江戸時代中期、中期とは、第八代将軍・吉宗・第九代将軍・家重の在職(延享2年・1745年に就任し宝暦10年・1760年までの在職期間15年)の遺言で、第十代将軍・家治の在職は(宝暦10年・1760年から天明6年・1786年までの26年間の在職期間)に重宝され、幕政を一新しようとする一人の老中がいた。
それは田沼意次です。
一般的に賄賂政治の象徴として後世に語られがちな意次ですが、今の政治家連中も企業献金そのものが賄賂と同じようなもの、献金という名のもとで献金を貰えば魚心があります。
実は先進的な経済政策と人材登用によって、近代的な改革を志した人物でもあった。
その政策の陰には、ある異才の知識人がいた。
その名は、工藤平助といい田沼意次の政治思想と実務の中で工藤平助が果たした役割、そして彼らが目指した”江戸の近代化“に迫ります。
本業は仙台藩医であり、同時に意次の目を蝦夷地へ向けさせた学者の一面もあり、迫りくるロシアの脅威を早くから訴えていました。
なぜ一介の医者にそのようなことができたのか?
工藤平助が著した赤蝦夷風説考とは?
「赤蝦夷風説考」とは、仙台藩の医師・工藤平助が著した、ロシアの東方経路に関する地理書であり、特にカムチャッカ半島を中心とした地域の地理的把握に焦点を当てた著作です。
上巻は蝦夷地(現・北海道)の資源開発とロシアとの交易を説き、下巻は蘭書の知識を基にロシアの東方経路の実情を述べ、その植民地と蝦夷地との関係を明らかにした書物です。
当時の日本にとって蝦夷地はまだ“未開の地”、でも工藤平助は、そこに目をつけ「ここを開発して、日本を強くすべきだ」と主張しました。
この本が、時の老中・田沼意次の目に留まりました。
工藤平助とは何者?
簡単にいってしまえば蝦夷地に・対外政策に長けた知識人です。
田沼意次は、工藤平助の意見を高く評価し、幕府の政策に活用しようと考えます。
例えば、蝦夷地の開発、対ロシア交易の準備など、今でいえば北方開発計画のような構想のようなものです。
田沼意次といえば「賄賂政治」「金に汚い政治家」というネガティブな印象かもしれませんが、実際どうだったのか?
実は当時としてはかなり先進的な政策を推し進めた改革者だったと思います。
老中として幕政を担当して将軍・家治の信頼も厚かったため、当時、幕府は財政難でしたので経済を使って財政を立て直そうとして、成長戦略として重商主義的政策(株仲間の保護や貨幣政策)などを次々と実行していきます。
二人の交点“開かれた日本”を夢見て
蝦夷地はペリー来航のはるか前から”開国“の予兆があった土地であったので、蝦夷地の開発、アイヌ※1との交易や金銀銅山などの鉱物資源、そして隣国ロシアからの接触など・・・改名的な田沼意次が強い興味を抱いた地、工藤平助と共に構想を夢見て進みました。
※1.アイヌ民族の始まりは、
17世紀、周辺の諸民族と自由に交易をしていたアイヌ民族は、交易権を独占した松前藩によって、その交易な場が制限されました。
18世紀に入ると、和人の商人が交易を請け負い、漁場経営する中で、多くのアイヌが漁場での労働に従事させられ、アイヌ人の社会に和人の経済社会に取り込まれていきます。
19世紀後半、南から和人と北からロシア人がやって来ると、アイヌの住む土地に日本とロシアの国境が出来ました。
アイヌ民族は、樺太や千島から北海道へ強制移住させられ、北海道でも和人が街などを造るため強制移住させられることもありました。
そして、伝統的なアイヌ文化の風習の禁止、日本語の習得が勧められるといった同化政策によって生活は大きな影響を受けました。
戦後、アイヌ民族は、差別に抗議し、貧しい暮らしをよくするため、世界の先住民とも協力しながら、さまざまな活動を始めました。参考文献
●アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会『報告書』2009年
●榎森進『アイヌ民族の歴史』草川館2007年
●関口明ほか編『アイヌ民族の歴史』山川出版社2015年
●田端宏ほか編『アイヌ民族の歴史と文化』山川出版社200年
工藤平助の人物像
享保19年(1734年)に紀州藩江戸詰の藩医・長井基孝(大庵)の三男として生まれる。
幼名は長三郎でした。
実父・長井基孝の友人に、工藤安世という医者がいました。
養父になる工藤安世は仙台藩に仕えており、藩医の座がちょうど空いたところであり、51歳の工藤安世にその座を得る機会が巡ってきたのです。
工藤安世は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村が寛保3年(1743年)に江戸品川袖ケ先に隠居するにあたり、その侍医※2として300石で召し抱えられた。
※2.侍医(じい)とは、天皇や皇族の診療を担当する医師のことです。
享保3年(1746年)前・藩主の侍医であった工藤安世(丈庵)が仙台藩になるには妻帯が条件であったため、平助は51歳の工藤安世が28歳の妻を娶ることにしました。
養子の白羽の矢がたったのが工藤安世(丈庵)の友人である長井基孝(大庵)の三男・長三郎(平助)でした。
かくして仙台藩医の子となった長三郎は、将来の道が定められると知識を身につけるため13歳で工藤家へ養子に入って勉学に励み、様々な才能が花開いていくこととなり
平助の娘・あや子(只野真葛)髄筆
平助の娘・あや子(只野真葛)の随筆『むかしばなし』によれば、工藤安世(養父)は武芸に優れた博覧強記の名医として知られていたが、養子となった平助には全く医学を授けなかった。
しかし、実家で学問らしきことをしていない平助に対し、朝『大学』を始めから終わりまで通して3度講じ、翌日まで復習して試問答えられる状態にして置くようにと自学自習を課してしまうというスタイルで教え、10日ばかりで四書(儒教の経書のうち『論語』『大学』『中庸』『孟子』の4つの書物を総称したもの。四子(しし)・四子書(しししょ)、学庸論孟(がくようろんもう)とも言われる。)の全てを授けて、それによって平助は3ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという。
養父・安世は平助にこのような方法で漢籍を教えたのみで、平助は医学を実父の長井基孝や当時著名だった中川淳庵、野呂元丈らについて学び、漢学は青木昆陽、服部栗斎らに師事して学んだ。
田沼の終焉
残念ながら二人の構想は、天明6年(1786年)に将軍・徳川家治の死去すると田沼意次は一気に失脚し工藤平助の提案も、政治の中で生かされることはなかったが、彼の思想は、後の北海道開拓や界国論者たちに大きな影響を与えていきます。
平助の学問に花ひらく才能
平助の養父・工藤安世(丈庵)は、文武両道の人物で、柔術・剣術・弓・槍・馬までこなし、将棋や絵にも通じていて才知あふれる人物でした。
工藤安世(丈庵)は、医学ではなく、まず当時の学問の礎となる漢籍教養を平助(長三郎)に教えることとし、江戸時代を通して、日本人男性の教育の基礎は漢籍読解となり、身についていないと「無教養」の烙印を押されます。
平助もまず、四書五経を身につけることにし勉学に励みました。
そこで工藤安世は、幼い平助に『大学』を渡します。
漢字だらけの本を寝食も忘れ、必死でかじりつくように読んで、へとへとになってやっと読み終えたかと思えば「今度はこれだ」と『論語』が渡され、平助は十日ほどで四書を読みこなし、2~3ヶ月後には漢籍読解をこなせるようになっていきりました。
江戸時代の学問とは自由がなく、堅苦しいというイメージがあるかもしれませんが、基礎さえ学べばあとはむしろ自由度が高いともいえます。
江戸時代も半ばを過ぎると、様々な知識が日本中に渦巻き、身分を超えて学ぶ機会もありました。
当時は文系と理系という区別もありませんので、芸術系も教養に入り、そこから先は数多の知識を身につけてゆくことになります。
学ぶことが好きで吸収の早い才人にとっては、ともかく楽しい、そんな日々が待ち受けているのです。
平助はたちまち学問にのめり込み、もっと早く学んでおけばよかったと悔やむほどでした。
江戸詰の仙台藩医の嫡男は、学ぶには最高の環境が揃っていました。
例えば、漢方医学は実父の長井大庵、中川淳庵、野呂元丈に学び、国学者の村田春海の学び、家族ぐるみでつきあいのあった三島自寛。
蘭学を医学に取り入れていた杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、桂川甫周らも同然、儒学者の服部昆陽に学び。
そして儒学者でありながら蘭学に通暁している青木昆陽らに学び、なおオランダ通詞の吉雄幸作。
彼を通じてオランダ経由の西欧に関する知識を得ることもできています。
平助自身はオランダ語や蘭学を学ぼうとしたわけではありません。
徳川吉宗以降の時代、学ぼうと思えば蘭学への関心や知識が流れ込んでくる状況にあります。
江戸の文人はネットワークを形成しており、その流れの中には常にオランダの知識が流れ込んでくる。
この流れの中には、北の大国たるロシアに関する情報も含まれていました。
仙台藩医となる
そして宝暦4年(1754年)、21歳になった工藤平助は工藤家300石の家督を継ぎ、医師として剃髪しました。
翌年、養父の工藤安世(丈庵)が没しています。
それから数年もすると、工藤平助は江戸中で名医として知られるようになってゆきました。
諸大名から裕福な商人まで、彼の診察を受けようとわざわざ訪れるほどで、患者のみならず弟子志願者も多く門を叩きます。
医学以外にもさまざまな才知を発揮した平助は、仙台藩有力家臣の覚えもめでたく、藩主にしても自慢の名医。
江戸詰であるため、さまざまな有名人との交流も生まれてゆきます。
平助の意外な才能として“料理人”が挙げられます。
アイデア豊かな彼の料理はのちに「平助料理」と呼ばれ、彼の料理は藩主も舌鼓を打ったほど。
役者の中村富十郎がわざわざ料理を食べに工藤家にやってきたこともあったとか。
身分制度が綻びつつある時代らしく、彼の家には歌舞伎役者・初代・中村富十郎も侠客も、はたまた博徒まで出入りし平助は江戸っ子らしい人付き合いがよくさっぱりとした人柄で、分け隔てなく幅広く付き合う人物だったのです。
江戸は人脈が重要でした。
仙台藩の誇る才人として
工藤平助の時代、仙台藩藩主は七代・伊達重村でした。
彼は田沼時代の大名らしく、華やかで派手、厳しい言い方をすれば少々軽薄なところがある人物といえます。
そんな伊達重村の耳に、某藩の名物俗医師である梶原平兵衛の噂が入ってきました。
俗医師とは剃髪しない医者のことであり、例えばフィクションの『赤ひげ先生』が該当します。
すると安永5年(1776年)頃、仙台藩主七代の伊達重村は平助に還俗蓄髪を命じました。
梶原平兵衛と対抗させようとしたわけです。
この話は平助の娘である只野真葛が著した『むかしばなし』の中に書き留められています。
築地に大きな二階建ての屋敷を建てた平助の元には、さらに多くの人が出入りするようになりました。
仙台藩の誇る才人となり、私塾「晩功堂」も開いて、ますます人脈も広まってゆくのです。
赤蝦夷:ロシアの脅威に備え 蝦夷地を開拓せよ
文化が爛熟してゆくこの時代、不穏な空気も流れ込んでいたことは確かです。
世界史規模で、地球が狭くなっていくような変化があらわれつつありました。
西洋諸国で航海技術が発展すると共に、東洋にある資源への需要が開かれていったのです。
代表例として、イギリスの茶葉への需要があります。
ポルトガルから英国王室のチャールズ2世へ嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザがもたらしたとされる茶の習慣は、イギリスで広まってゆきました。
しかし茶葉は中国から輸入するしかない。そこで西からの目線が東へ向けられるようになっていったのです。
日本でもその目線を意識してのことか。
国学者が台頭し、国を憂うようになってゆきました。例えばその一人である高山彦九郎も、工藤平助と交流がありました。
さらに注目したいのが、平助より4歳下の仙台藩士だった林子平です。
林子平は幕臣であった父が致仕し浪人の身となっていたところ、仙台藩へ奥女中奉公に出ていた姉が6代藩主・宗村の側室となり、その縁で仙台藩に取り立てられたのです。
林子平は長崎から蝦夷まで歩き回り国防に開眼し、『三国通覧図説』を著しました。
工藤家にも出入りしており、親戚といえるほど親しく付き合い、林子平の『海国兵談』序の筆を執ったのは平助でした。
知識がとめどなく流れ込んでくる平助の耳には、切迫感を帯びた噂が入ってきます。
ロシアの脅威です。
西洋諸国の中で、最もアジアに近いロシアです。
松前藩士やオランダ人の情報を入手するうちに、その危険性をひしひしと感じるようになっていくのでした。
工藤平助の娘・只野真葛は『むかしばなし』の中に、こんな描写を残しています。
平助はあるとき、田沼家用人とこんなやりとりをした。
我が主君・田沼意次は、何か偉業を成し遂げた老中として歴史に名を残したいと仰せになっている。
すると平助は、蝦夷地から貢物を得ることにしたらどうか?と提案、そのために『赤蝦夷風説考』を書き始めた。
▲赤蝦夷風説孝
天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻まで書きあげ、天明3年(1783年)には同上巻を含め、ほぼ完成させておりました。
なお、この書物の本来の題名は『加摸西葛杜加国(カムサッカ)風説考』出会ったとする説が有力視されておりますが、『べらぼう』と本稿では『赤蝦夷風説考』としております。
天明元年(1781年)は田沼意次が権力掌握を成し遂げた歳でもあり、確かに平助の赤蝦夷ことロシアに向けた目線と、田沼時代は一致しています。
田沼意次の右腕ともいえる松木秀持は、この『赤蝦夷風説考』をもとに蝦夷地政策を献策し、実現することになります。
田沼の終焉
残念ながら二人の構想は、天明6年(1786年)に将軍・徳川家治の死去すると田沼意次は、庇護者を失った田沼意次は失脚し工藤平助の提案も、政治の中で生かされることはなかったが、彼の思想は、後の北海道開拓や界国論者たちに大きな影響を与えていきます。その他の田沼派たちもみな幕閣を追われてしまいます。
ただ、田沼時代が終焉後の回想である点には注意が必要です。
松木秀持の提案は採用され、蝦夷地探検が大々的に行われました。
平助が蝦夷奉行に就任するという話も出回ったとされます。
しかしこのころ工藤家には災難が襲いかかっています。
天明4年(1785年)、築地の家が焼けてしまったのです。
田沼時代のあとを継いだ松平定信は方針を転換し、対ロシア政策も、蝦夷地経営も、工藤平助の案はすべて不採用とされます。
平助はロシア情報の聞き書きをし、精度を高めるべく努め『工藤万幸聞書』を記していました。
しかし時代が変わるとそうした知識は禁忌とされ、工藤平助の事績は埋もれてゆきます。
林子平の『海国兵談』にしても、その内容は『赤蝦夷風説考』を踏まえて書かれています。
平助が序を執筆したことも当然と言えるでしょう。
それなのに、只野真葛の回想では、平助は拒んでいたとされます。
『海国兵談』は発禁処分とされたため、なるべく関わりを薄くしたかったのだと思われます。
なお、林子平の書籍刊行に携わった須原屋市兵衛も、厳しい処罰を受け、これが一因となりのちに店を閉めることとなりました。
田村時代の終焉は、工藤平助にも暗い影を落としました。
幕府から仙台での蟄居が命じられたのです。
経済的に困窮しつつも平助は、江戸で医師として著述家としての活動を続け、医学書『救瘟袖暦』の執筆等を手がけていました。
すると寛政9年(1797年)7月、8代藩主・伊達斉村の次男であり、まだ生後10ヶ月に過ぎない徳三郎が熱病に罹りました。
これを治療すると、平助はあらためてその名を知らしめ、褒美を賜ったのでした。
徳三郎は後に10代藩主・伊達斉宗となっています。
そして寛政12年12月10日(1801年1月24日)に死去、享年67。
家督は二男の源四郎が継ぎました。
医者としてだけでなく、ありとあらゆる知識が豊富で、幕閣や役者にまで認識されていた工藤平助。
当時はただならぬ才人として名が知られていました。
彼の娘である只野真葛は、父への敬愛をこめて筆をとり、その人柄を伝えることとなります。