に、信長はちっぽけな織田家を、わずか18歳で引継ぎ奇妙な行動で周囲からは「大うつけ」と噂されていたが、これは信長の策略※5じゃなかったかと思います(個人意見です)

※5策略とは、自分の目的を達成するために相手を陥れる謀。計略。「策略をめぐらす」

 

 

当時周囲には、今川義元という強力な勢力があって、織田家駿河国の今川、甲斐の武田に囲まれていて信長は、そんななか、那古野城を父・信秀に任された。

 

 

一計を案じた信長「うつけ」のふりをしていたのではないのかと、記者は思います。

 

 

信長は幼い頃の幼名を吉法師と言っていました。

吉法師(信長)は、七、八歳の頃から近所の子供たちと近くのお寺にかよって学問を、そこの和尚さんに読み書きを教えてもらいました。

 

 

通い出して間もなく、吉法師は自分だけが、他の子供、と扱いが違っていると感じ始めていました。

 

 

当然と言えば当然、和尚も他の子供たちも、吉法師に対して「若さま」と言っては本当のことを話してくれませんことに気付き始めました。

 

 

ほかの子供同士で集まると、ワイワイガヤガヤとくたっくのない話が弾んで楽しそうにいて、吉法師は気まずい思いになってきました。

 

 

吉法師は領主の子供ですから、領民の子供とは違って、もし何かあった場合城の人から叱られるに違いありません。

 

 

そのため吉法師は、子供ながらいろいろ経験をし学んでいった。
吉法師は領主の後継で、ほかの子供たちとは生まれながらに、立場が違う、領主が領民と同じになろうなどとは間違ったことだと悟った。

 

 

父信秀の代になってからは、ほかの織田家を追い越して主人をしのぐほどになっていき、斯波氏の領内のアチコッチに、勝手に自分の城を築き睨みを利かすようになり、主人の斯波氏を始め、ほかの織田家の人々にとっても面白くもありません。

 

 

信秀は織田家の中にも敵が、尾張国のまわりにも敵がいて尾張を占領しようと機会を狙っている駿河の今川義元、美濃国の斎藤道三、甲斐国の武田信玄、相模国小田原には北条氏いていずれも強敵ばかりでした。

 

 

そんな環境のなか吉法師は、十三歳の時元服して、三郎信長と名前を改めました。

 

 

信秀は、信長那古野城に住まわせ、平手政秀、林通勝、青山与三右衛門、内藤勝介の四名の家来を付けました。

 

 

特に平手政秀が信長の教育に熱心でした。
父を見習えとか、行儀をよくせれとか、とにかく若様だから身嗜みをよくせれとか、口うるさく信長の教育に熱心でした。

 

 

平手政秀の部下が、信長の行動を全て政秀に報告して、ある時は農家の柿をとって食べたり服装も、若様の姿から髪をボーボーとのばし、それをワラでくくり、帯のかわりに、荒縄を腰に巻きまるで山奥の猟師のような格好で、武士からぬ服装で領民からは「うつけ」者と呼ばれていました。

 

 

父信秀の葬儀にも「うつけ」らしく振る舞って皆んなをあっと驚かせ、若干27歳で今川義元が京に上る途中に、永禄三年(1560年)5月19日(旧暦)の午後3時頃、雷鳴響くなか桶狭間に軍勢を引き連れ奇襲をかけて義元の首をとった。

 

 

こんな事が「うつけ」にできるでしょうか?
こうして周りに織田信長の存在を知らしめて行った。

 

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⚫️吉川広家
戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。
周防国岩国領初代藩主で毛利家の家臣。

 

 

永禄4年(1561年)11月1日吉川元晴と新庄局の三男として生まれ、元亀元年(1570年)父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣、幼少の頃は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯受けるさいの礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っています。

 

うつけ等低い評価を下された人物

⚫️北条高時
⚫️足利義政
⚫️今川氏真

 

うつけを装った人物

⚫️前田利常
⚫️宇喜多直家

 

 

-うつけ

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。