藤原宣孝は、親戚筋の官僚で父の同僚だけど幾度となく紫式部に求婚の手紙を書いていたらしいが、その度に拒否の歌を返している。
宣孝は紫式部より20歳ほども上で、何人もの女性と結婚していて、紫式部と同年代の息子もいた。
紫式部が父・藤原為時の越前下向に同行したのは、父親ほどの年齢差のあった宣孝からの求婚があったことも理由の一つといわれる。
紫式部の幼少時代の名前も生没年も不明です(大河ドラマでは“まひろ”って名乗っていますが、どうも、香子っていう名だと言われています)だが謎めいている女性といえます。
家系としては、藤原道長と同じ藤原北家であるにも関わらず地位は落ちぶれていた。
分かっていることは、父が式部丞だった藤原為時で、母は中納言・藤原為信の娘(名は未)、兄か弟かわからずで名を藤原惟規(のぶのり)がいた、また、姉がいたが(名は未)です。
さらに、山城守・藤原宣孝※1という貴族と結婚、賢子※2という娘を産んでいます。
※1.藤原宣孝とは、どんな人物か?
宣孝はかつて父・為時と同じ蔵人※3を務め、為時の屋敷にも訪ねていたことが伺えます。紫式部との夫婦仲は良好であったが、有能な能吏※4だった宣孝は山城守なども拝命し、その後も九州へ勅使下向、宮中で音楽奉仕などを拝命しており、多忙を極めていたという。
※3.蔵人(くらうど)とは、日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。
※2.賢子とは、紫式部と藤原宣孝の子で藤原賢子といい、大弐三位(だいにさんみ)と呼ばれた歌人、長保元年(999年)頃、誕生とされ父・藤原宣孝とは幼い頃に死別しています。
長和6年(1017年)頃から母・紫式部げ仕えてた中宮・彰子が皇太后・彰子の元に出仕している。
後に、関白・藤原道兼の次男・藤原兼隆と結婚、万寿2年(1025年)皇太后・彰子の孫・親任親王親王(後の後冷泉天皇)が誕生すると乳母に任ぜられる。
その後、高階成章と再婚し、天喜二年(1054年)には、従三位に叙せられ夫・成章も太宰大弐に就任している。
※3.能吏(のうり)とは、事務処理に優れた才能を示す役人。
彼女が記した『紫式部日記』なる書によると、雇い主の藤原道長や、彼女が仕えていた道長の娘・彰子を取り巻く女房たちとの関係性を通じて推測する以外にない。
紫式部は親ほど違う藤原信孝と結婚
紫式部の夫・藤原宣孝の生誕は不明だが紫式部と結婚して、疫病のため長保3年(1001年)4月25日に死去。
(『紫式部集』に、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められています)
紫式部とは親子ほど年齢差があり、既に複数の妻がいて長男は紫式部とほぼ同年代で、花山天皇のもとで蔵人を務め、紫式部の父・藤原為時と同僚だった時期もあった。
▲紫式部と夫・藤原宣孝の関係図
藤原宣孝は世渡り上手で出世も順風満風で、今で言うプレーボーイ的な面が垣間みえますが、紫式部との結婚生活は3年で終わってしまいます。
結婚のなりそめ
和歌で愛を深めて結婚をした紫式部は、越前※5に下る前後、藤原宣孝という貴族から求婚されていました。
※5.越前に同行した紫式部。長徳2年(996年)越前守になった父の赴任に同行している。
この視野を広げた初の長旅を含め、半生での様々な経験や出来事は、『源氏物語』に登場するエピソードの源泉となるなど、創作に生かされたと思う。
夫となる藤原宣孝と和歌を越前まで送られ返事を送ることで愛を育んで行った。
愛を育んだ和歌の一例 ▲紫式部と藤原宣孝が熱い和歌のやり取り
紫式部は宣孝からの求愛の手紙に対し、つれない文面ながらも趣向を凝らした返事を送っている。
宣孝は紫式部の又従兄妹にあたり、全く知らない間柄でもなかった。
ただ、宣孝は紫式部より20歳近く年上で、すでに数人の妻と子を持っていました。
しかし宣孝は越前まで情熱的な和歌をよこし、紫式部もウィットに富んだ和歌を返すなかで宣孝に惹かれっていったらしい。
長徳4年(998年)紫式部が父・藤原為時を残して、一足先に京都の戻ると、二人の仲は急速に深まったようで、宣孝が隔てを置かない夫婦になりましょうと紫式部に迫り、その年の内に結婚。
当時の習慣に従って宣孝が紫式部の元に通って来るようになった。
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派手な夫婦喧嘩エピソード
『紫式部集』には、新婚早々夫婦喧嘩をした逸話をみることができます。
宣孝が紫式部からの手紙を友人らに見せびらかしていた事を知った紫式部が怒り、手紙を全部返せと迫ったのだ。
このときは、和歌のやり取りの末、宣孝が「お前には負けた」と言って仲直りしたおり、紫式部の性格の一端を伺うことができます。
他の妻の元へ通う夫に紫式部が寂しさを感じながらも、知性と個性を持つ似た者同士、夫婦仲は悪くなかったようだ。
紫式部と清少納言の関係
その上、紫式部と清少納言は同時代の作家ですが、宮廷にいた時期がかぶっていないので顔見知りではなかったと言われていますが、紫式部は清少納言のことを、日記の中でさんざんディス※6っています。
※6.ディスっとは、他人を侮辱する行為や言葉をさす言葉である。主に口論や文章で行われ、相手の欠点や失敗を指摘し、その人格や能力を否定する。
紫式部が会ったこともない清少納言を大嫌いになったことは、『枕草子』紫式部の夫・藤原宣孝の悪口を書いたからです。
しかも、宣孝が亡くなった直後という最悪のタイミングで、亡き夫を馬鹿にされて激怒した紫式部は、清少納言の雇い主定子が亡くなって清少納言のことを、さらにムチ打つ事で憂さ晴らしをしたと思います。
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創作意欲がメラメラ湧
長徳二年(996年)、国守となった父・為時とともに越前の福井県に下ったが、父を残し途中で帰京後、山城守・藤原宣孝(良門の子高藤の末裔)と結婚し、長保元年(999年)に娘・賢子をもうけたが、その2年後に夫は亡くなった。
結婚生活はわずか3年ほどで終わってしまい、以後数年間、式部は引きこもりがちで、ぼんやりと物思いにふけり、花の色や鳥の声、霜や雪によってかろうじて四季の移り変わりを知るような状態が続いたという。
沈んだ生活を送る中で、式部は物語執筆への思いを強くし『源氏物語』を書き始めたといわれる。
この『源氏物語』が高く評価されたことが縁となり、寛弘2年(1005年)頃、一条天皇の中宮・彰子に仕える事になる。
内気な式部が出仕を決意した動機は明らかではないが、父・為時の出世を願う気持ち、自身の学才を発揮できる場であること、『源氏物語』をよりリアルに描き込むための見聞の場として宮中を見たいという思いがあったともいわれる。
式部が出仕した頃、『源氏物語』は宮中で広く読まれており、一条天皇は「作者は『日本書紀』を読んでいるに違いない」と評したという(そのために「日本紀の御局」という不名誉なあだ名をつけられてしまったが)。
また、藤原公任※7は祝宴の折、紫式部に「このあたりに若紫(紫の上の幼少時の呼び名)はいますか?」と冗談交じりに呼びかけたという。
※7.藤原公任(ふじわらきんとう)とは、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。中古三十六歌仙の一人。百人一首では大納言公任。『和漢朗詠集』の選者としても知られる人物です。
『源氏物語』には日本の史書のみならず、『白氏文集』『文選』『史記』『論語』など漢学の知識がちりばめられており、当代随一の文化人の審美眼にもかなうものだった。
女房として公卿と交流することも多く、『小右記』の筆者藤原実資が彰子の御殿に出入りする際、取り次ぎ役となったのが紫式部であった。
ちなみに、同書の長和2年(1013年)5月25日に「越後守為時の娘(紫式部のこと)」と出てくるのが、紫式部が貴族の日記に登場する唯一確実な記録とされる。
また紫式部は、彰子の父・道長とも和歌をやりとりする仲で、ある夜、道長が式部の部屋を訪れて戸をたたいたという逸話もあるが、二人が男女の関係にあたが真相は不明だ。