日本の古典中で有名なのは、紫式部が書いた『源氏物語』です。
その『源氏物語』は3部構成になっており、中宮・彰子への出仕前に執筆が開始されていきます。
以降、段階を経て第二部、第三部と続いていきます。
◇第一部(三十三帖)桐壺・帚木・空蝉・夕顔(以上の3名は帚木三帖)・若紫・末摘花・紅葉賀・花宴・葵・賢木・花散里・須磨・明石・澪標・蓬生・関屋・絵合・松風・薄雲・朝顔・少女・玉鬘・初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分・行幸・藤袴・真木柱(以上の10名は玉鬘十帖)。
⚫️帝の子と誕生した、光源氏が多くの恋を経験しながら、宮廷において栄華を極めていく。その間に、流離するなどなどの波乱がある内容。
◇第二部(八帖)若菜上・若菜下・柏木・横笛・鈴虫・夕霧・御法・雲隠。
⚫️栄華を極めた 光源氏が、絶望的な苦悩に生きる後半生。最愛の妻を亡くすと同時に、光源氏の人生も幕を閉じる内容となる。
◇第三部(十三帖)匂兵部卿・紅梅・竹河・橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋(以上の10名は宇治十帖)。
⚫️光源氏が没したあとの時代が舞台。薫と宇治の姫君たちとの苦しい恋が描かれ、第一部と第二部の続編というべき内容になっています。
『源氏物語』とは別に『紫式部日記』というものがありますが、その内容は愚痴や悪口などが多く、雅な平安時代のイメージとはかけ離れたものになています。
この記事では、紫式部が日記内でライバルだった清少納言をどのように評価していたのか、寛弘8年(1008年)秋から寛弘7年(1010年)正月までの約一年半の間、宮中での様子を中心に書いた日記です。
それを『紫式部日記』といいます。
最初は、雇い主の藤原道長の命で彰子の皇子誕生や祝賀の様子、貴族や宮中の人々の人間関係などを活き活きと描いているのが特徴です。
構成は全二巻で、一巻は記録的内容、二巻は手紙と記録的のもので、紫式部の宮仕えの様子を、寛弘7年(1010年)に、過去を振り返った形で執筆された。
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『紫式部日記』は中宮・彰子の初参の記録
寛弘5年(1008年)入内から9年を経た彰子の待望の出産を控える土御門殿(藤原道長邸)の記録から始まる。
これは紫式部の文学的要素を見込んだ道長から、彰子の出産記録係を命じられたと言われています。
出産に向け加徳祈願
日記は出産を待つ彰子や父・道長、女官たちの安産を願う絶え間ない読経と「五壇の御修法」の加持祈祷の声が響くなか、男子を生む使命を背負わされた彰子は、けなげにも辛さをみせず女房たちの会話に耳を傾けていた。
一方の道長は庭を歩きながら、渡殿にいる紫式部の存在に気付くと、「女郎花」の枝を差し出してきた。
紫式部がとっさに「私は女郎花を見ると美しくない我が身が思いやられる」という歌を返したという。
また、同僚の宰相の君のうたたね姿を、物語のヒロインのようだと見とられたり、重陽の節句※1には、道長の妻の倫子から、「これで若返りなさい」という歌と共に若返りの効果があるという菊の露を含ませた綿を渡されて労われたことなどが語られる。
※1.重陽の節句(ちょうようのせっく)とは、上記の重陽の節句をクリックして頂くと詳しい記事があります、よかったら読んでください。
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皇子誕生と人々の反応
彰子の陣痛は、9月9日夜半から始まった。彰子は白い御帳台(産所)に移る。
道長が几帳の外から大声で励まし、彰子にとり憑いた物の怪をよりましに移すための祈祷の声や、物の怪が騒ぐ声などが邸内に響き阿鼻叫喚の模様を呈していく。
紫式部は彰子の親戚筋の女房らと産所の次の間に控えていたようだ。
彰子は髪を削いで一時的に出家し、さらなる加護を願うほどの難産だったという。
しかし、陣痛の始まりから、およそ36時間後、11日の正午頃に、彰子は待望の皇子を出産したのちの後一条天皇である。
後産も無事終わると、紫式部の視点は顔を泣き腫らして化粧が崩れた女房や、権力の頂点に王手をかけて喜びに湧く道長の周囲の人々の様子などへ向けられる。
親である道長は、は余裕のある姿で屋敷を見回り、中宮職の長官・藤原斉信は嬉しさを切れない様子。
一方で紫式部は、ライバル関係にあるために素直に喜べない道長の甥たち藤原兼隆と藤原隆家の複雑な心中も察している。
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出産後のの盛大な祝賀行事
親王誕生に湧く土御門殿(道長)では、出産後の祝い行事が続いた。
生湯を使う「御湯殿の儀」に始まり、産養いの祝賀が3・5・7日目の他特別の9日目にも行われた。
誕生から一ヶ月後には一条天皇が行幸して我が子と対面した。
この後、五十日の酒宴も盛大に行われた。
紫式部日記の同僚評
内裏へ戻る彰子に従うが
11月12日、この日彰子は内裏への還啓の日※1を迎え、紫式部らも女房達も従った。
※1.還啓の日(かんけいの日)とは、三后や皇太子などが出先から帰ること。
このとき、牛車の乗り込む順番は女房達の序列に基づいており、そこから当時の紫式部の序列が7番か8番だったことがわかるが、この時、紫式部は同乗の馬の中将という女房に露骨に嫌な顔をされてしまいます。
この理由は不明だが、馬の中将の方が、家柄が良く古株の女房であったため、浅いキャリアながら上位に紫式部に反発したと思われています。
気持ちが萎えた紫式部は、同僚の小少将の君と愚痴りあったと日記に告白しています。
この後日記には、11月下旬の新嘗会の五節の行事※2▲に関する記述が続いています。
▲※2.新嘗会の五節の行事とは、元旦・白馬(あおうま)・踏歌(透過)・端午・豊明(とよのあかり)・新嘗祭(にいなめさい)の翌日の11月中辰の日の各節会のこと。また、大嘗会(だいじょうえ)や新嘗会などで、公卿や国司などから召し出された未婚の少女による五節舞を指すこともある。▲
五節舞は4人の担当者が選んだ4人の舞姫が舞を披露する行事です。
ここで紫式部はは下仕えの童女のいじらしさに胸が詰まると述べています。
宮中での強盗事件
その年の大晦日には宮中に強盗が入り、女房が身ぐるみ剥がされた事件の記述も興味深いです。
紫式部はすぐに彰子を心配するなど女房としての自覚を示しています。
当時の宮中には一定の割合で強盗が入り、警備の薄さが垣間見えますが、ただし、逆に言えば反乱の心配のない平和だった証とみることもできます。
口惜しさをにじませる紫式部
大晦日の事件の後、『紫式部日記』は唐突に手紙のような文体に変化し、同僚の批評などを書いた髄筆風になっていますが、る。これは実際の手紙が紛れ込んでいるという説と、あえて随筆風に書いたという説があるが定かではないと思われます。
各女房の容姿を紹介したほか、斎院のサロンの風流と褒められるのに対し、彰子の上臈たちの引っ込み思案な様子に苦言を呈し、それによると、訪ねてきた貴族に上臈たちが恥ずかしがって対応しないため、身分の低い者が対応し、中宮への伝銀に支障をきたしたばかりか、貴族達からは彰子のサロンは新鮮味がなくつまらない、昔は良かったと密かに批判されていたらしい。
貴族達が懐かしがったのは定子サロンのことと思われ紫式部は口惜しさを滲ませている。
紫式部の同僚評
『紫式部日記』では、彰子の女房達の中で宰相の君、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、紫式部のおもとについて述べた後、小大輔、源式部などの若い女房等に続いて同僚のたちの批判が見られます。
さらに、彼女達の筆は、彼女同様文学的な素養を買われて彰子に仕えている才女達へと向けられ、和泉式部の歌については本格派でないが、即興の歌は素晴らしい、また、文才があり香り立つよう。歌は見事ですが、そこまで頭で分かってはいらしゃらないと思われます。
赤染衛門については権威はないけども拡張高い歌風と評しているし、ちょっとした機会にお詠みになった歌こそ素晴らしいと評しています。
清少納言に対しての批評は、得意顔で知識をひけかしている、利口ぶっているが、学識の程度は足らない点が多い、「上っ面だけの嘘」になった人の成れの果て‥‥‥などと言いたい放題の様相を呈している。
上臈・中臈の宮の宣旨・殿の上・少輔の乳母・大納言の君らには、孤独感に欠けている、中宮の女房は引っ込んでばかりだと噂される、もう少し趣があるべきではないか、殿上人が訪ねてきても上臈たちは隠れて出て来ない、姫君のままでいらっしゃると評している。
同僚・年下の女房たちの小少将の君については、上品で優雅で、春の2月の枝垂れ柳のような風情を持つ方、また、人付き合いを恥ずかしがり、悪口を言われたらそのまま塞ぎ込んでしまいそうな印象と評している。
小大輔のことは小柄な人で髪が美しい方で、非の打ち所がない外見をされています。
宰相の君jは整った容姿と賢そうな顔立ちで、口元に高貴さと艶っぽさを同居させますが、人柄も感じがよく可愛らしい、そして品が良い方と評しています。
源式部は、身長は程よく高く、端正な顔立ちをして、お嬢様風の雰囲気を醸し出される方と評しています。