美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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’26大河ドラマ「豊臣の兄弟」の豊臣秀長と豊臣秀吉と朝日姫は実父母の子か?

投稿日:2025年3月14日 更新日:

読者の皆さん、こんにちは隆太郎です。

ご存じの通り豊臣秀吉は尾張国の名古屋・中村公園が生誕地になっているので、母・仲の生誕地が同じ尾張国の御器所(現・名古屋市御器所)になっていますので御器所から中村公園の方に嫁入りしたんじゃないかな。

▲秀吉・秀長・旭の母・仲の生誕地跡(名古屋市昭和区御器所三丁目22)

“仲”は木下弥右衛門と結婚しましたが日吉丸(秀吉)が、7歳か8歳の時亡に木下弥右衛門は亡くなっています。

 

 

天下を取った秀吉は、幼少時代百姓の出だと聞いていたけど、百姓ではなく足軽の貧乏侍だったんだね、すなわち累代の織田家の足軽の家系だったんですね。

 

 

幼少名が、日吉丸(秀吉)が蜂須賀小六が野営している時に、橋の下で寝てた時に出会ったと云う有名な逸話があります。

 

 

日吉丸の父、木下弥右衛門は、戦国時代の人物で、太閤・豊臣秀吉の実父であると推定されるが、姓や出自などについては多くの説があり実像は判然していない。

 

 

秀吉の家臣であった、竹中半兵衛の嫡男・竹中重門がしたためた秀吉の一代記『豊鑑』ですら「郷のあやしさ民の子なれば父母のなもたれかは志らむ、一族なども志かなり」とある。

 

木下弥右衛門が、通説として秀吉の父であると受け入れらていますが、『太閤素生記』における以下の記述元になっています。
     ↓

父木下弥右衛門ト云中々村ノ人、信長公ノ親父信秀織田備前守鉄砲足軽也。爰(ここ)カシコニテ働キアリ。就夫手負五体不ㇾ叶、中々村へ引込百姓姓ト成ル。太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ、其後秀吉八歳ノ時、父弥右衛門死去。
                           『太閤素生記』

 

これにより秀吉は父の子、尾張の国中村(中中村)生まれで、織田家の足軽、あるいは、雑兵(雇い兵)であったが、ある合戦において負傷したために(片足が不虞になって)勤務を辞めて、故郷で帰農したという人物像が描き出されてきた。

 

 

仲と木下弥右衛門の子

木下弥右衛門は、美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)ともいわれる、尾張国愛知県御器所村(現・名古屋市昭和区御器所)の農夫の娘・仲(後の大政所)を娶った。

 

 

仲と(大政所)は、姉・とも(日秀尼)と日吉丸・小一郎・旭を産んだ。

姉のともの夫は、通称:弥助と言う百姓であったが、永禄7年(1564年)に織田家に仕える義弟・木下藤吉郎の縁者であったことから、藤吉郎の馬牽として士分に取り立てられ、木下姓を与えられ自ら木下弥助と名乗った。

 

 

とも(日秀尼)と弥助の子には、豊臣秀次・秀勝・秀保がいます。

藤吉郎(後の豊臣秀吉)、弟に小一郎(豊臣秀長)、妹に旭(朝日姫:徳川家康の継室(駿河御前)通説では、小一郎、旭については再婚した竹阿弥の子で異父弟妹とされるが、木下弥右衛門が早死にしてるが弥右衛門の子だと思います。

 

 

ここから読むと父は秀吉が7歳の時or8歳の時に死去していますが、秀吉の誕生は資料によると、天文6年2月6日(ユリウス暦1537年3月17日なので、父・木下弥右衛門の生誕不明です。

 

死んだのは、天文12年1月2日(1543年2月5日)なので、秀吉が7歳か8歳だから、天文12年1月2日ー秀吉生誕が天文6年2月6日、秀長の生誕は、天文9年3月2月(1540年4月8日)だから充分秀吉の弟と認められる。

 

 

妹の旭の生誕は、天文12年(1543年)秀吉・秀長と同父とすると微妙であると思います。

 

 

秀吉は母の”仲“を大政所にし生前に従一位、死後に准三后を追贈させたうえ、天瑞寺や青巌寺を供養したが、父・弥右衛門には官位の追贈の記録もない墓地を建てたことも判明していません。

 

 

 

兄・秀吉に誘われて武士になった小一郎

小一郎(秀長)は、母・仲の再婚相手の竹阿弥の子(現・名古屋市中村区)で生まれたと書いてあるが僕は違うと思います。

 

 

父は木下弥右衛門で、秀吉と旭は兄弟妹だと思います。

天文19年(1550年)、兄の藤吉郎は武士になるため家を出て、流浪の末蜂須賀小六と会い織田家に仕官することになり、この間、弟・小一郎は地元で農業に携わって、平凡な生活を送っていた。

 

 

永禄4年(1561年)頃、織田家の奉公人となった藤吉郎が帰還した時、小一郎に奉公人にならないかと勧めたのが始まりです。

そうして、兄の勧めに従い武士の道を歩み始めることになりました。

 

 

 

兄・秀吉の出世の道を開いた小一郎の活躍

兄・藤吉郎と共に武士として着実に実戦経験を積み、ときには兄・藤吉郎の危機を救うなどして着実に成長を遂げるようになっています。

 

 

永禄9年(1566年)には、織田信長の美濃国の攻めに伴い、藤吉郎と小一郎(秀長)は、墨俣城(現・岐阜県大垣市)に築城に大きく貢献したと言われています。

 

 

墨俣城といえば、豊臣秀吉が織田信長の前進拠点となる地に一夜で築城したことで城で藤吉郎の出世したといわれる。

 

 

小一郎(秀長)は、蜂須賀正勝・前野長康といった武将に、「私たち兄弟が手柄をあげられたのは、全てあなた方がいてくれたからです」と低姿勢で接し、墨俣城築城の協力を懇請していました。

 

 

このような小一郎(秀長)の謙虚な態度に心打たれ、墨俣城の築城をはじめ、多くの武将が藤吉郎の調略に力を貸すようになっていったのです。

 

 

小一郎(秀長)は兄の足りない部分を補うように、味方や協力者を増やすための努力を重ねながら、戦場でも兄のために力を尽くします。

 

 

この男、世に名将・名参謀と呼ばれる人物は数多いが、名補佐役はきわめて少ない――。

 

 

戦国時代、尾張の貧しい農民の出でありながら、野心家の兄・秀吉を天下人たらしめ、自らも“大和大納言”と呼ばれるまでにのぼりつめた男・豊臣秀長。この人なしに、秀吉は天下人になれなかったと言われる。

 

 

卓越した実務能力と抜群の調整力、非凡な統治能力で、脆弱な豊臣家の体制を支え続けた秀長ですが、51歳の若さで死去してしまう。

 

 

日本史上屈指のナンバー2と呼ばれる男・豊臣秀長が生きていれば豊臣家は長く続いていたと思うし徳川体制も出来なかったと思う。

 

 

元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは、信長の義弟・浅井長政に裏切られた信長は退却にあたり殿軍※1.▲(しんがり)を自ら志願した藤吉郎の指示に従い、小一郎(秀長)金ヶ崎城に立て篭もる役を務めた。

▲※1.殿軍とは、後退する軍の最後尾を守る部隊。▲

 

 

この戦いで小一郎(秀長)が一番隊大将として体を張って防戦した結果、藤吉郎が信長から信頼を得ることとなりました。

 

 

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