美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

バリキャリの側室_阿茶局

家康の側室・阿茶局は相当の武術者で秀忠の養母になる

投稿日:2023年6月6日 更新日:

家康には19人とも、それを超えるといわれる側室がいる、その中の一人に馬術・武術に優れ、これまでとは違うタイプのデキる女、頼りになるバリキャリの側室・阿茶局。
家康の正室は2人、築山殿と朝日殿で共に政略結婚だった。
阿茶の局は初婚ではなく未亡人となってからの人生は波瀾万丈、25歳のときに家康の目に留まって側室に。

阿茶の局というと、女性には珍しい才略がありて、慶長19年(1614年)大阪の御陣にも常高院と同じく城中に入り、淀殿に対面して御和睦のことでも活躍した。
阿茶局を表す言葉に「才略」「才覚」が登場する。
一言でいうと、彼女は「デキる女」幕府の中でも口を出すことができる「家康の右腕」といった感じ。
実力でのし上がった生粋のバリキャリである。
もちろん、周囲も認めざるを得ない実績だって勝ち取ってくる。その代表例が「大坂の陣」の交渉である。

正室2人・側室多数

最初の妻は今川家で人質生活していた家康とき、今川義元の家臣・関口親永の娘・瀬名姫と16歳で結婚した.
瀬名の母親は義元の妹(一説には叔母)でした。
今川義元と瀬名は伯父・姪の関係になります。
瀬名は色白の美人だったと伝えられて、由緒正しい家柄で何自由なく育った瀬名の前で側室は禁句でした。
もし桶狭間の戦いがなかったら、家康は側室は少なかっただろうと思います。
ところが運命は狂った。
それは桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのである。
そのとき、家康は今川の先鋒として大高城に食料を搬送する役目を仰せ使っていたときに、主君・今川義元の死、それからが大変で以後の説明は、URLを読んでください。

※ここに大高城にいた家康、そこに織田軍が攻めてくる、危うし家康大樹寺へ逃げる模様の記事があります。興味ある方は、上記の大高城をクリックして読んでください。

独立した家康は、今川の家臣・鵜殿長持と上ノ郷城で戦った。
その時、人質となっていた妻・瀬名姫と息子・娘を助けるため、相手方の人質に取った鵜殿の息子2人と交換した。
その戦いで、娘・西郡の方を側室にして督姫を産ませている。
瀬名としては、夫・家康が人質を取って助けてくれた負い目があったため目をつむったんだろう。これが最初の側室を持ったのである。
この時、家康も瀬名も22歳の時である。
こうして家康の側室が段々と増えていく。

スポンサーリンク

 

 

阿茶局は武勇とデキる女「バリキャリ」

幼少名は須和(阿茶局)は、武田家に仕えた飯田直政の娘として天文24年(1555年)に誕生する。

 

 

天正2年(1574年)神尾忠重に嫁ぐ、嫁いだ先が信玄の異母弟でありながら今川家で育った一条信龍に仕えた、神尾家は、武田家と今川家の両家に属しながら勢力を伸ばしていった。

 

 

阿茶の父も神尾忠重を通じて今川氏と繋がれために阿茶を神尾家に嫁がせた、二人の間には、神尾守世・神尾守繁を産んだが結婚後3年で亡くなってしまいます。

 

 

須和(阿茶局)は、子を抱え寡婦※1となり、未亡人となってからの須和の人生は波瀾万丈、馬術・武術に優れ25歳の時に家康の目に留まって側室に迎えられ阿茶局と称した

       ▲それぞれの側室

 

同時期に阿茶局の長男・神尾守世が、家康の3男・長丸(後の徳川秀忠)小姓※2に召し抱えられていることから、阿茶局が早くから家康の信頼を得ていたと思われます。

※1.寡婦(かふ)とは、婚姻関係にあったパートナーと死別したり離縁したりした後、再婚せずにいる方や、夫や妻の生死が不明の方で一定要件を満たす方のことを税法では「寡婦または寡夫」ともいいます。女性は寡婦、男性は寡夫、読み方は、いずれも「かふ」です。

※2.小姓とは、身分の高い人の側に仕え身辺の世話をした少年。

 

 

阿茶局はしばしば戦場にも従い、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、妊婦にもかかわらず戦場に同行して流産してしまった

     ▲阿茶局の戦姿(イメージ)

 

それで残念ながら、以後産めない身体になったが、家康の寵愛は変わらず続いたという。

 

 

駿府(静岡市)へ隠居する際も、側室の中で唯一連れて行ったのが阿茶局だったとか。

 

 

二人の間には実子ができなかった。

天正17年(1589年)に、家康の側室・西郷局が38歳の若さで死没したので、阿茶局秀忠・忠吉の養育を任されることのなった。

 

 

阿茶局は聡明だったので、家康から奥向きのことを任され、大奥の統制に尽力し、政治の重要な場面でも大きな力を発揮した。

 

 

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが勃発すると、小早川秀秋は西軍を裏切って家康の東軍に味方した。

 

 

一説によると両者の仲介を行ったのは、阿茶局であるといわれるています。

 

 

才知に優れ、慶長19年(1614年)大阪冬の陣のときは、徳川家豊臣家和睦を結ぶために、阿茶局は家康の意向を受け、淀殿の妹で京極高次の妻・常高院と共に、また、本多正純と大阪城に入り、和睦の使者を務めた。

 

 

その後、板倉重政とともに大阪城へ向かい、淀君・秀頼母子の誓書を取るなど、政治的役割も果たした。

 

 

元和2年(1616年)家康没後も、家康の命により髪を下ろさなかった。

 

 

元和6年(1620年)に2代将軍・徳川秀忠の五女・和子(かずこ・まさこ)後水尾天皇のもとに入内したときは、和子の母代わりとして上洛、また、元和9年(1623年)の皇女(後の明正天皇)出産の際にも上洛して世話をした。

 

 

後水尾天皇より従一位の位を与えられ、神尾一位局といわれるになった。

 

 

寛永9年(1632年)将軍・秀忠の死後剃髪し運光院と号した。

 

スポンサーリンク

 

 

家康失意の中で出会った阿茶

天正7年(1579年)家康は人生の中で一番辛い出来事が起こった、それは何かというと子・信康と妻・築山殿を一気に亡くすという悲劇。

その原因を作ったのは自分である。

 

 

自ら死を命じる事になった、誰を恨んでいいのか自問自答した。

当時、織田信長と同盟関係にあった家康は、窮地に立たされ、原因は、信長に宛てた、長男・信康の正室・徳姫(信長の娘)からの手紙、その内容は、家康の正室・筑山殿(瀬名姫)と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。

 

 

徳姫は父・信長に対して夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると書いて送った。

 

 

これを受けて、信長は即刻罪状認否をし信康の切腹を言い渡し、筑山殿も始末するように命じた。

 

 

織田信長の決定に、家臣の反発は大きかったが、当時の家康はまだまだ力不足で、選択肢などはなく、天正7年(1579年)8月に築山殿殺害、9月に幽閉されていた信康は切腹。

 

スポンサーリンク

 

 

阿茶局側室となる

そして、同年天正7年(1579年)のこと。

『神尾氏旧記』『当院古記』の資料によれば阿茶局が側室として召し出されたのがこの年でした。

 

 

人生の最悪時に家康は阿茶局とのことであった、どのような経緯で目に留まったのかは不明であるが、阿茶局にしてみれば夫に死に別れ女ながら、武芸に精を出していた頃で家康から側室の話で人生を救われてとも言える。

 

 

『徳川実記』には、阿茶局のことが、このように記されている。

「阿茶の局というと、女には珍しい才略ありて、その頃出頭し、おほかた御陣のも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大阪の御陣にも常高院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して御和睦の事ども、すべて思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし」

 

 

阿茶局を表す言葉に「才略」「才覚」がいわれる。

今でいうと阿茶局は、「デキる女」生粋のバリキャリである。

 

 

-バリキャリの側室_阿茶局

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。