天正18年(1890年)7 月5日、北条氏小田原城開城。
関東を支配した戦国大名・後北条氏は、豊臣秀吉の小田原征伐(小田原の役)の末に、北条氏政(父)・氏直(氏政の子)が、約3ヶ月(約100日)に及ぶ籠城戦(兵糧不足、士気低下)の末、秀吉の圧倒的な大軍と戦略の前に開城して後北条氏の降伏してしまった。
秀吉と北条氏の戦い(小田原征伐)は、小田原城自体は「無血開城」に近い形でしたが、その過程では北条氏の支城(八王子城など)で激しい戦闘をした。
▲小田原城
最終当主・北条氏直は「優柔不断」「決断力不足」「父に比べて凡庸」という評価を受けることが多いのはなぜか?
本当に北条氏直は無能だったのか?
北条氏直はどんな人物だったのか
北条氏直は、温厚・誠実で、家臣や民を思う優しい当主でした・

氏直は父・氏政のような強硬派ではなく武断的※1な性格ではなく、調整型・対話型のリーダーでした。
※1.武断(ぶだん)とは、武力で押さえつけて政治を行うこと。また、威力によって勝手に物事を行うこと。
怒鳴らない」「話を聞く」「理を重んじる」と評され、人望は決して低くなく、温厚な当主だった。
何故かというと、怒らず、人の話をよく聞く性格で、家臣からの人望が厚く、父・氏政との気質の違いが目立っていた。
北条氏直は、小田原征伐での「小田原評定」にみられるように、優柔不断で決断力に欠けていたという評価が一般的にあるようです。
特に豊臣秀吉の圧倒的な勢力に対し、父・氏政と共に籠城を選び、最終的に開城・降伏に至る過程で家臣との意見対立やリーダーショップの不足が表面化し滅亡の一因となったとされていますが、その背景には氏直の優柔不断さが指摘されています。
小田原合戦での決断
決断は決して無責任ではない、よく言われるのが氏直は秀吉が攻めてきた時に優柔不断で決断できなかった。
家臣団が分裂し、当主一人では決められなかった城内では、抗戦派もいれば講和派もいて秀吉に従うべきという意見の挟み撃ちになった。
降伏後の態度が「人柄」を物語
天正18年(1590年)小田原城開城後、氏直は豊臣秀吉に対し、一族の助名を条件に降伏・追放を受け入れる形で折衝を行いました。
徳川家康の仲裁で助命嘆願
当主・氏直は秀吉に切腹を申しでますが助名され変わりに、父・氏政、叔父・氏照は切腹、氏直は徳川家康の娘婿であったことから、家康が秀吉に対して氏直の助命を強く働きかけ、命を許された。
氏直は、一族の氏規(系統が河内狭山藩として存続して幕末まで続区)、氏忠、氏房らと共に高野山へ配龍(追放)し、翌年1591年赦免し秀吉は氏直のこれまでの功績や人柄を評価したのか高野山から呼び戻して、秀吉は氏直に河内国などで一万石を与えて再興を許しましたが、同年11月に氏直は病気(天然痘)により30歳の若さで亡くなりました。
北条氏の始まり
小田原を拠点とした北条氏(後北条氏)の始まりは、明応9年(1500年)頃、初代の北条早雲(伊勢宗瑞)が大森氏から小田原城を奪取した時期が始まりと言われています。
伊勢宗瑞※2の子・氏綱に始まる小田原・北条氏は関東管領・上杉氏を退けて関東を平定した名家であった。
※2.伊勢宗瑞(いせそうずい)とは、室町時代中後期(戦国時代の初期)の武将で、後北条氏の祖で初代当主、実際には本人存命中は北条との関はなく生涯「伊勢」の姓を名乗った人物)別名:北条早雲。
その3代が氏政、4代が氏直は後世の軍記物などのよって「暗愚」※3とされる。
※3.暗愚(あんぐ)とは、道理に暗く愚かなこと、または愚かな者。
特に4代の氏政は、北条早雲・氏綱・氏康ら先代が築き上げた「関東の北条」というブランドを傷つけ家を滅した無能な国主というレッテルを貼られたのだった。
しかし、最近の研究では「氏直の父・氏政の父・氏康が半生を費やした上杉謙信との関東支配を巡る抗争に決着をつけ、房総の里見氏とは北条優位の同盟を成し遂げ従属する国衆(在地豪族)は下野半国から常陸南部にまで及び、北条氏最大の「領国形成は氏政・氏直父子」※4という評価がある。
※4.解説すると、北条氏康・氏政・氏直の3代にわたる努力により、後北条氏は関東最大の戦国大名へと成長していきました。
北条氏康・氏政、上杉謙信との抗争に決着
北条氏康は上杉謙信(長尾景虎)の関東進出に対し、河越合戦(天文15年:1546年)なので対抗し、その後の「関東三国志」と呼ばれる抗争の中でも関東支配の地盤を維持した。
北条氏康の死後、氏政は元亀元年(1570年)代以降に上杉謙信が武田信玄と対抗した際や、謙信死後の越後情勢の混迷を利用し、関東支配の優位を確固たるものにした。
房総・里見氏との関係
里見氏は、日本の氏族のひとつで中世に日本の武家として始まった、本姓は源氏(河内源氏)で、源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家で、戦国時代に一族から房総地方を領する戦国大名・安房里見氏となった。
その里見氏が、享徳の乱(康正元年:1455年〜)を機に南安房(安房国)へ移り住み、戦国大名として勢力を確立しました。
長年対立していた房総のの里見氏と後北条氏と激しく争いながらも、元亀元年(1570年)代後半から80年代にかけての対立を経て最終的には北条氏優位で和睦、従属関係に持ち込みました。
氏政・氏直の最大領国形成
氏政・氏直父子の時代、天正10年(1582年)の「天正壬牛の乱」※5後の混乱に乗じて上野、下野、常陸南部へと勢力を拡大、これにより北条氏の領国は、伊豆・相模・武蔵・下総・上野に加え、常陸、下野、駿河の一部に及び240万石に達しました。
※5.天正壬牛の乱(てんしょうじんごのらん)とは、壬午の乱、壬午の役は、天正壬午年(天正10:1582年)に甲斐・信濃など武田氏の旧領だった織田氏の領国で起きた一連の争乱。
関東周辺のの多くの国衆が北条氏の軍事力と政治的な傘下に入り、下野半島や常陸南部にまで従属勢力が及んでいきました。