美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

側室・西郷局

家康の側室・お愛の方は三男・秀忠、四男・忠吉を生むも38歳で死去

投稿日:2023年5月27日 更新日:

 NHK大河ドラマ「どうする家康」で、お愛の方(西郷局)を広瀬アリスさんが演じます。

 

 

どんな側室・西郷局を演じるのか?楽しみです

 

 

家康の跡取りは、正室・瀬名との子・信康は切腹させられ、次男・結城秀康は養子に出され、将軍に就いたのは3男・秀忠

 

 

母は於愛の方(西郷局)、天文21年(1552年)遠江国西郷村(現・掛川市上西郷)に誕生する。

 

 

父は、戸塚忠春、母は、五本松城主であった西郷正勝(源姓土岐氏流三河西郷氏)の娘で於愛の方は孫にあたる。

 

 

美しい姫に成長すると、母方の従兄妹・西郷義勝の後妻として嫁ぎ、一男一女を産み平穏な暮らしをしていたが、武田信玄の家臣・秋山虎繁との戦いで夫・西郷義勝が戦死をしてしまい、家康に魅せられ側室になるため叔父・西郷清員の養女となった。

      ▲西郷局(イメージ)

                 ▲側室の表です。

 

 

養父・西郷清員と家康の関係

西郷清員は戦国時代の武将で徳川家臣・酒井忠次の妹婿で子に員好(家員)・員重・守勝・養女に於愛の方(西郷局、家康の側室で秀忠の生母)がいた、西川城主(豊橋市石巻西川町、西郷地区)である。

 

 

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで敗れ、遠江及び三河の大半勢力下に置いていた駿河の今川氏が大敗し、今川氏に所属していた三河の松平氏が独立離反、今川氏の東三河地方の影響力が急速に低下した。

 

 

東三河に勢力を持っていた西郷氏の西郷正勝と元正の親子は設楽氏・菅沼氏等の他の東三河国人衆と相語らい、駿河の今川氏の傘下を離反し三河の松平氏に転属した。

 

 

このため東三河の諸勢力が人質として差し出しいた13人(西郷清員の従兄妹・正好を含む)は、氏真の命により吉田城下の龍拈寺で串刺し刑に処された。

 

 

また、永禄5年(1562年)に今川氏により西郷氏の居城である五本松城(後の西川城)や月ヶ谷城を攻められる。

 

 

城の陥落と共に父、嫁の兄を同時に失い西郷清員も捕らえられたが、隙をみて逃げ出し野田城まで落ち延び、野田城の親族である菅沼氏の援助を受けたとされる(一説には松平氏の岡崎に人質に出されており、五本松城陥落時には居なかったともいわれる)

 

 

家康から西郷氏の家督を継ぐよう命じられたが、幼年の甥・義勝(戦死した兄・元正の子)への家督相続を認めさせている。

 

 

元亀2年(1571年)武田軍の先遣・秋山虎繁(岩村城主で女城主・おつやの方の夫)の侵攻を受け、菅沼定盈らと必死の迎撃戦を展開したが、後妻に行った於愛の方の夫・総領・西郷義勝は戦死する。

 

 

西郷義勝には、幼いながらも男子がいて、これを西郷氏の跡目として認めてもらうつもりだったが、家康は清員の子・員好を跡目とした。

 

 

後に「家」の一字を拝領して家員を名乗った。

天正元年(1573年)には、居城を失った菅沼定盈を自領に匿った。
西郷清員の甥、戦死した西郷義勝の後妻・於愛の方が家康の側室に望まれたため、一旦自身の養女にし差し出している

 

 

その姪が、後の第二代将軍・徳川秀忠を天正7年(1579年)に3男・長丸・天正8年(1580年)に4男・福松丸(松平忠吉)の生母・西郷局となる。

 

 

三方ヶ原の戦い・長篠・設楽の戦い・小牧・長久手の戦いなど、戦が続いた家康の苦難の時代を支えた。

 

 

家康と共に浜松城から駿府城へ移った。

西郷の局は、極度の近眼だったこともあり、盲目の女性を保護するなど福祉活動にとり組んだり、慈愛に満ちた人柄ゆえ、家康から深く愛され、家臣や侍女からも慕われていたという。

 

 

苦労が多く若干38歳で死去した。
駿府の龍泉寺(現・宝台院)に葬られた。

 

 

 

西郷局が産んだ子供

3男・長丸(徳川秀忠)

天正7年4月7日(1579年)、徳川家康の三男として浜松城で生まれる。
乳母は大姥局によって養育される。

 

 

長丸(秀忠)が生まれてから5ヶ月後に長兄・信忠が切腹している、次兄・秀康は豊臣秀吉に養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身の秀忠が世子として処遇される。

 

 

関ヶ原の戦いの後、家康は誰を後継者にするかを家臣を集めて尋ねたところ、本多正信は結城秀康を推し、井伊直政と本多忠勝は秀忠の弟・松平忠吉を推した。

 

 

大久保忠隣のみが「乱世においては武勇が肝要ではありますが、天下を治めるには文徳も必要です。智勇と文徳を持ち謙譲※1な人柄の秀忠様しかおりませぬ」とただ一人秀忠を推した。

※1.謙譲(けんじょう)とは、へりくだること。謙遜(けんそん)。

※ここに上記の結城秀忠の記事があります。興味ある方はご覧になってください。いかに立派な人柄だったか分かります。

 

 

長丸(家康の3男)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として、秀吉の妹・朝日姫(旭姫)を家康に嫁がせる事になった時である。

 

 

『三河後風土記』『武徳編年集成』には、このとき、家康が「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」・「長丸を秀吉の人質としないこと」・「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたとも伝えられている。

 

 

長丸秀吉の養女・小姫(春昌院)と結婚した。
小姫織田信雄の娘のため、秀吉と信雄との仲違いして離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死している。

 

 

 

4男・福松丸(松平忠吉)

天正8年9月10日(1580年10月18日)遠江浜松城下に家康の4男として生まれる。

 

 

天正9年(1581年)に東条松平家・第3代当主の松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領し、祖父・広忠と父・家康の一字をそれぞれ拝領して名を松平忠康と改める。

 

 

駿河沼津城4万石に転封された。

家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵忍城主となり10万石を与えられ、元服して松平忠吉と改めた。

 

 

井伊直政の娘・政子と結婚、関ヶ原の戦いの本線では、舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなど功を挙げる。

 

 

戦後、11月18日に兄・秀忠と共に参内して従四位下・侍従に任じられる。
また論功行賞として尾張国及び美濃国に52万石を与えられ清洲城に入る。
享年28歳で死去。

 

 

-側室・西郷局

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。