美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

光源氏 相関図1

わかりやすい源氏物語の若き光源氏の相関図と重要登場人物の関係を解説 No.1

投稿日:2024年3月23日 更新日:

 源氏物語の主人公・光源氏は誰をモデルとして書かれたのか?
気になりませんか?

紫式部が執筆した全54巻の長編小説です。

 

 

日本の古典で最も有名な物語ですが、現代語訳でも読み通した人は少ないのではないでしょうか。

 

 

しかし主人公・光源氏の生涯を追えば、あらすじは大体つかめます。

 

 

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光源氏はプレイボーイの代名詞として知られていますが、それだけではなく、実は出世を極めた総理大臣級の政治家でもありました。

 

 

紫式部が描いた光源氏の生涯をみていきます。

『源氏物語』モテモテの主人公・光源氏、その生涯や相関図を追えば、大体のあらすじがわかる!?

 

 

一説には、実在する敦康親王の母・藤原定子は、紫式部の『源氏物語』の主人公・ 光源氏の母・桐壺更衣のモデルといわれています。

とすると、父・桐壺帝一条天皇がモデルなのかも?

 

 

そして、肝心な 光源氏は・・・・誰かと?
確かな証拠がないので、今はそれぞれの創造の人を思い描いてみたら楽しいです。

 

 

『源氏物語』の主人公は光源氏ですが、誰をモデルにして創造して書いたか確かな証拠はありません。

 

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桐壺帝の第2皇子として誕生

光源氏は、源氏物語に登場する一人目の天皇・桐壺帝と母・桐壺更衣の間に第二子として生まれながらも、源氏の名を与えられ臣下として一生を送ることになります。

 

 

桐壺更衣は、とても美しく桐壺帝の寵愛を受けていましたが、桐壺更衣は桐壺帝の他の妻からの嫉妬と嫌がらせを受け心身を病み、光源氏が3歳の時に亡くなってしまいます。

 

 

桐壺帝は光源氏を東宮(皇太子)にすることを考えましたが、母の実家は故・鞍察大納言の娘で身分は高くないため、光源氏が皇位に就けば国乱が起こると予言されたため臣籍降下(しんせきこうか:皇族の身分を離れ臣下となること)させ、源氏の姓を与えました。

 

 

そして生まれたときから光るように美しかったため「光源氏」という呼び名が付いたのです。
桐壺更衣の亡きあと、桐壺帝は桐壺更衣にそっくりの美女藤壺を入内(じゅだい:皇后となるべく宮中に入ること)させます。

 

 

亡き母に似ていることから光源氏も藤壺を慕い、のちに藤壺とも関係を持ったため、光源氏と継母である藤壺の間に男子が生まれました。

 

 

しかし、このことは誰も知ることはなかったので桐壺帝の子として育てられ、のちの冷泉帝(れいぜいてい)となります。

このように光源氏は、亡き母に似た藤壺を生涯自分の理想の女性として、その面影を求めるように様々な女性と関係を重ねていくのです。

 

 

光源氏は、類まれなる容姿と文武に優れ、様々な女性達との恋愛を重ねつつ、自身の栄華と苦悩を抱えながら生きていきます。

 

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12歳で結婚。正室は葵の上

紫の上は、源氏物語の主人公光源氏の最愛の女性です。

紫の上は藤壺(5歳上の光源氏の継母)にあたり、藤壺に似ていることから幼い頃に光源氏に見初められ、彼の屋敷で理想の女性になるように育てられました。

 

 

光源氏の正妻・葵の上亡きあとは、14歳で正妻格となり、光源氏の数々の女性関係に心を痛めながらも、健気に耐えて、光源氏家の女主人としての務めも立派に果たします。

 

 

そして光源氏は、紫の上が亡くなるときまで、「あなたがいなければ生きていけない」と語り続けたのでした。

 

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愛妻・紫の上との出会い

18歳のとき。

光源氏が熱病の治療のため、僧都(そうず:僧官の職のひとつ)の祈祷を受けようと北山(きたやま:京都市北区)を訪れたとき、垣根越しに10歳くらいの可愛い少女を見かけます。

 

 

髪が扇を広げたようにゆらゆらとなびき、あどけないその顔は、光源氏の思い人・藤壺にあまりにもよく似ていました。

 

 

光源氏は、一目で側に置きたいと恋い慕うようになります。

その後、光源氏は少女が藤壺の姪だということを知り、何としても一緒に暮らしたいと思うようになりました。

 

 

少女を養っていた祖母に養育を申し出ると、幼いことを理由に断られましたが、祖母が亡くなると少女を強引に自分の屋敷に引き取ってしまうのです。
この少女がのちの紫の上で、幼い頃は「若紫」(わかむらさき)と呼ばれます。

 

 

引き取られた当初の紫の上は、光源氏に教えられたことが上手くいかないと「失敗しちゃった」と恥じらって隠したり、光源氏が外出すると言うとすねて寝てしまったり、光源氏が出かけず自分の相手をしてくれると聞くと喜んで飛び起きたりする、あどけなく素直な少女で、光源氏にとってはひたすらに可愛い存在でした。

 

 

純真無垢な姿に心を奪われた光源氏は、紫上を何から何まで自分好みに育てたいという夢を胸に抱くようになります。

 

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「女性は気立てがやわらかなのが良いですよ」、「夫が他の女性のところへ出かけても、うるさく嫌味を言うものではありませんよ」などと、光源氏好みの女性になるように教育されました。

 

 

紫の上にとって、見目麗しく、言葉巧みで優しく、さらに財力もある光源氏は信頼できる存在で、教えられることすべてを素直に吸収していきます。

 

 

そして正妻・葵の上の死後、光源氏(22歳)と紫の上(14歳)は初めて結ばれて結婚生活に入り、紫の上はいっそう深く光源氏から愛されるように。

 

 

紫の上は非常に賢く、光源氏が想像していたよりもさらに上の理想の女性に育ち、ふたりは愛情と信頼によって結ばれた理想的な関係を築いていくのです。

 

 

紫の上は、事実上の正妻として光源氏の女房達の心をつかみ、性別を問わず多くの人を惹き付ける魅力を放つようになっていきました。

 

 

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第一部の相関図

 美貌と才能に恵まれた光源氏は、実母に似た義母・藤壺に恋に落ちてしまいます。

      ▲光源氏の相関図No1

 

 

実母の面影を探し空蝉・夕顔・葵の上・六条御息所など多くの女性と恋に落ちますが、朧月夜(おぼろつよ)との逢瀬が政敵にバレた後に、政局が 光源氏に不利となり須磨・明石に逃げます。

 

 

 

母は故・鞍察大納言の娘で身分は高くないため、周囲の女たちの嫉妬を受けて病気となり、光源氏が3歳の時に亡くなる。

 

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また、桐壺帝の正妻・弘徽殿女御に陰湿ないじめをしていた。

桐壺帝は桐壺更衣が亡くなった後は、顔がそっくりな藤壺入内させ愛する、子の朱雀帝に譲位した後は、桐壺院となるが、自分と藤壺中宮との子が、実は息子の光源氏と藤壺中宮の子であることを知らないまま崩御してしまいます。

 

 

歌人としての紫式部の才能を発揮

『源氏物語』には795首もの歌が収められています。

和歌には日常生活の伝達手段や、男女間のやり取りに用いられる贈答家、贈る対象なしに一人で詠む独詠歌、三人以上の人物が次々と詠みあげる唱和と、主に三つのパターンがあった、『源氏物語』では、特に男女間の贈答歌が多く収録されています。

 

 

男女の心情を詠みあげる和歌のやり取りによって、逢瀬をも表現する巧みさは、紫式部の優れた才能を思い知らされる。

 

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めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に・・・・の和歌

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影

訳は:

(久しぶりに逢って、またあなたに逢えたともはっきりわからない、そんなわずかの間に、あなたはもう私のもとから去ってしまった。)

 

まるで夜半の月が見えたかと思うとすぐに雲に隠れてしまったかのように)
※.この歌は、受領である父に伴われて、地方と都を何度も行き来する友とのめぐりあいのはかなさを詠んだ歌とされる。

 

 

 

亡き人に かごとはかけて わづらふも・・・・の和歌

亡き人に かごとはかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはらぬ

訳は:

(亡くなった元の妻にかこつけて物の怪に苦しんでいるのですが、ほんとうは自分自身の心の鬼に責められているのではありませんか?)

 

※.この歌は、妻に祟る亡き妻の死霊を調伏しようとする男性の絵を見て詠んだものとされる。

 

 

「ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ」と紫式部の歌を肯定擦る返歌が続く。

 

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わりなしや 人こそ人と 言はざらぬ・・・・の和歌

わりなしや 人こそ人と 言はざらぬ みづから身をや 思ひ捨つべき

訳は:

困ったものだ。

(人さまこそ私を人なみといわないでしょうか、どうして自分を見捨てることなどできようか)

 

※.初出仕のの際に紫式部に対してささやかされた陰口に対して詠んだものとされる。

 

 

 

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ・・・・の和歌

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

訳は:

(ただではおくまいといわんばかりの勢いで叩く水鶏のために、戸を開けなどしたらどんなに悔しい思いをしただろう)

 

※,夜更けに戸を叩いた男性からの「夜もすがら水鶏より異になくなくぞ真木の戸口にたたき詫びつる(一晩中叩く水鶏より激しく泣きながらあなたの局の戸を叩きあぐねたことだ)」という歌に対する返歌。

相手は藤原道長とする説が有力です。

 

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水鳥を 水の上とや よそに見む・・・・の和歌

水鳥を 水の上とや よそに見む 我も浮きたる 世を過ぐしつつ

訳は:

(水鳥を水の上に浮き漂うものと他人事に見ておられようか、この私も鳥のように取りとめもない日々を週ごしているのに)

※.『紫式部日記』より。
寛弘5年(1008年)、愛いに沈みながらふと目にした水鳥の姿を自己の生き方に重ねて詠んだものとされる。

 

 

人にまだ 折られぬものを 誰がこの・・・・の和歌

人にまだ 折られぬものを 誰がこの すきものぞとは 口ならしけむ

訳は:

(まだどまたからも手折られたことなどありませんのに、色好みだなんて誰がいい降らしたのでしょう)

 

※.『紫式部日記』より。彰子の出産をまつなか、庭にあった女郎花の枝を折って差し出してきた、藤原道長に対して詠んだ歌とされています。

 

道長は枝を指しながら、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ(色好みだと有名になっているから、ひと目見て誘惑せずに放っておく人なんていないと思いますよ)」と詠んだらしい。

 

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生涯をまとめた紫式部集

紫式部の才能は当時の貴族に必須の教養とされた和歌にも発揮された。

日常生活の中でも折に贈答歌を交わしていた彼女が、生姜に渡って詠んだ和歌はおよそ130首を収めた歌集が『紫式部集』である。

 

 

和歌で自身の生涯をたどるようにまとめられ、少女時代から恋愛と結婚、宮仕えの日々の苦労と折々の歌が収められている。

 

 

これらの歌には、その折々の紫式部の内面が垣間見られるのが特徴で、女友達に本音を屈託なく語り、夫の足が遠のく事を嘆き、夫らの死別を悲しみ、小少将の君との語らいに思いを馳せるなど、自身の思いや弱さがにじむ。

 

 

晩年に向かうにつれて無常観が漂うのも紫式部の和歌の特徴であるように思われる。

 

 

 

-光源氏 相関図1

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。