美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

四天王

遠江井伊谷の寅松→万千代→直政が最年少で徳川の四天王の一人になる

投稿日:2023年6月23日 更新日:

  2017年から放送された女城主・直虎のドラマを記憶してますか?

井伊家今川氏の家臣のときの話し、もう一方武田軍と同時期に戦った、女城主の話は、東美濃国岩村城に信長の叔母のおつやの方が、信長の5男・御坊丸の後見になって女城主として武田の家臣・秋山虎繁軍と戦い敗れて岩村城は武田の配下になった。

共に女城主が活躍した。

※上記の岩村城に興味ある方はクリックしてください。中央道を下りてどうやって行くか詳しい道順が載ってます。

 

 

天文13年(1544年)、遠江井伊谷を治める井伊家の当主・井伊直盛は、一人娘の“とわ”と一族で幼馴染の亀之丞と許嫁にした。

 

 

しかし直後、亀之丞の父が謀反の罪で、今川家に誅殺され亀之丞も今川から逃れるため井伊谷から逃れる。

 

 

10年後、成人した亀之丞が井伊谷に戻り元服、名を井伊直親とし“とわ”ではなく、一門の娘・“ひの”を娶り嫡男・寅松が誕生、だが、今川から永禄8年(1565年)に、直親の幼馴染の家老の小野政次に城主の命が下るも、“とわ”(次郎法師)が寅松の後見として井伊家の城主となって井伊直虎と名乗るも、あくまで、この寅松こそが井伊家の跡取りになる。

 

 

のちに、寅松が井伊家を盛り立てて徳川四天王といわれるようになる。

 

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井伊万千代から井伊直政

永禄4年(1561年)生まれ、幼名は寅松。

父は今川氏の家臣で井伊直親、母は井伊家の分家・奥山朝利の娘・ひの。
井伊直虎は養母。

 

 

寅松が生まれた翌年に父・井伊直親は今川氏真から謀反の疑いを受け、掛川城主の朝比奈泰朝に襲撃を受け討ち死、氏真は寅松も殺害を命じます。

 

 

が、今川家の家臣の一人が氏真に命乞いをして、寅松の生母・“ひの”と共に家臣の屋敷で保護されていましたが、永禄7年(1564年)に戦で討死すると、井伊家の家老が今川家の命令だとして、寅松の命を奪おうとしたため、寅松は寺や親戚筋の家を転々としながら逃げました。

 

 

天正2年(1574年)、女城主・直虎と生母・“ひの”は、亀之丞こと井伊直親が頼ろうとした家康寅松を仕えさせようと考えます。
その機会が訪れました。

 

 

家康が、既に配下としていた遠江国浜松城から鷹狩に出かけたとき、15歳となった直政は、その場に目通りを願い出て膝まずき、「井伊直親の嫡男です。家康様に仕えたい」と名乗り出たのです。

 

 

家康は「そちは私のために命を落とした者の倅であるか?、それに報いなければならんの」と言って、その場で寅松を召し抱えることとし300石を与えます。

 

 

寅松万千代と名を改めて徳川家康に仕えた。

万千代はかなりの美少年だったみたいで、小姓として側に置かれます。

家康も男色に走ったのか?と記載された文章もあります。

 

 

 

万千代の活躍

戦国時代では、一般には元服は13歳から15歳遅くとも18歳までに行われるのが普通であったのに、万千代は何故か遅かった。

 

 

家康が万千代を手元に置きたかったからかではないか?

天正4年(1576年)万千代15歳の時に遠江芝原で武田勝頼軍相手に初陣を飾りました。

 

 

この時、万千代は殿・家康の暗殺に仕向けられた刺客一名、本陣に潜入した忍び一名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領する。

 

 

天正7年(1579年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための、高天神城の戦いで、本多忠勝・榊原康政らと共に先鋒を務め、兵領攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功、万千代の活躍により7年越に高天神城を奪還したのです。

※上記の高天神城の戦いをクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

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万千代改め直政になる

天正10年(1582年)22歳で元服して井伊直政と名乗る。

同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。

 

 

天正壬午の乱※1で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成するここになり、旗本先手役の侍大将になり、山県昌景の部隊を継承し軍装を朱色に統一します。

※1.天正壬午の乱(てんしょうじんごの乱)とは、相模国の北条氏と、越後国の上杉氏が相手となる三つ巴の戦い。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献した。

     ▲赤備え部隊(イメージ)

 

 

これにより徳川重臣の一翼を担うことになる。

その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、朱色の軍装(または、小幡赤武者隊)を継承した、井伊の赤備えという軍装が出来た。

 

 

 

直政結婚し徳川四天王の一人になる

天正11年(1583年)1月11日に家康の養女で松平泰親の娘・花と結婚する。

 

 

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤揃えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。

※上記の小牧・長久手の戦いをクリックして頂くと秀吉と信長の次男・信雄の戦いに家康が信雄の味方について戦った記事が掲載してあります。興味ある方は読んでください。

 

 

直政は小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったが、赤揃えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らせていく勇猛果敢な姿は、「井伊の赤鬼」と称され諸大名から恐れられた。

 

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井伊の赤鬼 先頭で突っ込む

井伊直政は敵陣にいつも先頭を切って突っ込むのが常であったようで、関ヶ原の戦い・小田原攻めも突進で戦っている。

 

 

先ず、最大の戦い「関ヶ原の戦い」が始まる前に、西軍の武将に調略を仕掛けている。

 

 

懇意にしている黒田長政を通じて小早川秀秋の裏切りを約束させ、また、吉川広家には軍を動かさないよう約束させました。

 

 

その他、多数の西軍武将に裏切りを取り付けています。

慶長5年(1600年)の当日、先鋒は福島正則と決まっていたのに、井伊直政が抜け駆けして火蓋を切ったと言われています。

 

 

そんなことが許されるのか?

疑問に思う方がいると思いますが、直政は「物見のため」と言って主君・家康の4男・松平忠吉(二代将軍・秀忠の弟で、直政の娘婿)の隊列を連れて前に出て、宇喜多秀家隊に発砲した。

 

 

この抜け駆けは家康の指示であったかも、名誉ある先鋒を直属の家臣に取らせることに、福島正則は、もともと秀吉の小飼の武将だった。

ルールを違反した直政に家康は処罰をしてない。

 

 

そして、小早川秀秋の裏切りによって関ヶ原の戦いは東軍に決した頃、「島津の退け口」が始まります。

 

 

島津義弘は東軍の真っ只中を正面突破すべく向かってきたので、これを井伊直政と松平忠吉が迎へ撃ちます。

 

 

このときも井伊直政は家臣が追いつけないほど島津軍を追撃しましたが、島津軍の銃撃を受けて落馬してしまいます。

 

 

島津義弘をあと一歩のところまで追い詰めましたが、島津義弘の撤退を許すことになってしまいました。

 

 

しかし、この関ヶ原の戦いの功績によって井伊直政は石田三成の領地であった近江国佐和山城18万石のちの彦根藩を与えられ、初代・佐和山藩主となります。

 

 

佐和山は西国を監視し、天皇の御所を守護する重要な土地であるため、徳川家康の井伊直政に対する信頼の高さがうかがえます。

 

 

井伊直政は傷の癒えぬまま、戦後処理にあたります。

毛利家の取り潰しを回避し、長宗我部盛親の取次ぎ、手傷を負わされた島津義弘との交渉も行なっていました。

 

 

また、真田昌幸・真田信繁親子の助命嘆願を本多忠勝とともに行なっています。

 

 

この助命嘆願は真田昌幸の嫡子・真田信之が徳川家により忠義を尽くすようになることを見越してのことでした。

 

そして、関ヶ原の戦いの2年後、慶長7年(1602年)に井伊直政は関ヶ原の戦いで受けた傷が原因で死去。享年42歳でした。

井伊直政の死後、彦根城が築城された。

 

 

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