
これは、知行高の推移を見ればほぼ間違いないでしょう。
ただし重要なのは、最初から秀吉は重臣だったのではなく、兄弟セットで上役には叱られ殴られながら辛抱してチャンスを掴み、ただ、がむしゃらに出世をしたいたい、寧々と結婚したいの思いを抱いて他に例をみない出世欲で信長に取り入っていった結果でした。
豊臣秀吉と織田信長は、単なる主従関係ではなく主従を超えた、実力主義に基づく「主人と絶対的な有能家臣」の距離感でした。
▲信長の子供たち
信長の草履取りから織田家の重臣へ這い上がった、秀吉は信長の合理主義を体現し、養子を預けられる※1ほどの信頼と、時に恐怖を感じさせる従属関係の中の這い上がりに徹していた。
※1.養子を預けられるとは、秀吉が織田信長から養子として預けられたのは、信長の4男である於次丸、のちの羽柴秀勝※2です。
※2.羽柴秀勝とは、永禄11年(1577年)、信長と側室・養観院の間に4男として生まれ、幼名・於次丸(後の羽柴秀勝)が、天正5年(1577年)頃、信長の家臣であった羽柴秀吉の養子となった。
本能寺の変の前の天正10年(1582年)実父・信長の命により中国征伐へ出征すると、備前国児島郡にあった常山城(現・岡山市)で初陣を飾り、同年4月には「備中高松城の戦い」にも参加。
しかし、実父・織田信長が本能寺の変で明智光秀の謀反により討ち死、その後、養父・秀吉と兄・織田信孝と共に明智光秀に報復、その後、織田家遺領の分配で羽柴秀勝は丹羽亀山城を与えられた。
その後、天正11年(1583年)に「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」にて活躍するも病弱にため居城であった丹羽亀山城で病死18歳した。
そんな中、織田信長の家臣団には数多くの名将が名を連ねるが、その中で最も急激に、そして異例の出世を遂げたのは誰だったのか。
知行高という客観的指標から見えてくるのは、やはり「豊臣兄妹」という存在の突出風である。
藤吉郎(秀吉)の知行高の推移
藤吉郎の出発点は、身分が低い足軽の息子で貧乏だった者に、知行などあるわけがないに等しい状態だった。
はじめは、信長の草履取り、雑用係、使者、連絡係の大忙し、戦があると小一郎(秀長)共々駆り出されるが、要領のいい二人は主君の意図を察して先回り、武将と武将の間を円滑に繋いだり、信長にとっていないと困る存在になっていきます。
また、清洲城では、倉庫管理、兵糧調達、人夫・資材の手配、戦場で剣を振るうよりも「戦争を成立させる能力」で評価される、ここで信長の合理主義にハマった。
美濃攻略に参加
木下藤吉郎(秀吉)が墨俣城を築いたのが、永禄4年(1561年)とも永禄9年(1566年)ともいわれていますが、ちなみに1561年は斎藤義龍が急死、その嫡男・斎藤龍興が跡を継いだ年で、この年に信長は美濃に出兵して勝利(森部の戦い)をしています。
でも、この年は、桶狭間の戦いの翌年であるため怪しい。
もう一つの1566年の方は、西美濃3人衆、稲葉良達・氏家直元・安藤守就の調略に成功しており、いよいよ稲葉山城を攻略する前年になります。
家臣の誰もが期日までに成し得なかった、墨俣の築城を木下藤吉郎兄弟が成し遂げて、織田軍は美濃を征服し秀吉は、ここからトントン拍子にで出世していきます。
藤吉郎の最大の武功は、戦より「人を寝返らせた」こと、竹中半兵衛(重治)や西美濃3人衆に面談したり条件提示したり主人の信長様の将来像を語ったり不安を一つずつ取り除いた調略でした。
※.上記の竹中半兵衛をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
稲葉山城攻略は、永禄10年(1567年)、美濃国井口口(現・岐阜市)にある稲葉山城を奪取して岐阜城と改名して居城とし天下布武の朱印を用いた。
秀吉に美濃攻略後の論功行賞
織田信長は美濃攻略後(特に墨俣城の築城や竹中半兵衛・西美濃3人衆の調略)に木下藤吉郎(秀吉)に論功行賞を与えた。
当時の織田家において唯一無二の「戦わずに勝つ」という高度な軍事・政治的手腕を発揮し、長年の懸案だった美濃攻略の突破口を切り開いた。
墨俣城の難題・鵜沼城の難題の達成、美濃攻略の調略(戦わずに勝つ)の褒美として長浜城を3万石で任される。
秀長の知行高(影の立役者が異常に厚遇される)
小一郎(豊臣秀長)は百姓出身で兄・藤吉郎と共に働くも、織田信長の家臣ではない。
あくまで兄・藤吉郎の家臣で、信長との関係は陪臣※3でした。
※3.陪臣(ばいしん)とは、主君(大名など)の直接である「直臣」に仕える家来の家来のことです。江戸時代、将軍からみて大名や旗本の家臣は陪臣とされ、直参(幕臣)とは明確に区別されて格下とみなされていました。
秀長は織田信長の家臣なのか
豊臣秀長と織田信長の関係は、「家臣かどうか」。
秀長は、信長の軍団の中で先陣をつとめるほどの位置にいながら、同時に兄・秀吉の部隊を支える補佐役としても動いていました。
戦いの記録では、伊勢長島一向一揆との戦いなどで「木下小一郎」あるいは「木下小一郎長秀」といった名で登場し、信長側の先陣を担う姿が描かれます。
これは、秀長が織田家臣団の外れではなく、織田方軍勢の中で役割を与えられ、名指しされる立場にあったことを示します。
一方で、兄・秀吉が別の方面を任される際には、その代理として派遣されることもありました。
こうした史料をつなぎ合わせると、「秀長は信長の家臣として認識されつつ、実務面では秀吉の与力として動いた人物」と見るのがもっとも自然です。
「信長の家臣ではなかった」「完全な直臣だった」と両極端に振れるよりも、この中間的な理解の方が、残された記録とよくかみ合ってきます。
「長秀」の長は信長の偏諱なのかを検討
「長秀」の「長」が信長の一字をもらった偏諱なのかどうかは、秀長と信長の距離感を語るうえでよく取り上げられる話題です。
偏諱とは、主君が自分の名の一字を家臣に与える印であり、特別な信頼の証とされることが多いからです。
史料上、「小一郎長秀」といった表記が現れる時期と、信長の勢力拡大の時期が重なることから、「この頃に信長から『長』の字を与えられたのではないか」とする説があります。
ただし、「信長が一字を賜った」ということをはっきり書いた同時代の記録は見つかっていません。
羽柴小一郎は信長の直接な家臣ではない。
織田信長が存命中に羽柴小一郎(後の豊臣秀長)に対して、信長自身が直接「褒美(領地や感状など)」を与えたという明確な一次史料の記録はほとんどありません。
これは小一郎が冷遇されていたわけではなく、当時の「組織構造」が理由です。
なぜ信長からの直接の褒美がないのか?
当時の織田軍団は、信長を頂点としたピラミッド型の組織なので、信長に直接仕える家臣(柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀など)には与えるが、陪臣には与えることはなかった。
小一郎はあくまで「羽柴秀吉の家臣(弟)」という立場でしたので、そのため、小一郎が戦功を挙げた場合、その功績はまず主君である秀吉の評価となり、信長は秀吉に褒美(領地加増など)を与えます。
そして、秀吉が自分の持ち分の中から小一郎に分け与える、というのが当時のルールでした。
信長と小一郎の関係を示すエピソード
信長が直接褒美を与えた記録は乏しいものの、小一郎の有能さは信長の耳にも届いていたと考えられます。
秀吉が中国地方を攻略している間、小一郎は播磨(兵庫県)などの統治を任されていました。
信長にとって、物流や後方支援を完璧にこなす小一郎は「羽柴軍団の屋台骨」として、間接的に非常に重宝される存在でした。
信長への拝謁
天正年間、秀吉が信長から長浜城を与えられた際や、重要な合戦の報告の場などで、小一郎が信長に直接目通りした可能性は極めて高いです。
しかし、それはあくまで「秀吉の副官」としての立場でした。
小一郎が「直接」報われたのは信長の死後でした。
小一郎が信長から直接「大名」として取り立てられるようなことはありませんでしたが、信長の死後、秀吉が天下人へと駆け上がる中で、小一郎は兄を支えた最大の功労者として大和郡山100万石を領するまでになります。
もし、小一郎が信長の直臣(たとえば、秀吉から独立した軍団長)であれば、信長から直接「名刀」や「領地」を賜る機会もあったかもしれません。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって、弟の小一郎(秀長)は単なる親族ではなく、「自分に代わって軍を預け、領地を任せられる唯一無二の分身」でした。
秀吉が小一郎をどのように評価し、どのような領地を与えていったのか、その過程を整理しました。
1. 秀吉からの評価: 「内政と軍事のパーフェクト・バックアップ」
秀吉は小一郎に対し、絶大な信頼を寄せていました。その評価は以下の3点に集約されます。
「調整能力」の天才: 気性が激しい秀吉に対し、小一郎は温厚で誠実な性格でした。諸大名との交渉や、秀吉へのとりなし役として、「小一郎に相談すれば間違いない」と周囲からも頼りにされていました。
「後方支援」のプロ: 兵糧の調達や輸送など、地味ながら勝敗を左右する「補給」の面で秀吉を完璧に支えました。
「軍事」の代行者: 秀吉が信長や朝廷との外交で動けない時、山陰攻略や四国征伐などの大軍を指揮する総大将を任されました。
2. 領地変遷のプロセス
小一郎の領地は、秀吉の出世に合わせるように爆発的に増えていきました。
時期 主な領地 石高(およその規模) 役割・背景
織田政権下 近江・長浜の一部、但馬(兵庫県北部) 数万石〜10万石程度 秀吉の中国攻略の拠点として但馬を平定・統治。
信長死後 (1583年) 播磨・姫路 約20万石 賤ヶ岳の戦いの功績。秀吉の旧本拠地を任される信頼。
紀州平定後 (1585年) 紀伊・和泉(和歌山・大阪南部) 約64万石 大軍を率いて紀州を平定した功績で国持ち大名へ。
四国平定後 (1585年) 大和・和泉・紀伊 約110万石強 大和郡山城に入り、「大和中納言」と呼ばれる。
3. 「豊臣政権の柱」としての役割
秀吉が小一郎に100万石超という破格の領地(徳川家康などの有力外様大名に匹敵する規模)を与えたのは、単なる身内びいきではありませんでした。
「大和(奈良)という宗教勢力や古くからの勢力が強い難しい土地を治め、かつ西国(九州・四国)への睨みを利かせる」
という極めて高度な政治的ミッションを、信頼できる小一郎にしか任せられなかったからです。秀吉は後に「内々のことは小一郎に、公のことは千利休に」と言われるほど、政権の運営を彼に依存していました。
余談:もし小一郎が長生きしていたら
小一郎は1591年、秀吉が天下を統一した直後に病死してしまいます。もし彼がもっと長生きしていれば、後の「関ヶ原の戦い」は起きなかった、あるいは豊臣政権がもっと長く続いたのではないか、と多くの歴史家が推測するほど、その存在は大きかったのです。
小一郎が亡くなった後、彼が治めていた100万石の領地や、彼の家臣団がどうなったかについても興味がありますか?
信長→秀吉→秀長の役割の位置づけ
豊臣秀長は大名としては重要な人物でありながら、若い頃の記録が少なく、どうしても後世の物語が入り込みやすい人物です。
そのため、どこまでが確実で、どこからが推測なのかをはっきりさせながら話を進めていきます。
そのうえで、信長と秀長の「距離感」を測るものさしを三つ用意します。
第一は、同じ場に居合わせた場面や名指しの命令といった「直接接点」。
第二は、「信長⇒秀吉⇒秀長」という命令の流れがどれくらいはっきり見えるかという「指揮系統」。
第三は、軍記・発給文書などにどの程度具体的に名前が出てくるかという「記録量と中身」です。
「美濃攻め(稲葉山城までの流れ)」は、境目にあった鵜沼城がなぜ重要だったのかは、鵜沼城とは?どんな城で、なぜ「美濃攻め」に必要だったか。
秀長と同時代に書かれた史料、『信長公記』や信長・秀吉の周辺が出した文書などに、秀長の名前が直接出てくる部分です。
若い頃の秀長は、記録の上では長いあいだ影の薄い存在です。
『信長公記』では、伊勢長島一向一揆との戦いなどに「木下小一郎」あるいは「木下小一郎長秀」といった名で現れます。
何故、秀長ではなく長秀になっているかというと信長が生きてる間は信長につけてもらった名前です。
秀吉の手紙では「弟の小一郎」という表現が見えます。
『信長日記』に初登場の木下小一郎
天正2年(1574年)長島攻めで「木下小一郎(長秀)」が登場、織田方軍勢の一員として名指しされる立場として。
豊臣秀長(木下小一郎/長秀)が史料の上で比較的くっきりと姿を現す場面の一つが伊勢長島一向一揆との戦いです。
ここから確実に言えるのは、秀長が単なる周辺の雑兵ではなく、戦場で何らかの役割を与えられた「名のある武将(家臣層)」として扱われている、という点までです。
また、兄の秀吉が別方面を担当していた時期があることを踏まえると、秀長が兄とは別の配置で行動していた可能性は考えられます。
また、天正6年ごろには、秀吉が黒田官兵衛を「自分の弟の小一郎と同じくらいに親しい」と書く手紙が残されており、秀長が秀吉にとって重要な身内であったことがはっきりします。
ただし、ここで語られているのはあくまで秀吉と秀長の関係であり、「信長と秀長の距離」がどれほど近かったかまでは、この文面だけでは読み取れない。
「秀長が織田家臣としてはっきり登場するのは天正元年〜2年頃だと思います。
織田家臣としての豊臣秀長と信長の指揮系統
織田政権の中での信長・秀吉・秀長の位置関係は、豊臣秀長と信長の距離感を理解するには、まず織田政権の中での3人の位置関係を知る必要があります。
勿論、頂点には織田信長がおり、その下で中国方面の攻略を任されたのが羽柴秀吉、さらにその秀吉を支えたのが弟の秀長で、ここで「家臣」という言葉が見えてきます。
信長は各方面に有力家臣を派遣し、その方面軍の長に広い裁量を与え、秀吉は中国方面を任され、その内部で秀長が使番や留守居、代理出陣などを通じて支える役目を担います。
一方で、伊勢長島攻めのように、信長本隊に付属する形で戦う場面もありました。
このように、秀長は「信長の直臣である秀吉」の弟として、信長と秀吉をつなぐ中間の位置にいたと言えます。
軍事行動から見る信長と豊臣秀長の「直接接点」
中国攻めでの豊臣秀長と織田家臣団の動き見ると、軍事行動の流れの中で秀長を追っていくと、信長との「直接接点」がどこにあったか、中国攻めの時期、秀長は主に秀吉の軍団の一員として行動しましたが、その背後には信長の大きな戦略がありました。
信長が中国方面を秀吉に一任し、その支え手として秀長を配置した形です。
伊勢長島攻めのような戦いでは、秀長は信長本隊に近い位置で先陣をつとめることもあれば、のちの中国方面では秀吉の代理として各地の攻略に参加したと推測されます。
こうした場面では、信長と同じ戦場に立ち、全体の軍勢の一員として指揮を受けていたことは確実です。
ただし、二人の具体的な会話や細かな指示のやりとりまでは記録されていません。
秀吉が前線に出ているあいだ、背後を支える留守居の役割は、信長との関係を考えるうえで重要な鍵になります。
秀長は、兄の出陣中に拠点を任されることが多かったと考えられ、これはそのまま信長の戦線を安定させる仕事でもありました。目立たないものの、政権運営の土台を支える役割を担っていました。
播磨・中国方面の拠点では、兵糧の管理や城下の統制、家臣団の統率といった、地味だが重い仕事が欠かせません。
秀長がのちに大和一国を任されるまでになったことを考えると、こうした留守居の経験が評価につながったと見ることができます。
秀長大和郡山城を任される
永禄11年(1568年)10月に織田政権初進出し足利義昭を奉じて上洛した直後、松永久秀が信長に降伏・臣従し、信長に大和の支配権を認められた。
元亀2年(1571年)に大和の有力国人であった筒井順慶が信長に臣従した松永久秀と和睦以降、大和の支配は信長によって筒井順慶へと移っていきます。
信長に反旗を翻した松永久秀が、信長軍に敗れて降伏、多聞山城を明け渡し完全に織田政権下の大和支配が安定し、天正8年(1580年)に筒井順慶が信長の命により大和郡山を正式に支配して郡山城を築城し入った。
その頃、兄・秀吉は、中国攻めに、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)の命を受けて毛利輝元の勢力圏である山陰道・山陽道を攻めていた。
足掛け6年にかかる戦いをしてたところ主・信長が討たれたという一報で毛利軍と和睦して明智光秀を討ちに行って勝つ。
天正12年(1584年)に筒井順慶が36歳で死去し、後継の筒井定次が翌年に伊賀上野に転封された後、天正13年(1584年)から豊臣秀長が大幅に拡張し現在の郡山城になった。