美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川二十八神将・安藤直次

【豊臣兄弟】安藤直次とは何者?池田元助を討った戦功と生涯

投稿日:2026年9月17日 更新日:

安藤直次の生涯や小牧・長久手の戦いでの活躍は、歴史ファンや大河ドラマ『豊臣兄弟!』の視聴者にとっても興味深いテーマですね。

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる羽柴秀吉と徳川家康の激突「小牧・長久手の戦い」。

この戦いで、秀吉陣営の猛将・池田元助を討ち取る大功を挙げたのが、徳川方の武将・安藤直次です。

 

徳川二十八神将の一人にも数えられる安藤直次は、単なる武功の士にとどまらず、のちに紀州藩の礎を築いた優秀な政治家※1でもありました。

※1.紀州藩の礎を築いた優秀な政治家とは、安藤直次は、江戸幕府の草創期を支えた実力派の政治家・武将であり、紀州藩(和歌山藩)の初代藩主・徳川頼宣を支える「付家老(つけがろう)」として、紀州藩の強固な政治的・軍事的基盤(礎)を築いた優秀な人物です。 

直次が優秀な政治家として評価される主な理由は、以下の3点に集約されます。

幕府老中としての高い行政能力と経験、安藤直次はもともと徳川家康に幼少期から仕えた生粋の三河武士で、戦場での武功だけでなく、卓越した行政手腕を持っていました。

関ヶ原の戦い以降は、江戸幕府の初期「老中」(年寄衆)を務め、本多正純や成瀬正成らとともに幕政の最高中枢で国家の舵取りを行っていました。

このように「天下の政治」を直接動かしていた大物政治家が、新設された紀州藩のバックアップに回ったことが、藩の安定に直結しました。

安藤直次は、江戸幕府の草創期を支えた実力派の政治家・武将であり、紀州藩(和歌山藩)の初代藩主・徳川頼宣を支える「付家老(つけがろう)」として、紀州藩の強固な政治的・軍事的基盤(礎)を築いた優秀な人物です。

幕府老中としての高い行政能力と経験、直次はもともと徳川家康に幼少期から仕えた生粋の三河武士で、戦場での武功だけでなく、卓越した行政手腕を持っていました。

      ▲安藤直次

 

 

安藤直次とは?家康に仕えた徳川二十八神将の一人

徳川家康の天下取りを支えた名臣たちの中でも、武勇と政治力の双方で際立った存在感を放ったのが安藤直次です。

家康の譜代家臣として若き日から仕え、のちに「徳川二十八神将」の一人に数えられました。

 

 

幼少期から家康を支えた側近

安藤直次は弘治元年(1555年)、徳川家の旧臣※2である安藤基能の長男として生まれました。

※2.旧臣、(きゅうしん)とは、古くから仕えている家来や、かつて仕えていた昔の家臣のことです。

 

幼少期から家康の側近(近習)として仕え、初陣となった姉川の戦いをはじめ、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いといった徳川家の存亡をかけた数々の激戦に参戦。

常に最前線で家康を護り続け、確固たる信頼を獲得していきました。

 

 

 

武勇だけでなく政治にも長けた才人

安藤直次の真価は、単なる戦場での武功にとどまりません。

戦国期から江戸幕府の草創期にかけて、家康の側近として行政や実務にも深く関わりました。

 

 

優れた洞察力と実務能力を兼ね備えていた直次は、幕府の初期行政を支える実務派としても重宝され、徳川家の基盤を固める上で欠かせない存在となっていったのです。

 

 

小牧・長久手の戦いでの大功!池田元助を討ち取った激闘

 

 

安藤直次の名を一躍轟かせたのが、天正12年(1584年)に起こった「小牧・長久手の戦い」です。

 

 

羽柴秀吉と徳川家康が直接対決したこの大戦役において、安藤直次は戦局を大きく左右する大功を挙げました。

 

 

 

羽柴軍の「中入作戦」を打ち破る

膠着状態が続いていた戦況を打破するため、羽柴軍の池田恒興・元助親子や森長可らは、家康の本拠地である岡崎城を奇襲する「中入(なかいり)作戦」を敢行します。

 

しかし、この動きを事前に察知した家康は素早く追撃を開始。

 

 

長久手の地で逃げる羽柴軍の別動隊を捕捉し、激しい挟撃戦へと持ち込みました。

 

 

弓を手に応戦し、敵将・池田元助を討伐

乱戦を極める戦場の中で、直次は弓を手に応戦し、敵陣へ縦横無尽に矢を放ちます。

 

そして、混戦の中で羽柴軍の主力を率いていた猛将・池田元助(池田恒興の長男)と対峙すると、見事にこれを討ち取りました。

  ▲安藤直次のイメージイラストです。

 

敵の主力将校を討ち取ったこの圧倒的な武功は家康からも高く評価され、直次の武名はいっそう確固たるものとなったのです。

 

 

 

紀州徳川家の礎を築く!頼宣を支えた「付家老」

小牧・長久手の戦いや江戸幕府の初期行政で手腕を発揮した安藤直次は、晩年を迎えると徳川家の未来を左右する極めて重要な任務を託されることになります。

 

それが、御御三家の一つとなる紀州徳川家の確立と、幼い藩主の補佐でした。

 

 

 

徳川頼宣の付家老として紀州藩へ

慶長15年(1610年)、直次は家康の十男である徳川頼宣の「付家老(つけがろう)」に任命されます。

 

付家老とは、将軍家から幼少の藩主や重要藩へ派遣され、藩政の実権を握りつつ指導・監視を行う重臣のことです。

   ▲和歌山城

 

安藤直次は、紀伊国田辺(現・和歌山県田辺市)に陣屋(紀伊田辺城)を構え、3万8,000石(のちに加増され5万5,000石)を領する筆頭家老として、西国の重鎮である紀州藩の土台作りに邁進しました。

 

 

大坂の陣での逸話と藩政への貢献

慶長19年(1614年)11月から12月に始まった「大坂の陣」では、初陣となる14歳の徳川頼宣に従軍します。

 

このとき、功を焦って先陣を切ろうとする若い頼宣に対し、直次は馬の抑えを掴んで「大将の役目は先陣で槍を振るうことではなく、全軍を指揮することにあります」と厳しく諫め、頼宣に大将としての心構えを諭したという逸話が残されています。

 

 

戦後も直次は家老として手腕を振るい、和歌山城下町の整備や紀州藩の諸制度の確立に尽力しました。

 

徳川頼宣からの信頼も非常に厚く、直次が寛永12年(1635年)に81歳で没するまで、紀州徳川家が御御三家筆頭としての揺るぎない地位を築くための礎を支え続けたのです。

 

 

 

まとめ

安藤直次は、武功と政治力で徳川家を支えた隠れた名将の安藤直次は、小牧・長久手の戦いで池田元助を討ち取るほどの勇猛さを持ちながら、江戸幕府の初期行政や紀州藩の藩政確立を支えた卓越した政治力も併せ持った名将です。

 

『豊臣兄弟!』でも大きく描かれる秀吉陣営と徳川陣営の駆け引きや決戦の背景には、直次のように武功と実務の両面で家康を支え続けた臣下の存在がありました。

 

 

こうした隠れた名将の活躍や人物像を知っておくことで、ドラマの合戦シーンや人間ドラマがより深みを増して面白くなるはずです。

 

 

-徳川二十八神将・安藤直次

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。