美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

四天王

家康が天下取れたのは重鎮な家臣・徳川四天王たちの働きがあった

投稿日:2023年1月27日 更新日:

 戦国最後勝利者となった徳川家康ですが、ここに至るまでの苦難の道を乗り越えて天下人になった、そんな家康を一枚岩になって支えてきたのが徳川家臣団です。

 

 

とりわけ徳川四天王と言われる4人の家臣の働きがあったから天下が取れたんだと思っています。

 

 

その家臣たちは、家康に忠義深く仕官してきた、男たちの功臣として後世から称された人物、その武将の名は「酒井忠次」「榊原康政」「本多忠勝」「井伊直政」の四名です。

 

 

一体誰が「徳川四天王」と名付けたのか、日本人は昔から名物や優れている名物や優れているものを数にして、◯◯四天皇・◯◯渓谷・◯◯三大山城・天下三名槍・天下五剣・日本三景等とか、してしていましたたたえてきました。

 

 

歴史上の人物も同じで、例えば、武田四名臣・真田十勇士などです。
要するに、徳川家のために働き江戸幕府の基盤づくりに大きな貢献をしたり、徳川家躍進の原動力となり後世の人々から「すごい人たちだ」と称賛された人物たちです。

 

 

じゃ誰が名付けたのか、はっきりとかはわかりませんが、徳川家康が大阪城へきたとき、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3名が同行してきた、堂々とした態度を見た豊臣恩顧の諸将は「あれが徳川家を押し上げた側近たちか」と口々に関心したとか、そこから「徳川三傑」という呼び名が広まったようです。

 

 

そしてその後、譜代筆頭を外すわけにはいかないことで、酒井忠次を加え「四天王」になったといいます。

 

 

では何故「四傑」ではなく「四天王」だったのでしょうか?
それは当時の仏教思想と関係があります。

 

 

仏教では世界の中心には「須弥山」という途方もない大きさの山があるとされていました、その周りには東に持国天、西に広目天、南に増長天、北に毘沙門天(多聞天)がいて、仏・法・僧を守っていると考え等れていいたのです。

 

 

この須弥山と四天王を中心とする世界観は古来日本の大きな影響を与えて来た、厩戸皇子(聖徳太子)が建立した四天王寺は、その名の通り四天王の仏力・法力を称えたものだったかといわれています。

 

 

そうして人々はいつしか、ある分野で傑出した4人の人物を四天王と表現するようになったのです。

 

 

 

最強の四天王たち

酒井忠次

四天王の筆頭として存在感を表す酒井忠次です。

酒井忠次は古から松平家(後の徳川家)と深く縁があり家康(幼名:竹千代)が生まれる前から家老格だったようです。

        ▲酒井忠次

 

 

忠次家康より15歳年上、幼い時に相次いで父と兄を亡くし、10際で家督を継いだといいます。

 

 

結婚は遅く30歳、娶ったのは家康の叔母さんです。

さて家康が幼かった頃のこと、家康の祖父・松平清康が不慮の死を遂げると、どんどん松平は衰えていきました。

 

 

隣国尾張の織田家の織田信秀が執拗に松平家を攻撃してきて、跡をとった松平広忠は今川氏の支援を受けなければ、とても領地を守ることができませんでした。

 

 

それで、竹千代(家康)を、今川氏に人質に出してまで支援を取り付けようと躍起になりました。

 

 

二度にわた小豆坂の戦いで勝利を収めた広忠でしたが、これも原因不明の死を遂げます。

 

 

幼い竹千代は、父の死に目にも立ち会えず、人質生活からもどされることなく、三河・岡崎城は今川の岩川氏の属国同然となります。

 

 

それでも酒井忠次以下の家臣は、竹千代が戻る日を夢みながら、今川の尖兵として働き、とりわけ忠次の武勇は勇ましく、いつも先陣として出陣して働いていました。

 

 

やがて竹千代は元服して松平元信→元康と名乗り、故郷へ戻る日がやってきます。

 

 

それは、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が戦死、今川氏から独立、岡崎城へ戻ってきたのです。

※上記の桶狭間の戦いをクリックして頂くと、元康が大高城に居た時の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

その後、元康は松平家康と改名して三河統一戦にに乗り出しいき、酒井忠次も股肱の臣として働き譜代筆頭として東三河を束ねる旗頭となっていきます。

 

 

三河を統一し今川をh滅ぼして遠江を手に入れた家康は武田氏と敵対関係になり、元亀3年(1573年)三方ヶ原の戦いで大敗北を喫し浜松城まで敗走を余儀なくされます。

 

 

この様子を見た酒井忠次は、櫓の上で盛大に太鼓を叩き意気消沈する味方軍を励まし他といいます。

 

 

忠次の名を大いに天下に知らしめたのは、天正3年(1575年)長篠の戦いでした、信長を交えた軍議のとき、忠次はこちらから敵の砦に夜襲を仕掛けるべきと進言します。

 

 

だけど信長は、「いちいち口を挟むな」と叱責、ところが信長は、軍議が終わると忠次を読んで「なかなかの作戦だ、ぜひやってみるが良い」と背中を押したのです。

        ▲織田信長

 

 

喜び勇んだ忠次は、奇襲部隊を率いて長篠城を囲んでした、武田軍の砦に対して一斎に夜襲を敢行して砦は残らず陥落させ、結果的に武田本陣の退路を遮断させたのです。

 

 

これで進退窮まった武田勝頼は決戦を余儀なくされ大敗してしまった。

長篠の戦い後の合戦でも智謀を駆使して働く忠次でしたが、秀吉との戦いの小牧の役では、森長可を破ったり、本陣があった小牧山を守り切るなど目をみはる活躍をしたのです。

 

 

家康はその功績を称え「国家の安危は、この一挙にある。すべて忠次の計略によるものだ。」と褒めちぎったそうです。

 

 

その後、忠次は隠居して息子・家次に家督を譲りますが、徳川氏が関東へ移封されると、他の四天王が軒並み10万石クラスの大名へ出世したにもかかわらず、酒井氏だけは3万石程度に留められました。

 

 

通説では家康が、忠次を嫌ったためだとされていますが、実際は天下人・豊臣秀吉が割り振りを決めたものだったようです。

 

 

やがて孫・酒井忠勝の代になって出羽国14万石を与えられました。

 

 

 

榊原康政

榊原康政家康から一字を貰った雄一の四天王です。

榊原氏は伊勢出身、松平家家臣の中では目立たない存在でした。

        ▲榊原康政

 

 

たまたま、家康が桶狭間から岡崎の大樹寺に来た時、居合わせた人物でした。

 

 

家康の問いに康政は、まだ13歳だったと思えない受け答えをしたので、感心して小姓として家臣にしました。

        ▲大樹寺

 

家臣となった康政は、永禄6年(1563年)から始まった三河一向一揆で初陣を迎えます。

※上記の三河一向一揆をクリックして頂くと記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

この戦いは徳川家臣団を二分する内乱となってしまいましたが、康政は優れた武功を挙げ賞賛され、家康の一字である「康」を与えられたのです。

 

 

必ずや徳川の将来を担ってくれる人物だろうと信頼された証でしょう。

やがて康政22歳の時、その名を轟かせる活躍振りを見せます。

 

 

元亀元年(1570年)に起こった姉川の戦いで、優勢な朝倉勢に対して数で衰える徳川勢はジリジリ押され、そこで戦況を打開すべく動いて行ったのが榊原康政でした。

     ▲姉川の戦いの布陣

 

 

一隊を率いて敵の側面へ回り込むと凄まじい突撃を繰り出し、これに驚いた朝倉軍の陣は崩れした。

 

 

ところを身澄まして徳川勢が押し返し、ついに朝倉軍は敗走に転じ、勝利の立役者としての康政の名はうなぎ登りとなりました。

 

 

続く三方ヶ原の戦いでは敗軍の中で孤軍奮闘、浜松城で味方を収容しながら襲い来る武田軍を撃退しています。

 

 

また天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、押し寄せる武田軍の前に決死の覚悟で立ち塞がり、見事に本陣を守り切りました。

 

 

これらの活躍があって「徳川にこの人あり」と天下に康政の名が轟ました。

 

 

家康と秀吉の直接対決となった小牧の役では康政は大胆な振る舞いをして、わざと秀吉に伝わるように高札を立てて挑発をした。

 

 

なんだというと「秀吉は卑しい身分ながら信長様から大きな恩を受けたはす、それなのに恩ある織田家に弓引くとは、全くもって不義悪逆の至り」だと挑発したのです。

 

 

これを知った秀吉は激怒し、康政に10万石の懸賞金をかけたとか、のちに家康が秀吉に君従すると康政を間近に見た秀吉は、「そなたこそ忠義の者である」と褒めたたえたという。

 

 

天正18年(1590年)徳川氏が関東へ転封させられると、康政は館林10万石が与えられた。

 

 

豊臣政権によって所領が割り振られたとする話が事実ならば、秀吉はよほど榊原康政の事を買っていたと推察します。

 

 

関ヶ原の戦いが終わると康政は、自分の活躍できる時代は終わったと隠居して、慶長11年(1606年)家康より早く波乱お生涯を閉じました。

 

 

康政の子孫は姫路藩主から越後高田藩主へと移封して明治維新を迎えています。

 

 

本多忠勝

四天王随一の強さを誇った豪傑と言われている忠勝、家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭※2本多平八郎忠勝です。

        ▲本多忠勝

※2.唐の頭とは、ヤクの毛で作られた兜のこと・

 

 

徳川四天王だけではなく、全国でも有数の豪傑だった、数々の武功を挙げながら生涯57度の合戦で傷一つ負わなかった武将は忠勝だけです。

 

 

家康からの信頼も厚く戦場では、常に先陣を切っていて、本多氏の家紋は「本多葵」といって葵の葉が立った形をしています。

▲本多葵の家紋

 

 

これは京都の賀茂神社の紋章と同じとさレ、このことから本多氏は松平氏と同じ賀茂神社の氏子だったと考えられています。

 

 

徳川家と本多家は古くから繋がっていたかも、本多忠勝は天文17年(1548年)生まれ、家康は天文11年生まれ6歳前後の差でした、忠勝は12歳で初陣を迎えたのが桶狭間の戦いで、当時は味方が敗走したこともあって、さしたる活躍もできませんでした。

 

 

その後何度も合戦に参加しますが、さしたる活躍もできず、まして敵の首をとって来ることができませんでした。

 

 

あるとき叔父の忠真が見かねて敵将を組み敷き「いいあらこの首を取れ」といいますが、気丈な忠勝は「人の手を借りて首を挙げるなど絶対に御免蒙ります」とキッパリ断りました。

 

 

そして、意を決して一人で敵陣へ突っ込み見事に首を挙げてみせたのです。

 

 

それからはとんとん拍子で敵の首を挙げ、数多くの戦いを経験した忠勝はいつしか家康の右腕と呼ばれる程に成長していきます。

 

 

若い忠勝を一躍有名にしたのが、なんといっても武田軍を相手にした一言坂の戦いで、元亀3年(1572年)武田信玄が遠江へ進軍し浜松城目指して襲いかかってきた、一方家康はひとまず3千を率いて迎撃に向かいまが、武田の先陣と合戦に及びますが、噂通り武田軍は精強でした。

 

 

あっという間に家康軍は劣勢となり退却を余儀なくなり決断します。

しかし敵は追撃に移り進路さえ阻まれそうになり、このままでは壊滅は必至と誰もが死を覚悟したときに、ここで殿(しんがり)を申し出たのが忠勝でした。

 

 

手勢を率いて一言坂の途中で忠勝は立ち塞がり、勢い混んで向かってくる武田勢をを迎え撃ったのです。

 

 

忠勝は馬場信春の軍勢と互角に戦い、家康が退却するまでの時間を稼いだと言われます。

 

 

鬼気迫る忠勝の肉薄ぶりに、さすがの武田軍も押され気味、やがて家康の本陣が無事に城まで下がった事を知ると、忠勝もまた馬首を返して撤退に移りました。

 

 

ところが進路上には武田勢が進路を遮断しており本多勢は進退窮まり、すると忠勝は先頭を切って馬で駆け無理やり突破しようと試みました。

 

 

まるで鬼のような忠勝の気迫に押され武田の将は思わず道を開けてしまったのです。

 

 

忠勝は敵将とすれ違いざま声をかけ、「武士の情けを心得ておるな、貴殿の名を伺いたい」すると敵将は、「小杉左近と申す、わしの気が変わらぬうちにいかれよ」忠勝は礼を述べながら殿の待ってる城へ走り去ったといいます。

 

 

「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八あり。

また、小牧の役では、こんなエピソードも、長久手の戦いでの惨敗を受けた秀吉は、悠々と引き揚げてきた徳川勢に攻撃を仕掛けようとした、ところが家康の危急を聞いた忠勝が駆けつけ、たった500の兵で行く手を塞いだ。

 

 

その時、羽柴軍は2万の大軍ですから無茶振りもいいところで、羽柴軍はこの野郎舐めんなよと言って盛んに鉄砲を撃ちかけた。

 

 

 

ところが忠勝は余裕たっぷりで、わざわざ川へ乗り入れ馬に水を飲ませたそうです。

 

 

羽柴方の諸将はいきり立ちますが、この様子を見た秀吉は大いに感じ入り、「あれは家康を逃すための芝居じゃ、皆もあの堂々とした態度を見習え」と忠勝の勇気を褒め称えた。

 

 

ちなみに忠勝の得意とした武器は「蜻蛉切」という名槍でした。

忠勝が晩年の頃のこと、さすがに力がなくなってくると忠勝は、槍の柄を少しばかり短くすると、皆が見ている前で振り回してみせ、その切れ味に周囲の者達は驚いたといいます。

 

 

年老いても、武器を巧みに使いこなすあたり、生粋の武人だったのでしょう。

 

 

忠勝は晩年に桑名10万石を与えられ、その子孫は譜代大名として江戸時代を生き抜きました。

 

 

 

井伊直政

武田から赤備を継承した井伊の赤鬼と言われた男とは井伊直政です。

四天王の中でももっとも遅くに家康に仕えたのが井伊直政です。

       ▲井伊直政

 

 

井伊氏は元々今川氏に仕えし、当時の当主・直盛は桶狭間の戦いで命を落とし、次いで父・直親は謀反の罪を着せられ殺されます。

 

 

この時、寅松(後の直政)は、まだ、2歳去ったことから直盛の娘・直虎(いわゆる女城主)が一時的な当主となります。

 

 

幼い寅松は彼女(直虎)の薫陶を受け健やかに成長し、やがて徳川氏に臣従することで命脈を保ったのです。

 

 

15歳になった寅松は、家康の小姓として召し出され間もなく万千代と名を改め、そして井伊の名称と土地の相続を認められたことで、晴れて井伊氏の当主となりました。

 

 

因みに万千代は、元服前から初陣を果たしており、武田を相手にした芝原の戦いなどで活躍し、その功績を認められて加増に預かっています。

 

 

そして22歳で正式に元服して、井伊直政と名乗りました。
ところが、その直後に本能寺の変が起こったことで、堺見物に出かけていた家康一行は、苦難の伊賀越えに直面したのです。

※上記の伊賀越えをクリックして頂くと関連記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

その道中でのこと、空腹に空腹を抱えた一行は神社に供えてあった赤飯を拝借しました。

 

 

ところが家康や家臣達が食べているのに直政だけは手を付けませんでした、その様子を見かねた家康は、「直政、遠慮せずに食べるが良い」と言って進めますが、首を横に降って食べません。

 

 

そこで家康が訳を聞くと、「もし敵が襲ってくれば、もちろん討死する覚悟はでkております」「しかし、腹から赤飯が出てくれば、こやつは神社の供え物に手を出したと笑われるはず」「そんな恥をかくのはまっぴら御免でござます」と答えた。

 

 

直政の言葉に感心した家康は、のちに愛蔵の陣羽織を与えたそうです。
家康が領国へ戻ったのち、北条や上杉を相手に合戦が始まりまった「天正壬生の乱」です。

 

 

徳川勢は戦いを優位に進め、甲斐と信濃の切り取りに成功します。

そこで直政に特別な役割が与えられ、武田旧臣を懐柔して家臣とすること、直政は一抹の不安を抱える彼らに安堵状を出したり、家康の印判がある文章を発給したり、あらゆる手を尽くして説得に努めます。

 

 

その甲斐あってか800人に及ぶ武田旧臣が徳川の配下となりました。
彼らのほとんどは直政に与えられましたが、これが武田の伝統を受け継ぐ赤備え※2

※2.赤備(あかぞなえ)とは、戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍国編成の一種。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

 

 

直政は真っ赤な軍装を身に纏ったことから「井伊の赤鬼」と呼ばれたそうです。

 

 

因みに四天王の一角である、本多忠勝が傷一つ「追わなかったのに対し」直政の体には生傷が絶えなかったそうです。

これには理由がありました。

 

 

井伊の指摘下にあるのは、いずれも歴戦豊富な強者たち、このような者らを率いるなら井伊直政自ら勇気を示さなければなりませんでしたから、戦場での直政は常に部隊の戦闘煮立ち背中で勇姿をみせたのです。

 

 

また、直政の統率の苛烈ぶりは凄まじかったようで、直政についていけず出奔する者が後をたたなかったとか、さて、直政は、その後も長久手の戦いで森長可を討ち取るなど軍功を重ねますが、関ヶ原の戦いが最後の合戦となりました。

 

 

勇猛で鳴らす島津勢を追撃するあまり、鉄砲によって狙撃されたが、致命傷にはならなかった。

 

 

その後も関ヶ原の戦後処理や彦根城の築城などに没頭する日々を送っています。

 

 

やがて全ての仕事にケリがついた時、ようやく直政は死の床についたのでした、やはり関ヶ原で受けた銃創が原因だったといわれています。

 

 

直政は四天王の中でも、もっとも出世したとされています。

いわゆる新参家臣でありながら家康から信頼を勝ち取り、たゆまぬ努力で成功者となったのが直政といえるでしょう。

 

 

直政はこんな言葉を残しています。

「捨てて苦しかる、まじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし」その意味は。捕まえた敵を、解放しても敵対しないとみせるならば、それは敵とは言わないとなるでしょう。

 

 

しかし、これは、もし敵と思ったならば、敵がいると誰かに知らせるより前に討ち取るべきだ。という意味にもなります。

 

 

「誰よりも先に動くことが、最も大事である」いかにも直政らしい言葉ではないでしょうか。

 

 

直政の子孫は幕末まで彦根から動かず幕府の重鎮であり続けました。

 

 

-四天王

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